「神の栄光を求める」2021.1.10
ヨハネによる福音書 7章14~24節
私たちは今日もまた、この聖書を前にしています。そこでは神が私たちに向けて語っておられます。この聖書に記されている言葉の数々が、どこから来た教えなのか。これは本当に重要なことです。私たちは特に現在のような世の中になって来ると、あらゆる情報がインターネットを通じて入って来るので、その真偽を見分けなければなりません。何十年か前であれば事情が違いました。おもに情報を流すのはテレビやラジオ、新聞、その他雑誌、そして書物もありますがみな、単なる個人ではなくて、放送局、新聞社、出版社などがその情報の真偽を確認した上で発出していたと言えます。もちろん記者個人が書いたりするわけですが、編集長の許可があって初めて文字になります。ところがインターネット上の情報は、そうではないものが非常に多く、単なる個人の中途半端で不十分な知識によって書かれたりすれば、間違った情報が垂れ流されることになります。受け取った方もそれが真実なのか対して確かめもせずに拡散してしまう。まず事実かどうかを確認せよ、ということを教わっていないのか、あるいはそう言われたかもしれないけれども確認するすべを知らないのか。あるいは何でもすぐ鵜呑みにしてしまうのか。そういったことがしばしば起こる世の中であります。今では大手のメディアでも、背後から圧力をかけられているのではないか、とか何かの利益が絡んでいるのではないか、とか勘繰りたくなることもありますので、事実を知る、ということ自体もなかなか大変です。そういう時代にいる私たちは、救い主イエス・キリストが語られたこと、なさったことの真偽を確かめることはできるのでしょうか。
1.イエスについての証言
結論から言えば、今日的な意味で、証拠を出す、ということはできません。これはあくまでも信仰に関わることですから、物的証拠を出してイエスは神から来たのだ、と主張することはできませんが、証人は数限りなくいます。その数を絞れば新約聖書に登場する、イエスの十字架の死と復活、昇天などを目撃した弟子たちや周りにいた人たちの証言が第一のものです。しかし、もっと大事なのは、イエス・キリスト御自身の証言です。イエスが話されたことは、神の御子として語られたことですから、イエスというお方の内に真実を見た人は、イエスの証言に耳を傾けるのです。
さらに、もう一種類の証言があります。それは今日の私たちです。主イエスをお遣わしになった方、つまり天の父なる神の御心を行おうとしている人にはイエスの教えが神から出たものか、そうではないかが分かると主イエスが自ら言われました(17節)。分かるはずと主イエスは語っておられます。私たちが今日、福音書のイエスの御言葉を読み、聞くとき、この方の言葉は何か違う、他の人が語ることと違っている、と感じる時からそれは始まっています。
イエスについての証言とは、イエスという方が本当に天の神のもとから来られた方だという点にあります。この点がまず大事なことです。イエスの行った様々な業が、イエスという大変信心深い敬虔な人の考えに基づいてなされた独自のものであるというのではなく、全てが天の父である神のお考えに基づいてなされている、ということです。
キリスト教信仰において、そしてこのヨハネによる福音書において、証言という言葉は大変大事なものです。父なる神は預言者たちを通し、時には天から声をかけ、ついには神の御子イエスをこの世に遣わし、そして人の心の内に聖霊を遣わされて心の内に証言されます。イエスこそ神の御子、救い主だ、と。ですから、私たちが主イエスの御言葉を聞いて、ああ、この方について行きたいな、と思うようになってきたとしたら、その人の心の内に既に神の聖霊の働きかけがあって、イエス・キリストについての証言をしてくださっているのです。そうして、その人自身もまた主イエス・キリストの生きた証人としていただけるのです。
2.どうして聖書をこんなによく知っているのだろう
さて、ユダヤにおける大事な祭りの一つである仮庵の祭りのさ中、主イエス・キリストは神殿の境内に上って行って人々に教え始められました。神殿の境内に上って人々に教える、ということは、簡単なことではないはずです。人々が集まり、何かをすればすぐに注目されます。ユダヤ人の宗教指導者である祭司たち、律法学者、長老たちがいるわけで、何かおかしなことをする人がいればすぐに彼らの知るところとなったでしょうし、間違ったことを言えばすぐに問いただされることになります。
そういう中で語られた主イエスの御言葉は、聞く人々を驚かせるものでした。律法学者でもないこの人が、どうしてこんなによく聖書を知っているのだろう、と。では、聖書を良く知っている、とはいったい何を意味しているのでしょうか。当然、聖書に何が書かれているかを知識として知っている、ということがまず挙げられます。しかも何がどこに書かれていて、その教えていることの意味をよく把握している、ということです。
