「主は忍耐強く恵み深い」2021.1.17
ナホム書 1章1~14節

 今日はナホム書から、神の御言葉を聞き、そこに示されている神の御心を学びたいと思います。月一回旧約聖書の書物を一巻ずつ取り上げてその一部分から御言葉に聞いておりますが、ナホム書は本来なら昨年10月の末に順番が回って来ていたのですが、宗教改革記念日でもあり、ハバクク書に譲りました。11月は伝道月間で飛ばしまして、12月はクリスマスを前にして、ゼファニヤ書にそれに相応しい箇所がありましたのでまた譲りました。では、ナホム書は、今日の私たち、つまり宗教改革の伝統に立ち、また主イエス・キリストの降誕を記念するクリスマスを祝う教会と、距離があるのでしょうか。このことは、ナホム書という書物の性格にも関わってきます。では、ナホム書とはどんな預言書なのでしょうか。今日の私たちはこの預言書から何を聞き、学ぶのでしょうか。


  1.ナホム書という預言書

 このナホム書は、冒頭にあるようにニネベについての託宣を記したものです。そしてナホムの幻を記した書、とも記されています。「書」と言っているのはこのナホム書だけで、主題がニネベに特定されています。このように内容を特定しているのはオバデヤ書もそうですが、どちらもイスラエルから見れば外国についての託宣、ということになります。アッシリア帝国は北イスラエルを滅ぼしたのですから、残っている南ユダ王国の民にとっても決して無視できない預言ではありますが、その内容は殆どアッシリアの罪と滅びについてです。全体を読めばわかりますように、その残虐な仕業と滅びを、詩的な文章によって描き出しています。ちなみに、このナホム書は非常に生き生きした表現で記されていて、文学的に優れたものとされているということです。1章2節から8節までは節の冒頭と3行目の頭の文字にヘブライ語のアルファベットが順に10番目まで、読み込まれています。

 その内容は外国の都の滅びであり、それを歌い上げているところから、今日の私たちからみると少し感覚的に遠いと感じるかもしれず、そのために宗教改革記念日と待降節の時季には、飛ばされてしまった、と言えるかもしれません。しかし、こうして旧約聖書の中に歴として入れられているということは、やはりいつの時代の人であっても、聞くべき神の御言葉である、ということを忘れてはなりません。

 ニネベはアッシリアの都で、紀元前612年にメディアとバビロンによって都は陥落しました。アッシリアは、北イスラエル王国を紀元前722年に滅ぼした大国です。ナホムはこのニネベの破壊を預言しました(3章7節)。そして、その後にテーベというエジプトの町の滅び(紀元前663年)についても語っています。それで紀元前663年から612年の間にナホムは預言したのであろう、とされています。預言者エレミヤと重なる時代でもあります。


  2.主は全世界の主権者であり、忍耐強いお方

 こういう時代背景の中、ナホムの預言の言葉をみますと、まず一つのことが浮かび上がってきます。「大地は主の御前に滅びる。世界とそこに住むすべての者も」(5節)。ナホム書はニネベについての預言とはいうものの、主が怒りを発せられるなら、誰もそれを留めることはできないこと、主に逆らうことは誰にもできないと言われています。聖書の教えにおいて、イスラエルの主なる神が全世界の主であられることは、これははっきりしていることです。

 主は、イスラエルを特別に御自身の民としてお選びになりまして、アブラハムを通して祝福を与えるという約束をなさったのですが、それはもともと全世界のすべての人々を対象にしているものでした。イスラエルの神は、ただ一つのイスラエル民族のためだけの神ではなく、全ての人々の創造者であられます。そしてイスラエルを通してお語りになりましたが、その御言葉は全世界に向けて語られ、聞かれるべきものとして与えられています。

 そして、もう一つの点は、主なる神は忍耐強い方であるけれども、同時に罪と悪について決して罰せずにおかない方だということです。悪は悪として御心に従って正しく裁かれるのですが、その裁きの時に至るまで、長く忍耐しておられます。そしてその間に主に立ち帰って悔い改めるならば、赦しを与えてくださるお方です。このナホム書では、もともと主がお選びになったイスラエルではなく外国のアッシリアの都について語っておられ、その調子は大変厳しいものです。とにかくこの時点では、主はナホムを通してアッシリアに対する厳しい裁きを中心に述べられました。しかし聖書全体を通してみると、アッシリアでさえも、主なる神の救いの御業の中に置かれていることが分かります。主は厳しい審判をなさいますが、実は忍耐深く、人が神の前に悔い改めることを望んで待っておられるのです。


