「世に救い主が遣わされた」2020.12.20クリスマス礼拝
ヨハネの手紙一 4章7~16節

 私たちの日々の暮らしは、自分のことも世の中のことも、全てを見通すことはできません。それでも、或る程度見通しをつけ、何かの非常時に備えて心づもり等を全くしていないわけでもありませんが、やはり何か事が起こって初めて私たちは真剣に動き出すのでしょう。国を動かす為政者たちにとって、確かに国の行く先をより良い方向へ持っていくのは容易なことではないでしょうが、国民は政府のやることに注目しています。そしてその対応が新型コロナウイルスの感染拡大をなかなか阻止できず、対策も後手に回っている、という印象があります。これは職場でも学校でも、教会でも家庭でも似たような面があるでしょうが、どうしても私たち人間は、先のことについての見通しを甘くしがちで、目前に何か大変なことが迫らないと重い腰を上げない、という傾向が常にあるのでしょう。そんなことを思い巡らしながら、私たちのような知識にも知恵にも洞察力にも限りのある人間ではなく、天地の造り主に心を向けます。私たち人間にはるかに勝る知恵と力をお持ちで、一切を見通しておられ、起こり来ることを全て御手の内に納めておられる全能の神にとっては想定外のことなど何一つないことを覚えましょう。そして、このクリスマス礼拝に当って、主なる神がこの世に、その後計画に従って送られた救い主イエス・キリストを仰ぎたく願っています。神の御言葉に聞きましょう。


  1.神は独り子を世に遣わされた
 今日の朗読箇所には、神が独り子を、御子を、救い主を世に遣わされた、ということが3回も記されています(9節、10節、14節)。それだけ著者のヨハネがそれを強調したかったということがわかります。このヨハネは、12弟子の一人の使徒ヨハネですから、主イエスのそばにいつもいて、その語られること、なされることを近くで見ており、文字通り寝食を共にしてもいました。ヨハネは、主イエスをそば近くでいつも見ていた中で、本当にこの方は御自身で言う通り、天の神のもとから来られた方だと確かに認めていたのです。人は、近くでいつもその言動を見ていれば、その人が大体どれほどの器の人かということがわかってくるものでしょう。ヨハネは、イエスのなさること、語ることをつぶさに見聞きしている中で、全て主イエスが語られたとおりだと深く味わったでしょう。

 主イエスがこの世に神のもとから遣わされたからには、神の目的と動機があることをヨハネは語ります。なぜ神は独り子を遣わしてくださったのか。それは、神が私たちを愛しておられるからです。私たちは神の前に罪を犯している。それは聖書が全体を通して告げている厳然とした事実です。これを私たちはまずよくよく認めなければなりません。この世に生まれて来た人、そして今後生まれてくる人、誰一人として、この事実から免れられません。神に相応しい感謝も讃美も献げず、御言葉を聞いてそれを行おうともせず、それでも神の恵みによって生かされているのが私たち人間です。神は憐れみ深く、御自分に背いているばかりの人間に対しても常にいろいろなものを持って養い、支え、強めてくださっています。人はそのことを知らず、自分勝手に進みたい方へと進んでいる。それがこの世の人間の姿です。


  2.私たちの罪を償ういけにえとして

 それにも拘らず、神はこのような恩知らずの私たち人間を憐れみ、罪の結果である死と滅びから救い出すために、御子を遣わしてくださいました。それは、私たち罪ある者たちを神が愛してくださっているからです。しかもただ遣わすだけではなく、私たちの罪を償うためです。そのために御子イエスは十字架にかかられます。十字架は、この世において、恥と痛みと苦しみをこれ以上ないほどに与える刑罰です。人々の前で裸にされ、釘で木に打ち付けられ、身動きもできず、しかもすぐには死ねず、渇きと痛みに長時間耐えねばなりません。ローマ帝国でも、市民に科されることはなく、奴隷などの最下層の身分の者の重罪に対して科される刑罰でした。甚だしい屈辱を受刑者に与える刑罰です。神は、人間としてこの世にお遣わしになった御自身の御子が、このような刑罰を多くの罪人の代わりに受けて、その多くの人々の罪を償うことを御心の内に定めておられました。私たちを愛するがゆえに御子をそのように罪の償いのために差し出すのは、神が御子をそれほど愛していないからではありません。では、御子よりも私たちを愛していたからでしょうか。聖書はそういう問いはしませんが、神が御子を愛しておられるのは言うまでもありません。それでも敢えて御子を恥辱と苦しみと痛みの中に差し出されたのです。そこまでしないと私たち罪人を罪から救い出すことはできないからです。

