「渇きをいやす生きた水」2021.1.31
ヨハネによる福音書7章25~39節
私たちは、このヨハネによる福音書から、イエス・キリストというお方のなさったこと、語られたことを聞き、学んでいます。その場合、歴史上の人物の良い言葉を聞き、人生を生きていくための良い指針としたいとか、少しでも人間として良い生き方を学びたい、という思いで読む人も一般にはおられるかもしれません。私たちが誰かの言葉や行いについて聞き、学び、教えを受けようとする時、それは読書によってなされることもありますが、学校の歴史や哲学などの授業や講義を通してなされる、ということもあるでしょう。ある書物を読み始めてみたところ、自分の生活の指針となった、人生の教訓と知恵を得た、あるいは社会人として必要な最低限の知識を得たり、職業上必要な知識を学んだりすることもあります。今、私たちは聖書を前にして、聞こうとしています。今言ったような一般的な興味から聞こうとする方もいるかも知れません。あるいは聖書の内容は、ヨーロッパの歴史や伝統、絵画や音楽、文学などを学ぼうとする時に避けて通れないので、一寸学んでみたいという人もいると思います。動機はどうであれ、いろいろな興味や関心から入ってイエスというお方が本当はどういうお方なのか、ということを知って、イエスに近づいていかれることを願って話しています。このイエス・キリストというお方の言葉と行い、なさったことのすべては、私たちの生活の指針や知恵や教養を得るためのものに留まることなく、私たちの人生そのもの、ひいては世界中に関わること、人類全体に関わること、この世すべてに関わることである、ということを知っていただきたいと願います。
1.この人はメシア、キリストなのか
大変大きなことから話を始めましたが、今日の朗読箇所には、イエスというお方を前にして、その言葉を聞いて、戸惑う人たちが出てきます。今日でも聖書の話を何も知らない人が、先ほどのようなことをいきなり言われて、ああそうですか、わかりました、とはならないでしょう。本当だろうか、どうしてそんなことが言えるのだろうか、という思いを抱かれるのだと思います。しかし、私たちはまず、イエスのお語りになる言葉を聞いて、近づいて行きたいのです。そして、主イエス・キリストは、私たちの心に対して、ある意味では挑戦的な言葉を語りかけて来られます。私の所に来れば、命に至ることができる、永遠の命を与える、私は天の神のもとから遣わされて来たのである、というような御言葉です。これらのことは、実験で確かめることができません。では本当かどうか確かめようがないので、イエスの招きには応じるわけにはいかない、となるでしょうか。
ところが私たち人間を造られた神様は、イエス・キリストという、御自身の御子をこの世に遣わされるに当って、実験で確認できるような証拠ではなく、人の心に語りかけてイエスの方へと心を傾けさせるという働きかけをなさいます。私たちはそういう神の働きかけがあることもまた、聖書から教えられていますので、イエスの語られた御言葉を聞かずにはいられないし、語らないわけにはいかないのです。
今日の箇所に登場してきた人々は、ユダヤ人として、聖書(旧約聖書)に書かれていることをそれなりに知っている人々です。私たち日本人とは違ってメシアについて知っています。油注がれた者=キリストのことです。神から特別にこの世の救いのために立てられた救い主のことです。特別な役割と使命を直接神から与えられてこの世に来られたキリスト(ギリシャ語)、メシア(ヘブライ語)です。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ、という者たちがいましたが、これはそのように聖書に書かれているわけではなく、通俗的な見方だったようです。
イエスはこれを聞いて、御自分の出身などを人々は知っているけれども、自分は天の神のもとから来たのだ、と主張されます。この辺りのやり取りをみていると、人々の反応は実に多様であることがわかります。群衆の中にはイエスを信じる者が多くいたとありますが、その中にはたとえメシアが来てもこの人より多くのしるしを行うだろうか、という者もいたのでした。こういう人たちは、先入観よりも自分の目と耳を信用する人だと言えるかもしれません。
2.イエスの言葉がわからない
