「イエスとは何者か」2020.12.6
 ヨハネによる福音書 7章1~13節

 イエスとは何者か。このような問いの言葉は、言ってみればまだイエスを信じていない人、あるいは疑念を抱いている人の言い回しです。信じている者、あるいは主イエスに近づいてゆき、信じるべきお方であるならば従って行きたいと思っている人にとっては、そのような言い方ではなく、主イエスよ、あなたはどのようなお方なのですか、という問いになるでしょう。今日の朗読箇所には、イエスを信じる信仰にまで至っておらず、疑いの心を半分持ちながら、しかし関心もあるのでイエスという人物を品定めしようとしている人たちの言葉が出てきます。しかもユダヤの人々は、旧約聖書の預言者たちの預言によって、やがてこの世に来るべき方、メシア=キリストが到来することを期待していましたので、そのような思いも抱きながらイエスというお方を見ていたのでした。今日は、もちろん、今日の私たち、しかもクリスマスを前にして待降節を過ごしている私たちにとって、イエス・キリストというお方はどういうお方なのだろうか、ということが重要です。既にイエスを救い主キリストと信じて生きている方も、まだそこまでではない、という方も、このイエスというお方が自分にとってどんなお方であるか。これを問いかけられています。


  1.イエスを憎む世の人々

 イエスには、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという肉親の兄弟たち、姉妹たちがいました(マルコ6章3節)。マリアの最初の子としてイエスはお生まれになりましたので、彼らは弟、妹たちです。神の聖霊によってマリアの胎内に宿られたイエスとは違って、弟、妹たちは普通にマリアとヨセフの子どもとして生まれました。その中のヤコブは、後にエルサレム教会において指導的立場に立った人で、新約聖書に入っているヤコブの手紙の著者とみなされています。また、ユダも同じくユダの手紙の著者と見られています。ですから後にイエスを信じて大きな働きをしたのですが、この時はまだ、心底イエスを信じるという信仰にまでは至っていませんでした。

 イエスは既にその様々な言動によって、ユダヤ人たちから命を狙われていました(ヨハネ5章18節等)。それでイエスはユダヤを巡ろうとはされなかったのですが、ユダヤ人の仮庵の祭りが近づいてきました。この祭りは、収穫感謝祭として行われていましたが、ユダヤにおける三大祭りの一つで、とても重要なものです。

 イエスの兄弟たちは、このような大きな祭りが行われる時にこそ、ユダヤに出て行って公に自分を世に現わしなさい、と言います。弟たちはずいぶんと偉そうにお兄さんであるイエスに言っています。今までの行いからして、何か特別な存在だとは感じていたにしても、自分たちの実の兄の行動について、とても訝しく思っていたことは確かです。

 これに対して主イエスは言われました。「わたしの時はまだ来ていない」と。これに続いて主イエスは、世が自分を憎んでいると言われました。その御言葉を先に見ておきます。憎む、というのは癪にさわって気に食わない、やっつけてやりたいほど不快だ、という意味ですが、イエスは、兄弟たちのことを世は憎むことができない、と言います。つまり世に同調しているからです。イエスを訝しく思い、イエスについて訝しく思っている兄弟たちに対して、世は共感してくれます。しかし世はイエスを憎みます。イエスが、世の行っている業が悪いと証ししているからでした。

 そもそも、世の行っている業が悪くなければ、イエスはこの世に来られる必要がありませんでした。ここで言う「世」とは世間一般とか、世の中、ということではなく、生まれながらの人間すべてのことです。ですから私たちも自分と「世」とをあたかも別物のようにして区別してはならないのです。救い主イエスは、私たちの業が悪いと証ししておられます。イエスの十字架はその証拠です。それゆえ世は自分の悪しき業、つまり罪を暴き出されてしまったがためにイエスを憎むのです。この憎む、という言葉はより愛さない、軽く見る、という意味もあります。私はイエス様を信じる前に、別にイエスというお方を憎んでいた覚えはない、という方もおられるでしょう。確かにそうかもしれません。しかしイエスを受け入れず、軽んじ、その横を通り過ぎることはイエスを退けることであり、自分の行っている業について、口出ししないでほしいということであって、それは即ちイエスに共感しないこと、従わないことです。

 それがイエスを憎む、ということにつながるのです。私たちは、救い主イエスの前に、自分の業が正しい、と主張することなどできません。もし正しいなら、イエスに十字架にかかってもらう必要などない、ということになります。もしその立場を貫き通すなら、私たちはいずれ神の前に出て、自分の正しさを主張しなければなりません。しかし、どんなに人から正しい人と見られていても、聖なる正しい神の前にはどうにもならず、有罪判決を受けるしかありません。その時にイエスを弁護人に呼び出そうとしても遅すぎます。そのことを私たちは覚える必要があります。


