「自分の道に心を留めよ」2021.2.21
ハガイ書 1章1~15節

 今日はハガイ書から、神の御言葉を聞きましょう。「ハガイ」とは、「もろもろの祭り」という意味です。ハガイの個人的なことはほとんどわかりません。ハガイの語る預言は、ほとんど一つの主題にしぼられています。神殿再建についての主の御命令です。民が心を神に向けて神殿建築を行うなら主なる神はそれを喜んでくださり、栄光を受ける、と言っておられます。私たちは、主なる神に喜ばれることを行っているのでしょうか。


  1.民の考えと主の御心の違い

 このハガイ書は、日付が書かれており、それが時間順に出てきます。今日の箇所では、冒頭に、ペルシャのダレイオス王の第2年6月1日にハガイを通してユダの総督と大祭司に主の言葉が臨んだ、とあります。これは、今日の太陽暦で言うと紀元前520年の8月29日です。ゼカリヤとほぼ同じ時代、バビロン帝国に侵略され、都エルサレムが陥落してからすでに65年以上経過していました。その間、バビロンもペルシャによって陥落したのでした。ハガイはエズラ記に預言者ゼカリヤと共に2回名前が出てきます(5章1節、6章14節)。

 彼らの預言によって、ハガイ書にも登場するゼルバベルとヨシュアは、中断されていた神殿建築を再開しました。預言者たちの語る主の言葉は、人々を動かし、神の業を行うようにと励まし、促し、力づけたのでした。預言者の語る主の御言葉は、時代を超えて今日の私たちをも力づけてくれます。

 このころ、エルサレムに帰還した人たちがいたのですが、神殿建築を妨害する人々もおり、中断していたのでした。そのような中でハガイは預言し、主の御心を告げました。人々は「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」と言っていました。この言葉は、一見すると冷静に判断しているかのように見えます。今日の私たちでも、慎重に物事を判断しているように見えるけれども、実は確信がないから、ということがあるでしょう。このハガイの預言では、民は慎重な物言いをしていましたが、その実、自分たちの家を建てること、それをより良くするために、また自分の身の周りのことに気を奪われて、神の神殿が廃墟であることを心に留めていないのでした。

 主なる神は、天地の造り主であられます。イスラエルにおいて、神の神殿を最初に建てたソロモン王は、神殿を建てた後に祈っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8章27節)と。神殿に神が文字通り住んでおられるわけではありません。しかしそこで神を礼拝し、神はそこで賛美と祈りを受けてくださいます。ですから、旧約聖書において神殿を尊ぶのは、あくまでも主を敬ってあがめ、礼拝する者が集うことによって、そこに神もおられて礼拝を受けてくださるからです。神殿の建物そのものが神聖である、というよりもそこで民と出会われる神が臨んでくださる場であるからこそ尊ぶのです。

 それでハガイが語るように、神の神殿が廃墟のままであるのに、民は自分の家のためにばかり走り回っているとするなら、人々は結局神よりも自分のことを優先している、ということになるのです。


  2.自分の歩む道に心を留めよ

 さて、このハガイ書を見ていきますと、今日の朗読箇所に、2回出てくる言葉があります。今日の題にとりあげました、「自分の道に心を留めよ」という戒めです(5節、7節)。そして少し違う言い回しですが、「この日からの以後、良く心に留めよ」という戒めです(2章15節、18節)。自分の歩む道とは、今歩いている道のことですし、歩こうとしている道、とも言えるでしょうが、ここでは特に今歩いている道、自分たちの日々の状態をよくよく顧みてみよ、と主なる神は命じておられるのです。