では主イエスはなぜそれほど良く聖書を良く知っているのでしょうか。ユダヤ人であれば、子どもの頃から聖書(イエスの時代であれば私たちの手にしている旧約聖書)の教えに基づいて教育されてきます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6~9節)、とモーセはイスラエルの人々に命じました。主イエスももちろんそのようにして育てられてきました。イエスは人としては子どもの頃から聖書を学んでこられましたが、神の御子としてはもともと天において父なる神と共におられた方であって、実は聖書の内容を預言者たちに示された神の側に立つお方です。モーセに、語るべき言葉と記すべき言葉を授けられた神の側に立っておられます。しかし人としては学んで来られました。主イエスの聖書知識がどのようになっていたのかはそれ以上のことはわかりません。
ただここで興味深いのは、イエスの話を聞いていたユダヤの人々が、イエスは聖書をこんなにもよく知っている、と言ったことです。彼らはそれなりにやはり聖書の内容を学んで知っていたからこそそのように言えたわけです。そういう意味では、聖書に親しんで育って来た人が圧倒的に少ない日本人とは違います。もちろん今日私たちは新約聖書も同じように神の言葉として聞き学びますので当時のユダヤの人々とはその点違うのですが、それでも聖書に親しむ、子どもの頃から聞き学ぶ、ということは非常に大切なことです。
しかし、ユダヤの人々の聖書理解がそれで充分だったというわけではありません。それを示しているのが22節以下の安息日に病人をいやすことの問題です。主イエスは安息日でも病人をいやされました。ユダヤ人の大事な儀式である割礼は、生まれてから八日目に授けるので、それが安息日にあたっても割礼を行います。安息日に何の業もしてはならない、と命じられているが、割礼もまた命じられているのでそれを優先する、ということです。ならばイエスが全身をいやすことをされたのも、体の全身を癒して神の前に健康な状態で過ごせるようにされたわけで、それ以上にイエスにいやしていただいたことでその人は神の恵みに与り、主イエスとのつながりを与えられて神への感謝の内に生きるようにされたのです。そうであれば安息日にいやしたからといってなぜ腹を立てるのか、と主イエスは問われました。ですから、ユダヤの人々はイエスのように聖書を良く知っていなかったと言われても仕方がないのです。
3.神の栄光を求める
このように聖書を非常によく知っておられるイエス・キリストは、天の父なる神のもとから遣わされてきたので、直接父なる神からの教えを語っておられます。イエスの語ることはすなわち神が語ること、と言えるのです。イエスは天の父なる神のもとから来られた方であり、御自身そのことを自覚しておられました。そして御自身をお遣わしになった父なる神の栄光を求めておられたのでした。神の栄光を求める人は、自分の栄光を求めませんから、神があがめられることを第一とします。自分が人からの誉れを受けることを求めず、人からの賞賛を願わず、人の歓心を買おうともしません。それを貫き通されたのが主イエス・キリストです。
私たちは、人から褒められることを求めてしまいがちです。自分の働き、才能、努力、修練、などの成果を認めてほしいと思います。しかしイエスを思い出しましょう。自分の栄光ではなく神の栄光を求めることに真の幸いがあります。そのためにも私たちはへりくだって聖書をより良く知るように努めます。それには聖霊の助けが必要です。聖霊の恵みと導きに謙虚に信頼しましょう。旧約・新約聖書は、イエスが救い主キリストであると証ししている書物であって、とてもたくさんの分量ですが、その中心点を弁えておけば、聖書が与えられている目的から外れることはありません。主イエス・キリストは父なる神の栄光を求めて私たちのために十字架で救いの御業をなしてくださいました。私たちもこの方の栄光を求める者とならせていただくことができるのです。
1.イエスについての証言
結論から言えば、今日的な意味で、証拠を出す、ということはできません。これはあくまでも信仰に関わることですから、物的証拠を出してイエスは神から来たのだ、と主張することはできませんが、証人は数限りなくいます。その数を絞れば新約聖書に登場する、イエスの十字架の死と復活、昇天などを目撃した弟子たちや周りにいた人たちの証言が第一のものです。しかし、もっと大事なのは、イエス・キリスト御自身の証言です。イエスが話されたことは、神の御子として語られたことですから、イエスというお方の内に真実を見た人は、イエスの証言に耳を傾けるのです。
さらに、もう一種類の証言があります。それは今日の私たちです。主イエスをお遣わしになった方、つまり天の父なる神の御心を行おうとしている人にはイエスの教えが神から出たものか、そうではないかが分かると主イエスが自ら言われました(17節)。分かるはずと主イエスは語っておられます。私たちが今日、福音書のイエスの御言葉を読み、聞くとき、この方の言葉は何か違う、他の人が語ることと違っている、と感じる時からそれは始まっています。
イエスについての証言とは、イエスという方が本当に天の神のもとから来られた方だという点にあります。この点がまず大事なことです。イエスの行った様々な業が、イエスという大変信心深い敬虔な人の考えに基づいてなされた独自のものであるというのではなく、全てが天の父である神のお考えに基づいてなされている、ということです。
キリスト教信仰において、そしてこのヨハネによる福音書において、証言という言葉は大変大事なものです。父なる神は預言者たちを通し、時には天から声をかけ、ついには神の御子イエスをこの世に遣わし、そして人の心の内に聖霊を遣わされて心の内に証言されます。イエスこそ神の御子、救い主だ、と。ですから、私たちが主イエスの御言葉を聞いて、ああ、この方について行きたいな、と思うようになってきたとしたら、その人の心の内に既に神の聖霊の働きかけがあって、イエス・キリストについての証言をしてくださっているのです。そうして、その人自身もまた主イエス・キリストの生きた証人としていただけるのです。
