「主は私たちのただ中に」2020.12.13
 ゼファニヤ書 3章14~20節

 今日は待降節の第三主日となりました。来週はクリスマス礼拝となります。月一度、旧約聖書から御言葉を聞いておりますが、今日は前回のハバクク書に続いてゼファニヤ書の御言葉に聞くこととしました。ちょうど、クリスマスを前にして、救い主の御降誕を覚えるのにふさわしい教えが告げられているからです。


  1.裁きと救いの予告

 このゼファニヤ書は、1章1節にあるとおり、ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に主からゼファニヤに臨んだ主の言葉が記されております。紀元前7世紀の後半、エレミヤ書と同じ頃か少し早い時期にゼファニヤは預言活動をした人です。短い預言書ですが、大変印象深い言葉もあり、主が御自身の民を祝福されることがいかに素晴らしいことであるか、主がいかにご自分の民を祝福されるか、ということが描き出されています。

 しかしこの預言書の前半は、大変厳しい裁きの宣告がイスラエルにも諸外国にも告げられています。この頃、既にイスラエルの北王国はアッシリア帝国に滅ぼされており、南ユダ王国はアッシリアが衰退してゆく中にあり、その後台頭してくるバビロン帝国に脅かされることになります。その前に、ゼファニヤは、ユダの王アモンの父であるマナセ王時代以来の、異教徒の国にならった罪について糾弾しました。主に誓いを立てながら偶像の神を拝む者、天体を神として拝む者、主を求めようとしない者に対する厳しい審判の言葉を語っています(1章5、6節等)。

 そして、旧約聖書の預言書にしばしば登場する「主の日」について語り、それは恐るべき審判の日である、と告げています。それが近づいており、それは地の面のすべての者に及ぶ、とまで言っています(1章2節、18節)。そのような中でも主を呼び求めよ、そうすればまだ救いの望みはある、とも述べています。さらに、異邦人の国々に対しても主は裁きを行うと述べています(2章4節以下)。主を知っているはずなのに、主に背き、従わなかったイスラエルだけではなく、諸外国に対してもその罪をとがめています。イスラエルのように直接主の御言葉をいただいていなかった異教徒の民ですが、しかし彼らは主の民を嘲り、傲慢になって驕り高ぶっていたからでした。自分たちの繁栄は、自分たちの力によると思い上がっていたのです。

 そして、3章では改めて神の民イスラエルの罪を糾弾します。都エルサレムは反逆と汚れに満ちた暴虐の都だ、と(1節)。役人も裁判官も堕落し、預言者も祭司も気まぐれな欺く者、汚れた者で律法を破っていました。政治家も宗教家も罪の内に堕落し汚れ切っていました。酷い惨状です。それゆえ、主は、イスラエルにも諸国にも厳しい裁きを下されます。しかし、その大いなる怒りを注がれた後に、主は驚くべき救いをもたらされると予告していたのです。


  2.主の名を避けどころとする民が残る

 そして、3章9節以下、驚くべきことが予告されています。かつて主が散らした民が、主のもとに献げ物を携えて来るというのです。献げ物を携えて来るということは、礼拝目的でやって来るわけで、主を信じる者となって来るのです。そしてかつて行った悪事のゆえに辱められることもない。しかし、かつて思いあがっていた民もへりくだりを知るようになります。高ぶって主に背いていたものが主に向き直って帰って来る、そしてへりくだって礼拝をするようになる。これは、実は主がなさる御業の中でも最も大いなるものの内に数えてよいものです。頑なな人の心を新しくして、主に従う者へと変えてゆく。これは天地とその中にあるすべてのもの、特に命あるものを創造された主なる神のみがなし得ることです。

 そして、何よりも主の御名を避け所とする民が残されていると言われています。主の御名を避け所とする。このことは本当に大事なことです。主の御名は、主なる神その方を表わすもので、その御名が唱えられる所には、主の御名を信じる者がいるのであり、その上には主なる神の守りと助けとがあり、主の御目がいつもそこに注がれています。


  3.主は私たちのただ中におられる

 ここまでは、今日朗読したところの前に書いてありました。先ほど朗読した14節以下は、神の民の都エルサレムに対する神の力強い言葉、喜び、救い、繁栄の回復等が次々語られます。そして主は、イスラエルの王であられる主なる神がイスラエルの内におられるので恐れることはない、そしてその故に喜べ、という強い勧めをされます。