それに対して聖書の内容をさらに良く知っている祭司長たちやファリサイ派の人たちは、初めからイエスを捕えようとしています。既にユダヤ人の中にイエスを殺そうと狙う人たちがいましたから(5章18節)、素直にイエスの言うことを聞こうとする気持ちのない人々がイエスを捕えようとしていました。
イエスのもとに遣わされた下役たちも、イエスの言葉を聞いて、戸惑うばかりです。やがてご自分をお遣わしになった方のもとへ帰る、と言われても、天の神のもとへ帰るなどとは思ってもみないからです。結局、この地上のことしか考えられない人たちと、天と地のことを考え、それを知っている方との間には大きなずれが生じていて、かみ合わないのでした。それが今日の朗読箇所の最後で言われていたことに関係があります。“霊”つまり神の聖霊が降っていなかったので、その働きに与っていない人間には、イエスのことを理解できないのです。神のことは、神の聖霊が人の心の内で説き明かしてくださらないと人にはわからないのです。
では、聖霊が与えられない限り、その人にとって神の御言葉、主イエスの御言葉は何の力も発揮しないのでしょうか。これは未信者の家族のために御言葉を示していろいろ教えても、何も伝わらないということでしょうか。もしそうなら、とても寂しいことです。語られている御言葉が、全て聞いている人の耳を素通りしてしまうだけだったら、悲しいことです。しかし、聖霊のお働きは多様なものがあります。主イエスの弟子たちでさえ、十字架の死と復活について主イエス御自身が目の前で語っても、よくわからなかったのですが、それでも主イエスは言われました。後で父なる神が遣わされる聖霊が、主イエスの御言葉をことごとく思い起こさせてくださる、と(ヨハネ14章26節)。
ですから、今は分からなくても、聞いたことが知識としてとどまって、それがいつの日か聖霊によって思い出させられて納得する、ということもあり得るわけです。私たちはそういう神のお働きに期待します。
3.生きた水が流れ出るようになる
そして、主イエスのもとにきてその恵みを受けるならば、その人からは生ける水が流れ出るほどになる、と主は言われました(37、38節)。しかも聖書に書いてあるとおり、と。これは旧約聖書にある、「主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」(イザヤ58章11節)という預言があてはまります。ほかにも「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(エレミヤ31章25節)という預言もあります。
大事なのは、単に疲れた人、渇いている人が癒され、潤されるというだけではなく、その人からも生きた水が流れ出ると言われたことです。他の人を癒すこともするようになるのです。私たちは心に飢え渇きを覚えていると、まずは自分のことしか見えなくなってしまいます。それでも主イエスのもとに行けばよいのです。そして癒し潤していただけばよい。そうすれば、主イエスの生きた水がその人からも川のように流れ出るようになると。そしてそれは聖霊のお働きのことです(ヨハネ7章39節)。
しかし、まだ聖霊が降っていないので、その時に目の前にいた人たちや弟子たちにとってはこれから先のことにはなります。しかし、聖霊の恵みにあずかるなら、聖霊のお働きによってイエスを信じる者の内から聖霊のお働きが現れてきます。イエスのもとに来て依り頼み、御言葉をいただき、信じて歩もうとする人には、聖霊の恵みが注がれます。私たちはその恵みと力にへりくだって信頼すればよいのです。
人々の前で、大声でこのことを言われた主イエス・キリストとは、何という方でしょう。立ち上がって大声で招いてくださっています。それほど大事なことで、私たちもこの大きな声で迫ってくる主イエスの御言葉を心から受け止めたいのです。そして、自分から生ける水が流れ出すよりまず生ける水を主イエスからいただきたいというのが私たちの素朴な願いかもしれません。渇いている、というのは魂、霊のことですから心の問題です。もちろん人の体と心は切り離せませんから、体が疲れれば心も疲れ、心が疲れ、悩みの内に長くいれば体も動かなくなります。お医者さんの世話にならねばならない、という場合ももちろんありますが、ここで主イエスが言われるのは心理的安らぎ、安心、不安感の克服、ということではなく、自分の命そのものがどうなるのだろうか、心からの安心感を得たい、そして突きつめればこの世での最期を恐れることなく迎えたい、という点に至る問題です。そこのところに不安があるので、私たちの心は渇いているのです。一番肝心なところが渇いている。そこに主イエス・キリストは命の水、生きた水を与えて潤してくださいます。