  3.主は恵み深い

 改めてこのナホム書を通して読んでみると、私たちにとって、慰めや希望、恵みについて語る箇所がとても少ないということに気がつきます。私たちは聖書を読む時に、主なる神様の恵みや慈しみ、憐れみの御言葉をいただくとほっとします。しかし主は罪に対しては厳しく裁かれるという御言葉も聞きます。そうすると私たちは主の前に自分の歩みはどうであろうか、と顧みる機会を与えられるのです。

 ところでこのナホム書など、預言書を読んでいると誰が誰に語っているのか、時に分からなくなることがあるかもしれません。今日の1章11節以下がそれにあたります。11節の「あなた」はニネベのことですが12節の「わたしはお前を苦しめた」と言われている「お前」はユダ、つまり神の民のことです。そして14節の「主はお前について定められた」と言うとき「お前」、これはニネベのことです。こういう所があるので旧約聖書はなかなか難しい面がありますが、そういう中でも、主が一番お語りになりたいことは何か、という点を聞きとることが大切です。

 今日、このニネベに対する主なる神の厳しい裁きの御言葉の中にも、やはり私たちに希望と慰め、励ましを与える御言葉が与えられています。もちろん、私たちは聖書の御言葉の聞きやすいところ、耳に優しい所だけをより分けて聞いているのではいけません。厳しい審判の言葉を聞きながら、しかし主の最大の目的は何か、ということを知っておくべきだということです。ちなみに、ナホム、とは「慰め」とか「慰める人」という意味です。

 この1章では、主は熱情の神であり、報復を行われる、罰すべきものを決してそのままにはしておかれない、敵を滅ぼし尽くされる、と言われておりますが先ほど言ったように忍耐強いお方です。そして7節に言われているように、「主は恵み深く、苦しみの日には砦となり 主に身を寄せる者を御心に留められる」お方なのです。主はアッシリアを用いて北イスラエル王国に懲らしめを与えられましたが、主はイスラエルの誇りを回復されるとも言われています(2章3節)。主は御自分の民イスラエルを、異教徒の国によって罰しますが、やがて回復される。そして懲らしめの道具として用いたアッシリアをも罰せられるけれども、その敵国すらもやがて祝福の対象とまでされるということです。だから、私たちは、「主に身を寄せる者を御心に留められる」という御言葉を改めて心に刻みつけたいのです。

 私たちも、今日のこの状況の中で、今日このナホム書に示されている主なる神の御心を信じて、より頼みます。主は、御自身に身を寄せる者を御心に留めてくださいます。御心に留めていただけるということは、それだけでも私たちに安心を与えるものです。主が御心に留めてくださるとどうなるのでしょうか。そのものには何の災いも襲いかからないということでしょうか。必ずしもそういうわけではないでしょう。では何か。災いに絶対襲われないのでなければ身を寄せても仕方がないのではないか、という考え方があるかもしれません。しかしやはりこの世にある限り、私たちは身の周りに様々な困難な状況が起こってくるのを避けられません。しかしその中で主なる神に身を寄せる者には主からの助けが与えられます。主の助けがなかったならもっとひどいことになっていた、ということもあるでしょう。私たちはそれを数字や図表で確認することはできません。しかし主は生きておられます。そして私たちの魂の寄りかかるべき所となってくださいます。苦しみの日には砦となってくださいます。そのことを信じてゆだねる者に、主は必ずご自身を現してくださると信じて期待するのが信仰によって生きる者です。

 旧約聖書の時代、主は諸外国に対して、またイスラエルに対しても非常に厳しい裁きの御言葉を語られます。罰するべきものを必ず罰するお方です。しかしそれ程に厳しく罪を裁かれるのは、それだけ大いなる恵みを私たちに注いでくださるからで、十字架の主キリストという、完全な救い主を備えてくださっているからです。罪のない神の御子の償いは、私たちの罪を完全に償い、そして救うことができます。ナホムに語られたのは同じ救い主なのです。

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