「主の御言葉の力により頼む」2021.1.24
 使徒言行録 20章17~38節

 例年の通り、午後に定期会員総会を控えている今日の礼拝では、年間標語聖句を取り上げて、神の御言葉に聞きます。今日の朗読箇所では、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(32節)となっておりましたが、「神」を「主」と言い換えているのは、特に深い意味はありません。昨年の標語聖句は、「キリストの教会として成長する」でした。去年の聖句にしても、今年の聖句にしても、ではその成果はどうだったのか、ということを検証して数字に現わすことはできるのでしょうか。成長を身長や体重によって示すように、会員数と献金額だけで測るとするなら、どうでしょうか。やはり教会の成長は数字に表れる面もありますが、その教会の置かれている状況や歩んできた経過、どのような成長過程にあるかによって、見方は違ってきます。今年についてはなおさらで、いわば主の御言葉の力により頼むのは、常にしていかなければならないことでもあります。そのようなことも思いながら、今年示されているこの御言葉に目と耳と心とを向けましょう。


  1.神が御子の血によって

 使徒パウロは、エフェソの教会の長老たちをミレトスに呼び寄せました。エフェソは今のトルコの西海岸、有名なエーゲ海から5キロメートルほど内陸に入ったところです。ミレトスは、エフェソから南へ50キロメートルほどの所にある沿岸の町です。彼は3年間エフェソに滞在して福音を語り、神の御言葉を余すところなく教えてきたのでした。そして今回は、第3回の伝道旅行にあたり、旅の前半でエフェソに立ち寄り、そしてギリシャ、マケドニアなどを巡回して、海路ミレトスに着きましたが、エルサレムへの旅を急いでいたのでエフェソには寄らないで公開を続けることにしていました。それでエフェソの長老たちをミレトスに呼び寄せました。その話の内容は、みたとおり、エルサレムに行けば投獄と苦難とが待ち受けている、というもので、エフェソの長老たちに別れを告げるのが目的でした。もう二度と会うことはないだろうという悲壮感すら漂う別れの挨拶でした。ここには実に大切な内容がぎっしり詰まっていますので、一語一語掘り下げて学ぶ必要がある内容ですが、今日は二つのことだけお話しします。

 一つは、教会がこの世に立てられているのは、神が御子の血によって教会を御自分のものとされからであり、その世話をするために長老たちは立てられている、ということです。そしてもう一つの点は、パウロは信徒たちを神とその恵みの言葉とにゆだねる、と言っている点です。

 一つ目の点、「神が御子の血によって御自分のものになさった神の教会」とは、教会についての実に大事な真理を表しています。教会は神のものです。この場合の教会とはもちろん建物のことではなく、神によってキリストのもとに召し集められた主の民の全体のことです。その教会に対して、神の御子がその血を代償としてくださいました。つまり御子が命がけで私たちを神のものとするために勝ち取ってくださったのです。これが教会の起源です。教会は、神の御計画により、神の御子が御自身の血を流して買い取られたものです。キリスト教では、キリストの十字架の死を、私たちの罪の贖いのためであった、と教えています。贖いとは、償いという意味でもありますが、代価を支払って、目的のものを自分の手に入れること、買い取ることを意味しています。

 そして付け加えて言うならば、神の聖霊がそれぞれの教会に群れの監督者をお立てになりました。それが長老たちです。監督というと、信徒たちは監督されている立場なのかと思いますが、長老たちは信徒たちから選ばれますけれども、キリストの御前に任職されることによって、神の教会を牧する権威を授けられています。そのようにして信徒たちは教会において守られ育てられてゆきます。


  2.神とその恵みの言葉にゆだねられている

 そのように監督者たちのもとに守られている信徒たちは、教会の中で特に神とその御言葉にゆだねられています。使徒パウロは、自分はもうエフェソの人たちと会うことはないだろうということがわかっているので、これから先は長老たちの指導と監督にゆだねているだけでなく、神とその御言葉にゆだねるしかないことがわかっています。もっとも、これまでも神とその御言葉によってエフェソの信徒たちは養われてきたに違いないのですが、パウロはあえてここでこのように言います。それによって、エフェソの長老たちに、改めて神により頼み、その御言葉により頼むべきことを自覚させたいのです。主イエス・キリストを信じて結ばれた人は、既に神にゆだねられています。けれどもこの世にある限りは、私たちは言葉によって教えられ、絶えず祈ることが必要です。

 御言葉が人の心に語りかけられるとき、私たちはこれを語っておられるのが神であられることを実感してゆくようになります。神の御言葉は本当に私たちを教え導き、生かし、強めてくれることを知るのです。


  3.恵みを受け継がせる力  この神の御言葉は、私たちを造り上げることができます。造り上げる、とは家を建てる、建築する、という言葉です。私たち人間はこの世で教育、というものを子どもの頃からかなり長い年月をかけて受け続けます。小学校に上がれば一日一日、本当に少しずつ少しずつ必要な知識を教えられ、繰り返し文字を練習し、読み方、書き方を覚えます。本当に地道な努力が必要ですが、勉強が好きな子も嫌いな子も、習得する能力に差はあるものの、皆それなりに文字を覚えていきます。時間をかけての繰り返しにはやはりそれ相当の結果が出ると言えます。

 しかし、神の御言葉の場合は、学校で読み書きを覚えるのとは少々違います。神の言葉は生きて働かれるので、御言葉を聞いた人の中で主イエス・キリストを示し、信仰によって生きる道を導いてくださいます。御言葉の働きは、主のお働きそのものだとも言えます。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」とヘブライ人への手紙に記されています(4章12節)。それはすなわち神の目には自分のことが全て明らかにされている、ということと同じです。神の前には何も隠すことができません。

 そしてこの主の御言葉は、「あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコブの手紙1章21節)とも言われています。ヤコブはその少し前に書きました。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」(同18節)。主を信じる民として新たに生んでくださった、という意味です。人を新しく生かす力もあるのです。

 世の中には、人類の歴史の中でこれまで実に多くの人が語った言葉が溢れています。それらの中には、百年、千年単位で人の心に強く訴えかけ、書き残されて語り継がれてきた言葉もあります。人の語った言葉でさえ、後の世の人の人生観に影響を与えることがあります。そうであれば、私たちに人間を造り、命を授けてくださった神の御言葉にはそれ以上に、私たちの魂を動かし揺さぶり、命の道へと導く力があります。私たちはその御言葉の力に改めて信仰の目を留め、その力により頼みたいと思います。そして主の御言葉を聞き、読み、語る時に祈りを伴わせましょう。

 この主の御言葉は、私たちに恵みを受け継がせることもできます。この御言葉を心に蓄え、そして意識的に覚えることもしましょう。暗記できなくても、その語られている内容を記憶することは大事です。暗記しているだけだと、次の言葉が出て来なくなったとき、心の中で立ち止まってしまいますが、意味内容を記憶していれば、御言葉の教えを確認することができます。自分なりに工夫をして、御言葉を心に留めておくことは大切です。傍線を引き、メモを取り、付箋を貼り、ノートに書き出す、教理問答の引照聖句をいちいち開く、御言葉入りカレンダーを掲げる、等々。御言葉は私たちに信仰を与え、救い、新たな命に生かすために主が用いられる恵みの手段です。私たちの側も、その主からの働きかけの手段を受け止め、感じ取る受信機を整えておき、その力に信頼する。そうすることで、主は私の中で、私たちの間で、その生ける御言葉の力を一層明らかに発揮してくださいます。それを信じてより頼んでゆきましょう。

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