主イエスを信じることは、決して冒険ではありません。イエスが勝手な思いつきを語っているのではありません。主イエスの御言葉には真実があります。この方に自分の命とその行き先をお任せしておけばよいのだ、と思うなら、それがイエスに対する信仰です。そうすることによって、今のこの世を受け止めてゆけます。神から遣わされて、神の御心を確かに語り様々な御業でそれを証しなさった主イエスは、私たちに真の生ける水を与え、私たちからも生きた水を流れ出させてくださることを信じてゆだねましょう。
1.この人はメシア、キリストなのか
大変大きなことから話を始めましたが、今日の朗読箇所には、イエスというお方を前にして、その言葉を聞いて、戸惑う人たちが出てきます。今日でも聖書の話を何も知らない人が、先ほどのようなことをいきなり言われて、ああそうですか、わかりました、とはならないでしょう。本当だろうか、どうしてそんなことが言えるのだろうか、という思いを抱かれるのだと思います。しかし、私たちはまず、イエスのお語りになる言葉を聞いて、近づいて行きたいのです。そして、主イエス・キリストは、私たちの心に対して、ある意味では挑戦的な言葉を語りかけて来られます。私の所に来れば、命に至ることができる、永遠の命を与える、私は天の神のもとから遣わされて来たのである、というような御言葉です。これらのことは、実験で確かめることができません。では本当かどうか確かめようがないので、イエスの招きには応じるわけにはいかない、となるでしょうか。
ところが私たち人間を造られた神様は、イエス・キリストという、御自身の御子をこの世に遣わされるに当って、実験で確認できるような証拠ではなく、人の心に語りかけてイエスの方へと心を傾けさせるという働きかけをなさいます。私たちはそういう神の働きかけがあることもまた、聖書から教えられていますので、イエスの語られた御言葉を聞かずにはいられないし、語らないわけにはいかないのです。
今日の箇所に登場してきた人々は、ユダヤ人として、聖書(旧約聖書)に書かれていることをそれなりに知っている人々です。私たち日本人とは違ってメシアについて知っています。油注がれた者=キリストのことです。神から特別にこの世の救いのために立てられた救い主のことです。特別な役割と使命を直接神から与えられてこの世に来られたキリスト(ギリシャ語)、メシア(ヘブライ語)です。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ、という者たちがいましたが、これはそのように聖書に書かれているわけではなく、通俗的な見方だったようです。
イエスはこれを聞いて、御自分の出身などを人々は知っているけれども、自分は天の神のもとから来たのだ、と主張されます。この辺りのやり取りをみていると、人々の反応は実に多様であることがわかります。群衆の中にはイエスを信じる者が多くいたとありますが、その中にはたとえメシアが来てもこの人より多くのしるしを行うだろうか、という者もいたのでした。こういう人たちは、先入観よりも自分の目と耳を信用する人だと言えるかもしれません。
2.イエスの言葉がわからない
それに対して聖書の内容をさらに良く知っている祭司長たちやファリサイ派の人たちは、初めからイエスを捕えようとしています。既にユダヤ人の中にイエスを殺そうと狙う人たちがいましたから(5章18節)、素直にイエスの言うことを聞こうとする気持ちのない人々がイエスを捕えようとしていました。
イエスのもとに遣わされた下役たちも、イエスの言葉を聞いて、戸惑うばかりです。やがてご自分をお遣わしになった方のもとへ帰る、と言われても、天の神のもとへ帰るなどとは思ってもみないからです。結局、この地上のことしか考えられない人たちと、天と地のことを考え、それを知っている方との間には大きなずれが生じていて、かみ合わないのでした。それが今日の朗読箇所の最後で言われていたことに関係があります。“霊”つまり神の聖霊が降っていなかったので、その働きに与っていない人間には、イエスのことを理解できないのです。神のことは、神の聖霊が人の心の内で説き明かしてくださらないと人にはわからないのです。
