「主を神といただく民は幸い」2021.1.3
詩編 144編1~15節
新たな年を迎えることができました。この年も、私たちは主なる神、イエス・キリストにおいて御自身を現してくださった主なる神に導かれて歩んでゆきます。私たちがこうして主であられる神を仰ぎ、その御名のもとに礼拝を献げていること、主イエス・キリストを救い主と仰ぎ、教会に召し出されていることを改めて覚え、感謝したいと思います。今日はこの詩編144編を通して、私たちが主を神としていただていることの幸いを教えられています。
1.主の人間に対する配慮を知る
私たちのこの世での生活は1年間という繰り返しの中にあります。1年の中には12ヶ月があり、17月の中には7日間があり、その繰り返しを私たちは続けてゆきますが、このようなある期間ごとの繰り返しは、主なる神が造られたものです。創世記第1章に神が7日間で天地を創造された記事が書かれています。神は7日ごとに安息日を守るようにと後に命じておられますが、一週間のうち6日間で天地を創造された主にならい、6日間は働いて7日目は休息するようにという戒めです。神は私たち人間と違って疲れることはありませんが、人間のために配慮してくださって、休息の日として安息日を定めておられます。そしてその日はただ休息するためだけではなくて、日頃の働きを離れて神のことを思い、神を礼拝する日とするように私たちに望んでおられます。
もし、1週間という区切りがこの世になく、延々と日が続き、疲れて動けなくなるぎりぎりまで働き、そしてその後でやっと休むというような社会だったらどうでしょうか。恐らく生産性も低くなり、民の労働意欲も失われ、使う者と使われる者の差が非常に大きくなったかもしれません。主なる神は、私たち人間の心身の弱さをご存じで、7日ごとに休む日を定めてくださったのです。さて、この144編で作者は「主よ、人間とは何者なのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたが思いやってくださるとは」(3節)と歌っています。私たちは気づかずにいますが、創造主なる神は、あらゆることにおいて私たち人間を思いやってくださっています。そうでなければ私たちは今の生活を続けることができず、命を保つこともできなかったでしょう。人間は息にも似たもので、消え去る影ですが、それでもこの世において神が思いやってくださっている中で生きているのです。
ところが私たち人間は、神の思いやりに気がつく前に、足りないことにすぐに目が行ってしまい、あれが足りないこれが足りない、と言って、神への感謝よりも不平不満を口にしてしまいがちなのではないでしょうか。しかしこの作者は目を開かれていました。息にも似た儚い者だけれども、神は御心にかけてくださっている、と。神がおられ、私たちに御心を留めてくださっている。これを知ることは、私たちの人生観、世界観を変えてしまいます。
2.あらゆる災難から救い出される
この144編は、冒頭から闘うすべとか、戦するすべを神が教えてくださる、と言っていますように、作者は王として戦いを避けられない状況にしばしば置かれていました。詩編の分類の中では、「王の詩編」の一つに数えられています。旧約聖書の時代には、多民族や他国との戦いは始終あって、軍事力が弱ければすぐに近隣の国や、遠くても強大な国によって征服されてしまうような時代でした。今日とは社会も文明も国際的な関係も何もかも違います。同じ神を信じているとしても、この時代の神の民にとっては、主なる神は諸外国に対して勝利させてくださるお方でした(2節)。この時代では、諸国はそれぞれの神々を信じ、その神の名のもとに戦争をするわけで、勝利すればそれは自分たちの神々が他国の神々に勝利した、ということです。今日の私たちは、諸外国をそのように見ることはもはやできません。旧約聖書の時代には主なる神は諸外国という、他の神々を拝む人々との戦いを通して、真の神のみに従うことを訓練されていたのでした。今日の私たちには、周りに諸々の偶像を拝む諸宗教があり、私たちがその影響を受けて偶像礼拝に陥ることのないように、自分自身の弱さや偶像を拝む教えとの戦いがあります。
144編では、異邦人たちはむなしいことを語り、右の手は欺きを行う、と2度も言われます(8、11節)。むなしいことと欺くこと。この二つはいつの時代にも、手を変え品を変えて存在するのではないでしょうか。これらは、戦争というような誰の目にも明らかな国家の行動よりも、より巧みに人に近づき、人の心に取り入って食い尽くしてしまうのかも知れません。見かけは華々しく、魅力的に見えるけれども、本当に人を救うことはできず、実は追いかければ追いかけるほど後々空しさも大きくなる、というものがあります。見栄、虚飾、といったもので塗りたくられたものを私たちは見抜かねばなりません。また、何々詐欺というのは日本独特なのかどうか知りませんが、とにかくあの手この手で人を欺く、ということが世に蔓延っています。悪知恵を用いた犯罪者集団がいます。このような悪事が幅を利かせるのは、金銭の力によって目がくらんだ者が、金銭に頼っている人間の弱みに付け込んで人を欺くもので、「金銭の欲はすべての悪の根です」と新約聖書に言われていることの典型的な例です(テモテへの手紙一6章10節)。
3.主を神といただく民は幸い