  2.イエスの時はまだ来ていない

 そのようにお答えになったイエスは、兄弟たちと一緒には祭りに上っていかない、と言われました。その理由が8節の「わたしの時はまだ来ていないから」というものでした。6節でも同じことを言っておられましたが、実はこの8節では「わたしの時はまだ満ちていない」と訳されるべき違う言葉です。イエスの時が満ちる、というのはこの後、イエスが都エルサレムに上って行かれ、捕らえられて十字架につけられる時のことです。それは、神がお定めになった、救い主による人間の罪の贖いのためになされる御業の頂点を示しています。イエスはその時を目指して行動しておられます。ご自分がこの世にお生まれになった目的を十分自覚しておられるのです。

 イエスはそのままガリラヤに留まられました。しかしその後で人目を避けて隠れるように都に上って行かれました。次の14節以下に書いてある通り、イエスは神殿の境内において御自身を現して語り始められます。結局、兄弟たちの言った通りにしているのではないか、という声も聞こえそうです。しかし、イエスはご自分のことを正しく理解せず、信じてもいない者たちの言葉に従って行動することを差し控えておられ、ただ御自身に定められている目的が十字架であることを知っておられましたので、今、兄弟たちの指図に従ってこの度の祭りにおいて、その目的を果たすために上っていくことはない、ということです。私たちは、主イエスの行動の目的の中心を見失わないようにしたいものです。イエスが都エルサレムに上って行かれる最終的な目的は十字架にかかり、多くの人の罪の贖いとなることであり、罪人のために罪の赦しの道を開き、救いを与えるためです。それに沿ってイエスは行動されるのです。

 天地創造の時があり、そして人間が神の前に罪を犯して堕落した時がありました。しかし神は堕落した人間をそのまま罪の内に放置せずに、罪から救い出すという御計画を持っておられました。そして救い主をこの世に送るはっきりした御計画のもとに、御子イエス・キリストが十字架にかかって、罪を犯した人間のために償いを果たすべき時をお定めになっていました。そして御子イエス御自身もそのことをはっきりと自覚しておられました。

 今日の朗読箇所では、イエスはまだその時は来ていない、満ちていない、と言われました。しかしその時が来ると十字架にかかられて救いの御業を果たされました。今日に至るまで、全世界でこのことが告げ知らされて来ています。


  3.イエスとはどのようなお方なのか

 もう一度今日の箇所に目を留めましょう。人々は、イエスのことを「良い人だ」と言う人もいれば「群衆を惑わしている」などと言う人もいました。イエスは何者なのだ、ということを把握できませんでした。ここで言う「良い人だ」という評価も、ごく一般的なものに過ぎません。所詮、人が人を見る時に、その人のことを完全に把握して正しく評価することなどできません。何かの技術や技能についてならばある評価を下すことができますが、その人がこの世界に対して、ましてや神の前でどんな存在であるか、ということを人は正しく評価できません。ユダヤの人たちは、イエスのことを正しく認めることができませんでした。そしてイエスについて公然と語る者はいませんでした。下手なことを言えば、イエスを殺そうと思っていたユダヤ人の指導者たちに目をつけられると思ったからです。

 今日の私たちは、イエスがおられた頃のユダヤの国とは全く違う宗教的環境にありますから、イエスのことを救い主だとか、神の御子だとか言っても、捕らえられることはありません。しかし歴史の中ではイエスを神の御子、救い主であると公然と語るならば、捕らえられてしまうことがありました。信仰を持ち続けるのが命がけという場合もあったのです。もちろんこれから、この国でも時代が悪い方向へ行くなら、そのような悪い時代に戻らないとも言えません。イエスが「世の行っている業は悪い」と言われたように、この世が続く限りは世に悪はなくなりません。神が完全に悪を滅ぼされる時までは、そうなのです。

 しかし主イエス・キリストは、その悪を裁くためだけではなく、神に対して罪を犯している人間の罪を担って償うために世に来られました。私たち罪人と共に、裁かれる側に立ってくださったのです。神のもとから来て、私たちの罪を取り除き、私たちを神のものとして真の幸いを与えるためにです。イエスの時は既に来て、時は満ちました。私たちに救いの道がはっきり示されました。私たちは、この救い主のもとに自分をゆだねて明け渡せばよいのです。その時にはもはや、イエスとは何者か、良い人なのか、人を惑わしているのか、というような人を品定めする姿勢ではなくて、「主よ、私はあなたの御前に罪深い者です。どうぞ、お救いください」とひれ伏して告白し、祈る者へと変えられます。そして、イエスは神の御子、世の救い主であり、私の救い主である、と公然と語ることができるのです。

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