 それは、結局、主の神殿が廃墟となっているのに、自分たちのことばかり考えて、動き回っていることを知りなさい、ということです。果たしてそのままでよいのかどうか、自分の歩むべき道について心を留めて良く考えなさい、と主は命じているわけです。そして、主なる神は、心を留めよ、と命じておられますが、それはただじっと座りこんで考えているのではなく、「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ」と命じておられるように、主の喜ばれる道を歩み出せというのです。このように直接に命じていただけることは、実は幸いなことです。言われたとおりに登って切り出して、建てる、という一連の行動に移れば良いのですから。そうすれば主は喜び、栄光を受ける、と主は言われます。

 とはいうものの、やはり、自分の道に心を留めて省みる必要があります。収穫を期待していたのにわずかであったことは、主なる神が吹き飛ばしたからだ、と言われているように、事がうまく運ばなかったのはなぜかを悟るべきだと主は言われます。

 今日、見に見えるものを第一とし、科学で解明できることしか信頼せず、目に見えない神の存在など認めようとしない人々は世の中に大勢いることでしょう。そして天が雨を降らさず地が産物を出さないとしても、それは単に気象状況が悪かったから仕方ない、と考えてしまいます。旱魃も常に乾燥地帯では起こります。確かに私たちは一つ一つの気象現象を、全て人間の罪を裁く、主の裁きの現れだ、と決めてかかることはできません。そのように預言者たちが語った時と全く同じように考えるわけにもいきませんが、それでも私たちも自分の道を心に留めなければなりません。主が喜ばれ、主の栄光が現されることを望んで、それを行っているだろうかと。


  3.共にいてくださる主のために

 ハガイが主から遣わされてゼルバベルとヨシュアに遣わされた時、この二人は主なる神の御声に耳を傾けました。そして民も主を畏れ敬ったのでした。預言者を通して語られた主の御言葉に聞き従ったのです。そして主から遣わされた主の使者であるハガイは、聖書全体を通して一貫して語られる主の約束の御言葉を告げます。「わたしはあなたたちと共にいる」と。

 この主の約束を信じたゼルバベルとヨシュア、そして民の霊は奮い立たせられたので、彼らは行動に移りました。作業に取りかかったのは6月24日のことでした。太陽暦で言うと9月22日、つまり主がハガイを通して最初に語られた時から23日後、約三週間後に作業に取りかかったのでした。その間、人々は何をしていたのでしょうか。それは書いていないのでわかりませんが、山に登り、木を切り出して、神殿を建てるために、まず祈り、そして考え、話し合ったのではないでしょうか。善き知恵を授かってすべてが良く運ぶように祈り続けたことでしょう。そして、どのような作業手順を取ったらよいかを考え、どれだけの人員を用いて、誰が何をやるかという役割分担をしたことでしょう。それは主が彼らの霊を奮い立たせられたからです。

 今日の私たちも、全く同じように、救い主イエス・キリストから、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」との力強い約束をいただいています(マタイによる福音書28章20節)。ハガイを通して語られた同じ主が私たちの霊をも奮い立たせてくださいます。私たちにもまた、主から与えられた歩むべき道があります。個人個人としての道がありますが、一つの教会に召し集められた者として、共に歩みます。

 私たちにとって「山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ」とのご命令は、何でしょうか。主イエスの約束を信じて共に信仰の道を歩み、御言葉に信頼し、その力により頼み、そして教会を築いてゆくこと。霊的に経済的に教会が強められるように祈り、考え、話し合うこと。区画整理も近づいてきます。その時期が来たなら、どのように対処してゆくのがよいのか今から祈り続けて備えてゆくこと。

 そういったいろいろなことを通して、どのようにしたら主が喜ばれるだろうか、主の栄光を現すことになるだろうかと祈り求め、自分の歩む道を心に留めましょう。自分の信仰と生活を主に喜ばれるものとしていただくこと。そして自分たちの、つまり教会としての歩む道に心を留め、今後もまた、良く心に留めねばなりません。神の家である神の教会が廃墟になるようなことが決してないように、主が取り計らってくださるように、共にいてくださる主イエス・キリストの約束を信じて主の栄光を現せるように祈りをもって歩みを続けてゆきましょう。

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