そのような現代社会に住んでいる私たちは、人に騙されないように、欺かれないようにしなければならない。それはある意味では実に悲しいことです。それに対してこの作者は、主が王たちを救ってくださると言っています。そしてその国では、息子も娘も大事に育てられ倉は様々な穀物で満たされ、たくさんの家畜は肥えていて、都の広場には破れも捕囚も叫びもない。つまり平和そのもので、皆が安心して平穏に暮らせる社会です(12~14節)。果たしてこのような理想的な国、社会などこの世にあるでしょうか。単なる理想論、空想に過ぎないのでしょうか。
しかし理想論や空想ではなく、主を神といただく民は、それにあずかることができると言っています。主を神といただく民。その民は、金銭の力は人の魂を救えないことをはっきりと知らされ、それに目がくらまないように導かれています。同時に金銭はこの世で必要な分を主なる神からいただくものだと弁えています。けれども、ここに描き出されている素晴らしい社会は、この世のどこかで実現されるものというよりも、主を神といただく民がやがて受ける神の御国での祝福の素晴らしさを描き出しているものではないでしょうか。
私たちがこの世で、このような理想的な世の中を実現することを第一の目的とするのではなく、主を神といただいて神を仰ぐことを通して、私たちが真の主であられる神によって真の平和と祝福を知り、神と共に生きることの素晴らしさを知ることが大事なのです。この世での生活上の祝福は、それに添えて与えられるものです。主イエス・キリストが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と言われたのはこのことです(マタイによる福音書6章33節)。それはこの世では完全には実現しません。完全に実現するのは神の国の完成のときです。
主を神といただく民は、使徒パウロが書いたように「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、知っています」(フィリピの信徒への手紙4章12節)。この世の目に見えるものがすべてではないと知っている民は幸いです。目に見え、手にすることができるものは主からいただく賜物であって、この世での生活を支えてくれているものです。それは感謝して受けるべきものですが、それを手に入れるのが最終目的ではありません。私たちに必要なものを知っておられ、分け与えてくださる神により頼む民は幸いです。神は、魂が完全に安んじることのできる天の居場所を主イエスにより備えてくださっています。その約束を信じる者は、この世で天の御国を憧れつつ、なおこの世では必要なものを神に求め、それを感謝して受けて用いさせていただき、そして救いの福音宣教の拡大のために共に労します。そして、主こそ真の神であって、私たちが感謝と讃美を献げるべきお方であることを知っているので、栄光を、人間にではなく神に帰するのです。そのことを明らかにして教えてくださった救い主イエス・キリストを知り、その主イエスを与えてくださった神、この主を神といただく民は真に幸いなのです。
1.主の人間に対する配慮を知る
私たちのこの世での生活は1年間という繰り返しの中にあります。1年の中には12ヶ月があり、17月の中には7日間があり、その繰り返しを私たちは続けてゆきますが、このようなある期間ごとの繰り返しは、主なる神が造られたものです。創世記第1章に神が7日間で天地を創造された記事が書かれています。神は7日ごとに安息日を守るようにと後に命じておられますが、一週間のうち6日間で天地を創造された主にならい、6日間は働いて7日目は休息するようにという戒めです。神は私たち人間と違って疲れることはありませんが、人間のために配慮してくださって、休息の日として安息日を定めておられます。そしてその日はただ休息するためだけではなくて、日頃の働きを離れて神のことを思い、神を礼拝する日とするように私たちに望んでおられます。
もし、1週間という区切りがこの世になく、延々と日が続き、疲れて動けなくなるぎりぎりまで働き、そしてその後でやっと休むというような社会だったらどうでしょうか。恐らく生産性も低くなり、民の労働意欲も失われ、使う者と使われる者の差が非常に大きくなったかもしれません。主なる神は、私たち人間の心身の弱さをご存じで、7日ごとに休む日を定めてくださったのです。さて、この144編で作者は「主よ、人間とは何者なのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたが思いやってくださるとは」(3節)と歌っています。私たちは気づかずにいますが、創造主なる神は、あらゆることにおいて私たち人間を思いやってくださっています。そうでなければ私たちは今の生活を続けることができず、命を保つこともできなかったでしょう。人間は息にも似たもので、消え去る影ですが、それでもこの世において神が思いやってくださっている中で生きているのです。
ところが私たち人間は、神の思いやりに気がつく前に、足りないことにすぐに目が行ってしまい、あれが足りないこれが足りない、と言って、神への感謝よりも不平不満を口にしてしまいがちなのではないでしょうか。しかしこの作者は目を開かれていました。息にも似た儚い者だけれども、神は御心にかけてくださっている、と。神がおられ、私たちに御心を留めてくださっている。これを知ることは、私たちの人生観、世界観を変えてしまいます。
2.あらゆる災難から救い出される