2.どうして聖書をこんなによく知っているのだろう
さて、ユダヤにおける大事な祭りの一つである仮庵の祭りのさ中、主イエス・キリストは神殿の境内に上って行って人々に教え始められました。神殿の境内に上って人々に教える、ということは、簡単なことではないはずです。人々が集まり、何かをすればすぐに注目されます。ユダヤ人の宗教指導者である祭司たち、律法学者、長老たちがいるわけで、何かおかしなことをする人がいればすぐに彼らの知るところとなったでしょうし、間違ったことを言えばすぐに問いただされることになります。
そういう中で語られた主イエスの御言葉は、聞く人々を驚かせるものでした。律法学者でもないこの人が、どうしてこんなによく聖書を知っているのだろう、と。では、聖書を良く知っている、とはいったい何を意味しているのでしょうか。当然、聖書に何が書かれているかを知識として知っている、ということがまず挙げられます。しかも何がどこに書かれていて、その教えていることの意味をよく把握している、ということです。
では主イエスはなぜそれほど良く聖書を良く知っているのでしょうか。ユダヤ人であれば、子どもの頃から聖書(イエスの時代であれば私たちの手にしている旧約聖書)の教えに基づいて教育されてきます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6~9節)、とモーセはイスラエルの人々に命じました。主イエスももちろんそのようにして育てられてきました。イエスは人としては子どもの頃から聖書を学んでこられましたが、神の御子としてはもともと天において父なる神と共におられた方であって、実は聖書の内容を預言者たちに示された神の側に立つお方です。モーセに、語るべき言葉と記すべき言葉を授けられた神の側に立っておられます。しかし人としては学んで来られました。主イエスの聖書知識がどのようになっていたのかはそれ以上のことはわかりません。
ただここで興味深いのは、イエスの話を聞いていたユダヤの人々が、イエスは聖書をこんなにもよく知っている、と言ったことです。彼らはそれなりにやはり聖書の内容を学んで知っていたからこそそのように言えたわけです。そういう意味では、聖書に親しんで育って来た人が圧倒的に少ない日本人とは違います。もちろん今日私たちは新約聖書も同じように神の言葉として聞き学びますので当時のユダヤの人々とはその点違うのですが、それでも聖書に親しむ、子どもの頃から聞き学ぶ、ということは非常に大切なことです。
しかし、ユダヤの人々の聖書理解がそれで充分だったというわけではありません。それを示しているのが22節以下の安息日に病人をいやすことの問題です。主イエスは安息日でも病人をいやされました。ユダヤ人の大事な儀式である割礼は、生まれてから八日目に授けるので、それが安息日にあたっても割礼を行います。安息日に何の業もしてはならない、と命じられているが、割礼もまた命じられているのでそれを優先する、ということです。ならばイエスが全身をいやすことをされたのも、体の全身を癒して神の前に健康な状態で過ごせるようにされたわけで、それ以上にイエスにいやしていただいたことでその人は神の恵みに与り、主イエスとのつながりを与えられて神への感謝の内に生きるようにされたのです。そうであれば安息日にいやしたからといってなぜ腹を立てるのか、と主イエスは問われました。ですから、ユダヤの人々はイエスのように聖書を良く知っていなかったと言われても仕方がないのです。
3.神の栄光を求める
このように聖書を非常によく知っておられるイエス・キリストは、天の父なる神のもとから遣わされてきたので、直接父なる神からの教えを語っておられます。イエスの語ることはすなわち神が語ること、と言えるのです。イエスは天の父なる神のもとから来られた方であり、御自身そのことを自覚しておられました。そして御自身をお遣わしになった父なる神の栄光を求めておられたのでした。神の栄光を求める人は、自分の栄光を求めませんから、神があがめられることを第一とします。自分が人からの誉れを受けることを求めず、人からの賞賛を願わず、人の歓心を買おうともしません。それを貫き通されたのが主イエス・キリストです。
私たちは、人から褒められることを求めてしまいがちです。自分の働き、才能、努力、修練、などの成果を認めてほしいと思います。しかしイエスを思い出しましょう。自分の栄光ではなく神の栄光を求めることに真の幸いがあります。そのためにも私たちはへりくだって聖書をより良く知るように努めます。それには聖霊の助けが必要です。聖霊の恵みと導きに謙虚に信頼しましょう。旧約・新約聖書は、イエスが救い主キリストであると証ししている書物であって、とてもたくさんの分量ですが、その中心点を弁えておけば、聖書が与えられている目的から外れることはありません。主イエス・キリストは父なる神の栄光を求めて私たちのために十字架で救いの御業をなしてくださいました。私たちもこの方の栄光を求める者とならせていただくことができるのです。
コメント
コメントを投稿