「神と人の間に立つイエス」2021.2.14
 テモテへの手紙一 2章1~7節 

 先日の2月11日は、日本の祝日としては「建国記念の日」でした。昨年も言いましたが「建国記念日」ではなく、あくまで建国記念の日です。歴史的に、この日を特定することができないので「記念の日」としていることを覚えておきましょう。キリスト教会の側では、「信教の自由を守る日」として位置付けています。日本国憲法では、どの宗教の教えを信じて生きようがその自由は、誰に対しても保障されており、いかなる宗教団体も国から特権を受けたり、政治上の権力を行使してはならないこと、また、だれも宗教上の行為、祝典、儀式、行事への参加を強制されないこと、国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならないことが定められています(憲法20条)。中部中会でも2・11集会が開かれ、天皇制の問題とクリスチャンとしてどう歩むべきかについて講演がなされました。その報告をここではしませんが、後で講演記録を読んでいただけます。私たちの信仰は、誰にも妨げることはできません。今日はこのテモテへの手紙から、私たちの祈りについてと、神が私たちの救いのために何をお考えになっておられるか、という点を教えられています。そして特に、私たちの信仰の対象である救い主イエス・キリストというお方について、大変大事なことが教えられていますので、御言葉の教えに良く聞きたいと思います。


  1.すべての人々のための祈り

 まず、著者の使徒パウロは、力強く戦うようにと1章で語った後、教え子であり、同労者である伝道者、牧会者であるテモテに祈りについて勧めます。テモテはエフェソの教会で牧師、伝道者として務めに当っていました。彼はまだ年若い人です。彼がその務めを果たしてゆくために、願いと祈りと執り成しと感謝を捧げるように、しかもすべての人々のためにささげるように、パウロは勧めます。この場合のすべての人々というのは、テモテが関わっている教会の人々、接する機会のある町の人々すべて、という意味ですが、さらに、王たちやすべての高官たちという、国の為政者たちのためにもささげなさい、と命じています。

 ところで、王たちや高官たち、というのは国の為政者や統治者ですが、日本における天皇という存在はどうでしょうか。天皇は為政者ではありません。国事行為を法律に則って行いますが、政治的権力は持っていません。また、上に立つ権威でもありません。ですから、為政者たちのために祈る時に天皇は含みません。天皇という存在は、一つの偶像というべき存在です。国政に当る為政者と同じ位置づけで祈りを献げるべき存在ではないといえます。しかし、一人の人間として見た場合には、神の前の一人の罪人に過ぎない、ということは確かです。

 さて、為政者がどのように国を動かし、政策を進めようとしているかは、大変大事なことですが、私たちは、立てられている為政者たちがより良い判断をして相応しい働きをなし、国民の福祉の増進や平和の構築、生活と経済をより良く築いて行けるように祈ります。パウロは、そのことはひいては私たちの生活が平穏で落ち着いたものとなるためだと言っています。信心と品位を保つためでもあります。


  2.神が望んでおられること

 そして、なぜすべての人のために祈るのか、という理由が次に述べられます。それは、神がすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからだ、と。神は全世界の造り主であられ、主権者であられます。ですから、世のすべての人は、神によらなければ救われません。言い換えれば神が遣わされた救い主イエス・キリストによる以外に救いはありません。ですから、全ての人にとって、救いの道はイエス・キリストしかない、というのが聖書の教えです。ですから、全ての人がこのイエスのもとに来て救われること、それが神の御心なのです。