 神は全能です。全能とは、行おうと思って不可能なことはないということですが、それでも神は御自身の正しさ、聖なることに反することはできません。全能でもご自身に反することはできないし、行わないのです。正しく聖なる神は、私たち人間の罪をただ不問に付して赦し、無罪として受け入れてしまうことはできません。罪は罪として罰するのが正しく聖なる神のなさることです。それゆえ神は御自身の罪なき御子が罰を受けることにより、他の者の罪を償うこととされました。ですから、神は私たちに対する愛を貫かれると共に、御自身の、罪を罰する正しさにも背かず、私たちを罪から救い出す道として、御子イエスの十字架の死という手段を取られました。これは本当に驚くべきことです。


  3.私たちを生かし、互いに愛する者とするために

 そのように、神は私たちを愛するがゆえに御子を十字架に差し出してまで私たちの罪を償い赦してくださるのですが、それはただ私たちが赦されて無罪放免となり、後は好き勝手に生きるためではありません。この世でも、親が、子どもの犯した罪を償って代わりに弁償することがあります。子供にはその力がないからです。それでも恩知らずの子どもが親への感謝を忘れてなお好き勝手に生きている、ということがあることでしょう。親なのだから当たり前だと。

 しかし、神はもちろん私たちがそのような子どもでいることを喜ばれはしません。まず神は私たちが生きるようになるために御子を遣わされました(9節)。ここで生きるとは、ただ命を長らえるということではなく、神の前に、神と共に、神から善きものをいただいて、神との親しい交わりの内に生きることです。神は私たちに善きものをくださって養い、私たちの側からは相応しい感謝と愛と讃美を献げます。神と共にあること。これこそ私たちが真に生きることです。

 そして、神とその御子イエスによって罪を償っていただき、赦しを与えられて生かしていただいた者が、互いに愛し合うことを神は望んでおられます。互いに愛しましょう、とヨハネは呼びかけます。互いに愛する。これは人間が苦手なこと、人間の世界で最も行われ難いことではないでしょうか。片方の人が深くしており他方はそれほどでもない、というのはよくありそうです。あるいはどちらもそれほど愛していない。逆に愛するどころか憎み合っている、それが、神から離れ、神にそっぽを向いている人間の姿です。神の愛を知りませんから、人間の誰かから愛されても、その愛をなかなか感じ取れず、その愛に愛を持って返すこともなかなかできない。それが罪人の私たちです。

 しかし神は、そのような互いに愛する、ということから程遠い私たちを、新しく生まれ変わらせ、互いに愛するものへと造り変えてくださいます。しかしこの世に生きている限り、それはこの世では完成しません。しかし、それでも私たちは、互いに愛し合う道へと招かれました。それにはるかに足りないものであることも自覚させられます。それは神の霊、聖霊を与えられているから自覚できるのです。もとより神の霊である聖霊が私たちの心に来てくださったからこそ、私たちは御子イエスを信じるように導かれたのでした。

 私たちの神に対する愛も、赦しをいただいた者同士ですら互いに愛することにおいて不完全な私たちですが、その神の愛に留まろうとする者は、神の内にいるのであり、神もその人の内に留まってくださいます(16節)。人間の親は子どもを思い通りに正しい道に歩ませ続けることができないことがあると言えましょう。しかし神は、御子イエスによって私たちの罪を赦してご自分の子どもとしてくださっただけでなく、御自身の霊である聖霊によって、私たちを内面から造り変え、神を愛する者へと日々新たにしてくださり、それを私たちがこの世に生きている限り継続してくださっています。私たちはそのことをもっともっと良く知り、悟り、神への感謝と愛と讃美とを献げたいものです。

 今、クリスマス礼拝を献げています。クリスマスは、このような神の愛が私たちの内に注がれ、明らかにされたことをはっきりと示す出来事です。御子がこの世にお生まれになったのは、先ほど言ったように十字架にかかって私たちの罪を償うためでした。それは私たちが神の前に生き、神を愛し、そして罪を赦された者同士が互いに愛し合うためでした。そして神は聖霊をも遣わして私たちに神の愛と恵みを悟らせてくださっています。神の愛と恵みと御働きは、もうこれ以上ないほどに私たちに注がれましたし、注がれ続けています。

 それを実感できないのは、残念ながら私たちが神の愛についてあまりにも鈍いからです。私たちは人から鈍感ね、と言われるとカチンと来るかもしれません。それでもいくら鈍感な人でも、誰かの愛を知ったら、その愛を少しずつ感じるようになるでしょう。しかし、神の前には、私たちは神の愛に対して鈍感どころか、何も感じていなかったのです。鈍いどころか、感じる力すら失っていました。そこに神の霊が働いてくださり、神の愛を感じ、受け取れるようにしてくださいました。あとは、私たちがこの世で新たに生かされ、神の愛に応え、互いに愛し合いながら日々歩んでゆくのみです。それは一朝一夕に完成しませんが、その道を辿り始めさせていただいているのが、神に召されたクリスチャンです。これを深く心に留め、神の御子イエス・キリストの御降誕を感謝して祝い、御名をあがめましょう。そして神を愛し、互いに愛する者として歩めるように祈りましょう。そしてその道を新たに歩み始めましょう。

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