 しかし、なぜ主なる神はそのようにされるのか。その点についてはここでは触れられておりません。そこには確かに理由があるはずですが、ここではただ主がそのようにされる、だからそれを受け入れて喜べ、と命じておられます。その理由は最後にみることにして、主がその民のただ中におられることに目を留めます。ゼファニヤ書は、この後、主がイスラエルに対して喜びの思いを抱いておられ、繁栄を回復する、という実に希望に満ちた予告で終わります。

 主なる神は神の民イスラエルの内におられる。そして勝利を与えられる、とかイスラエルのゆえに主が喜び楽しまれる、といったことは、歴史の中のどこかで実現したのでしょうか。単にイスラエルの国ということなら、この世界の中で今日に至るまでイスラエルの国と人々はずっと困難な道を歩んできました。イスラエルという国はありますが、その民のユダヤ人である人々は世界中に離散しています。ここで言われているようなことは、夢物語のようにさえ思えます。となるとこれらの預言は、今後将来的にいつの日かこの地上のどこかで実現するのでしょうか。

 そのように期待している、という人たちもいるかもしれません。しかし、私たちイエス・キリストを神の御子、救い主、世に至るべきメシア=キリストと信じる者は、イエスがこの世に救い主として降誕され、地上で歩まれ、神の国の福音を解き明かされて、神の国が既にこの世に到来して実現に向かって動き始めていると言われたからには、このゼファニヤ書で預言されていることも、イエス・キリストにおいて実現し始めていると信じるものです。

 そして、イエス・キリストがこの世に来られたこと、それが主なる神が地上の民を喜ぶことになる、その理由です。救い主の到来は、神がいにしえからその御心の内に御計画されていたことです。その目的は、その救い主の到来と、地上でなさった御業によって、神がご自分の民を喜んで迎え入れ、楽しまれるという点にありました。このゼファニヤ書の前半は厳しい神の裁きの御言葉に満ちていました。神は正しく聖なるお方だけれども、前半だけ見ていると神はとても厳しいお方に見えます。けれども、神の御心は、神に背いているばかりの民であっても、その罪を自ら取り除き、御前に受け入れてその民の中に留まられ、喜び楽しむことなのです。

 今まで触れないでいましたが、主なる神が民のただ中におられると、勝利を与えられる、と言われています(17節後半)。何に対する勝利でしょうか。このゼファニヤの時代であれば、イスラエルを取り巻く諸外国に対する勝利のことです。しかし、もはやここで言われていることは、地上の国々の戦いによって勝利を獲得する、というような次元のものではありません。私たちは、この地上で、誰かに勝利してもそれがいかほどのことでしょうか。国と国が戦って勝利したからといって、それで本当の幸せでしょうか。私たちはこの世界の歴史を見れば、国と国との戦いで勝利しても、それがそこに住む人間の究極の幸いにはならない、ということを知っています。この世で戦いに勝ってもそれは真の幸いではないのです。

 私たちにとって、主なる神が与えてくださる勝利とは何でしょうか。神を信じる者、救い主を信じる者は、自分と同じ人間の誰かに勝利して自分が勝利者となって誰かの上に立つことなど、求めたりはしません。私たちが勝利したいのは、また勝利すべきは、私たちを神から引き離した罪と死に対する勝利です。私たちはこの世に生きている限りは神に背く罪の中にいます。自分の中にも罪があり、世の中にも罪があり、悪があります。それが人を苦しめます。人が人の命を奪い、国と国との戦いでどちらも多くの国民が犠牲を払い、兵士が戦場で命を奪われています。そのような人間の世界にある悪、それによる苦しみ、悲しみ、嘆き。それらを乗り除いて、その悪をもたらしていた人間の罪に勝利させてくださるのです。一九節で予告されている通りです。「見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす」と言われているのは、私たちにとってはそういうことです。すべての者とは、もはや敵の誰彼や国ではなく、私たちを苦しめ、悩ませ、悲しませ、嘆かせる罪と、それがもたらす死のことです。

 それに勝利する方として、救い主が来てくださいました。だから、このゼファニヤ書の預言もまた救い主イエスによって実現するのです。そして、目には見えなくとも、主イエスを信じる民が集う所には、その中に神なる主がおられます。そしてそのように主を信じ、迎え入れる民を主は喜び、私たちの中にいることを楽しんでくださいます。私たちもまた、救い主として私たちのただ中にいてくださる主イエスの御降誕を心から感謝して喜べるのです。主は私たちのただ中におられる。このことを信じているか、と私たちは主から問われているのではないでしょうか。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節