 さらに、救われる、とは真理を知るようになることだ、と言っています。真理を知って救われるのではなく、救われて真理を知るようになる、と言われています。救われる、とは、神の前に罪を赦されて、神の子どもとされることであり、神の国の一員としていただけること、栄光の神の国へ入れていただくということです。私たちにとって、最大の祝福です。ところが、救われることは、真理を知ることでもあります。神と私たちの関係、この世界の存在、もちろん神御自身についての真理。また、主イエスは御自分のことを真理である、とも言われました(ヨハネによる福音書14章6節)。そしてこの場合、ただ知識としては知っているけれどもそれだけ、というのではありません。真理を知ることは救われることと結びついていますから、神の真理に目を開かれていることは、神を知り、神を愛することでもあります。神は、その独り子である御子イエス・キリストをお遣わしなるほどに私たちを愛してくださったのですから、それを知らされたものは、当然のこととして神を愛する者へと変えられるのです。

 ですから、ここで言う「知るようになる」とは、ただ聞かれたら答えられる、という質問に答えられる知識を持っているという次元のことではなく、愛し敬うべき存在、従い、その栄光をほめたたえるべき方だと知って、そうすることなのです。


  3.神と人との間のただ一人の仲介者

 その神についての真理の中でも、「神と人との間の仲介者は、人であるイエス・キリストただお一人である」ということは、最も重要な真理です。私たち人間は神の前に背き、罪を犯しています。神と私たちの間には大きな隔たりがあり、私たちの目から見て正しいと思える行いも神の前には罪に汚れたものです。その大きな隔たりを埋めて、私たちと神との親しい交わりを回復し、もう二度と壊れることのないようにしてくださったのが、救い主イエス・キリストです。そのために御自身を十字架において罪の宥めの供え物として献げてくださり、私たちの罪を取り除いてくださったのでした。

 私たち人間が神に対して犯した罪は、人間が償わなければなりません。それで神の御子は人となり、人の罪を背負って罪の償いを成し遂げてくださったのです。こうしてイエス・キリストは私たちのための大祭司となってくださいました。通常大祭司は、人の罪の償いをするために犠牲の献げ物を規定に従って献げます。ところがイエス・キリストという大祭司は、自分自身を献げたのでした。こんな大祭司は後にも先にも、イエス・キリストだけです。

 今日は、初めに天皇のことを少しお話ししましたが、天皇という存在は、神道における祭司の役割を担っています。しかし、自分を献げて、民を贖うことまではしません。儀式を執り行いますが、自分自身を犠牲として献げて民を救うことはしないし、できないのです。

 私たちは、救い主イエス・キリストこそ、それをなさった方、なし得る唯一の方であると信じているものです。そして、このイエス・キリストに神との間の仲介者になっていただくならば、私たちは神の前に罪を赦され、受け入れていただき、救われるという恵みにあずかれるのです。神はそのことを望んでおられます。神が望んでおられるのですから、救いの道は確かにあります。神がその道を備えてくださったので、その道に入ってゆき、ゆだねれば救われる。私たちは、このような神様をいただいています。ただ正しく、厳正に人の罪を裁き、罰を与えようとする恐ろしい裁判官なのではありません。確かに正しく人の罪を裁かれますが、裁判官自ら赦しの道を用意してくださって、償いまでしてくださっている。人間の世界にはこんな裁判官はいません。

 また、神の裁きは神の基準でなされるのですから、神御自身が満足されるような償いでなければ、罪を償うこともできません。それができるのは、神の御目に適う救い主だけです。それがイエス・キリストという仲介者です。この世の社会でも、人が誰かに何か重大なことを頼む時、仲介者に入ってもらうことがあります。その仲介者が信用できるから、頼まれた方も引き受けることができます。神と私たちの間に入って、確実に私たちの罪を赦していただくための仲介ができるのは、神が立てられた罪なき仲介者であるキリスト以外にはあり得ません。この方により頼むことによって、私たちは神に近づき、赦しをいただき、もはや罪を罰せられるとか罰するとかいう関係ではなく、はばかることなく近づき、共に生きる存在として神と共に生きられるようにしていただけるのです。それにより、この世でも本当の意味で「平穏で落ち着いた生活」へと導いていただけます。常に仲介者イエス・キリストに従い、その御声に聞いて歩み続けることが、真の幸いであります。

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