では、聖霊が与えられない限り、その人にとって神の御言葉、主イエスの御言葉は何の力も発揮しないのでしょうか。これは未信者の家族のために御言葉を示していろいろ教えても、何も伝わらないということでしょうか。もしそうなら、とても寂しいことです。語られている御言葉が、全て聞いている人の耳を素通りしてしまうだけだったら、悲しいことです。しかし、聖霊のお働きは多様なものがあります。主イエスの弟子たちでさえ、十字架の死と復活について主イエス御自身が目の前で語っても、よくわからなかったのですが、それでも主イエスは言われました。後で父なる神が遣わされる聖霊が、主イエスの御言葉をことごとく思い起こさせてくださる、と(ヨハネ14章26節)。
ですから、今は分からなくても、聞いたことが知識としてとどまって、それがいつの日か聖霊によって思い出させられて納得する、ということもあり得るわけです。私たちはそういう神のお働きに期待します。
3.生きた水が流れ出るようになる
そして、主イエスのもとにきてその恵みを受けるならば、その人からは生ける水が流れ出るほどになる、と主は言われました(37、38節)。しかも聖書に書いてあるとおり、と。これは旧約聖書にある、「主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」(イザヤ58章11節)という預言があてはまります。ほかにも「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(エレミヤ31章25節)という預言もあります。
大事なのは、単に疲れた人、渇いている人が癒され、潤されるというだけではなく、その人からも生きた水が流れ出ると言われたことです。他の人を癒すこともするようになるのです。私たちは心に飢え渇きを覚えていると、まずは自分のことしか見えなくなってしまいます。それでも主イエスのもとに行けばよいのです。そして癒し潤していただけばよい。そうすれば、主イエスの生きた水がその人からも川のように流れ出るようになると。そしてそれは聖霊のお働きのことです(ヨハネ7章39節)。
しかし、まだ聖霊が降っていないので、その時に目の前にいた人たちや弟子たちにとってはこれから先のことにはなります。しかし、聖霊の恵みにあずかるなら、聖霊のお働きによってイエスを信じる者の内から聖霊のお働きが現れてきます。イエスのもとに来て依り頼み、御言葉をいただき、信じて歩もうとする人には、聖霊の恵みが注がれます。私たちはその恵みと力にへりくだって信頼すればよいのです。
人々の前で、大声でこのことを言われた主イエス・キリストとは、何という方でしょう。立ち上がって大声で招いてくださっています。それほど大事なことで、私たちもこの大きな声で迫ってくる主イエスの御言葉を心から受け止めたいのです。そして、自分から生ける水が流れ出すよりまず生ける水を主イエスからいただきたいというのが私たちの素朴な願いかもしれません。渇いている、というのは魂、霊のことですから心の問題です。もちろん人の体と心は切り離せませんから、体が疲れれば心も疲れ、心が疲れ、悩みの内に長くいれば体も動かなくなります。お医者さんの世話にならねばならない、という場合ももちろんありますが、ここで主イエスが言われるのは心理的安らぎ、安心、不安感の克服、ということではなく、自分の命そのものがどうなるのだろうか、心からの安心感を得たい、そして突きつめればこの世での最期を恐れることなく迎えたい、という点に至る問題です。そこのところに不安があるので、私たちの心は渇いているのです。一番肝心なところが渇いている。そこに主イエス・キリストは命の水、生きた水を与えて潤してくださいます。
主イエスを信じることは、決して冒険ではありません。イエスが勝手な思いつきを語っているのではありません。主イエスの御言葉には真実があります。この方に自分の命とその行き先をお任せしておけばよいのだ、と思うなら、それがイエスに対する信仰です。そうすることによって、今のこの世を受け止めてゆけます。神から遣わされて、神の御心を確かに語り様々な御業でそれを証しなさった主イエスは、私たちに真の生ける水を与え、私たちからも生きた水を流れ出させてくださることを信じてゆだねましょう。
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