この144編は、冒頭から闘うすべとか、戦するすべを神が教えてくださる、と言っていますように、作者は王として戦いを避けられない状況にしばしば置かれていました。詩編の分類の中では、「王の詩編」の一つに数えられています。旧約聖書の時代には、多民族や他国との戦いは始終あって、軍事力が弱ければすぐに近隣の国や、遠くても強大な国によって征服されてしまうような時代でした。今日とは社会も文明も国際的な関係も何もかも違います。同じ神を信じているとしても、この時代の神の民にとっては、主なる神は諸外国に対して勝利させてくださるお方でした(2節)。この時代では、諸国はそれぞれの神々を信じ、その神の名のもとに戦争をするわけで、勝利すればそれは自分たちの神々が他国の神々に勝利した、ということです。今日の私たちは、諸外国をそのように見ることはもはやできません。旧約聖書の時代には主なる神は諸外国という、他の神々を拝む人々との戦いを通して、真の神のみに従うことを訓練されていたのでした。今日の私たちには、周りに諸々の偶像を拝む諸宗教があり、私たちがその影響を受けて偶像礼拝に陥ることのないように、自分自身の弱さや偶像を拝む教えとの戦いがあります。
144編では、異邦人たちはむなしいことを語り、右の手は欺きを行う、と2度も言われます(8、11節)。むなしいことと欺くこと。この二つはいつの時代にも、手を変え品を変えて存在するのではないでしょうか。これらは、戦争というような誰の目にも明らかな国家の行動よりも、より巧みに人に近づき、人の心に取り入って食い尽くしてしまうのかも知れません。見かけは華々しく、魅力的に見えるけれども、本当に人を救うことはできず、実は追いかければ追いかけるほど後々空しさも大きくなる、というものがあります。見栄、虚飾、といったもので塗りたくられたものを私たちは見抜かねばなりません。また、何々詐欺というのは日本独特なのかどうか知りませんが、とにかくあの手この手で人を欺く、ということが世に蔓延っています。悪知恵を用いた犯罪者集団がいます。このような悪事が幅を利かせるのは、金銭の力によって目がくらんだ者が、金銭に頼っている人間の弱みに付け込んで人を欺くもので、「金銭の欲はすべての悪の根です」と新約聖書に言われていることの典型的な例です(テモテへの手紙一6章10節)。
3.主を神といただく民は幸い
そのような現代社会に住んでいる私たちは、人に騙されないように、欺かれないようにしなければならない。それはある意味では実に悲しいことです。それに対してこの作者は、主が王たちを救ってくださると言っています。そしてその国では、息子も娘も大事に育てられ倉は様々な穀物で満たされ、たくさんの家畜は肥えていて、都の広場には破れも捕囚も叫びもない。つまり平和そのもので、皆が安心して平穏に暮らせる社会です(12~14節)。果たしてこのような理想的な国、社会などこの世にあるでしょうか。単なる理想論、空想に過ぎないのでしょうか。
しかし理想論や空想ではなく、主を神といただく民は、それにあずかることができると言っています。主を神といただく民。その民は、金銭の力は人の魂を救えないことをはっきりと知らされ、それに目がくらまないように導かれています。同時に金銭はこの世で必要な分を主なる神からいただくものだと弁えています。けれども、ここに描き出されている素晴らしい社会は、この世のどこかで実現されるものというよりも、主を神といただく民がやがて受ける神の御国での祝福の素晴らしさを描き出しているものではないでしょうか。
私たちがこの世で、このような理想的な世の中を実現することを第一の目的とするのではなく、主を神といただいて神を仰ぐことを通して、私たちが真の主であられる神によって真の平和と祝福を知り、神と共に生きることの素晴らしさを知ることが大事なのです。この世での生活上の祝福は、それに添えて与えられるものです。主イエス・キリストが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と言われたのはこのことです(マタイによる福音書6章33節)。それはこの世では完全には実現しません。完全に実現するのは神の国の完成のときです。
主を神といただく民は、使徒パウロが書いたように「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、知っています」(フィリピの信徒への手紙4章12節)。この世の目に見えるものがすべてではないと知っている民は幸いです。目に見え、手にすることができるものは主からいただく賜物であって、この世での生活を支えてくれているものです。それは感謝して受けるべきものですが、それを手に入れるのが最終目的ではありません。私たちに必要なものを知っておられ、分け与えてくださる神により頼む民は幸いです。神は、魂が完全に安んじることのできる天の居場所を主イエスにより備えてくださっています。その約束を信じる者は、この世で天の御国を憧れつつ、なおこの世では必要なものを神に求め、それを感謝して受けて用いさせていただき、そして救いの福音宣教の拡大のために共に労します。そして、主こそ真の神であって、私たちが感謝と讃美を献げるべきお方であることを知っているので、栄光を、人間にではなく神に帰するのです。そのことを明らかにして教えてくださった救い主イエス・キリストを知り、その主イエスを与えてくださった神、この主を神といただく民は真に幸いなのです。
コメント
コメントを投稿