「永遠に生きる」2020.10.4
 ヨハネによる福音書 6章52~59節

 主イエス・キリストは御自身のことを天から降って来た、永遠の命を与える命のパンである、と言われましたが、今日もそのことを中心にお話しします。特に、「このパンを食べるものは永遠に生きる」(59節)と言われた主イエスの御言葉に込められた深い意味を、私たちは教えられています。私たちが生きるとは、どういうことなのか、主イエスはここで明らかにしておられます。


  1.イエスの肉を食べ、血を飲むとは

 主イエスは、ご自分のことを天から降って来た生きたパンであり、これを食べる人は永遠に生きる、と言われたものですから、またしても聞いていたユダヤ人たちから疑問の声が上がりました。41節以下でもすでにユダヤ人たちの質問が出されていました。そのときは、「天から降って来た」ということに重点が置かれていました。イエスの生まれ育ちを知っているのに、なぜ天から降って来た、と言えるのかというのです。この疑問について、主イエスは「どうしてそんなことが言えるのか」という質問には直接答えておられません。天の父である神が引き寄せてくださるなら、その人には分かる、という答えをされました。どうしてそう言えるのか、そういう問いに対しては、本当にそうだからだ、というのが答えです。そしてそれが真実かどうかは、主イエスを信じる者でなければ分からないのです。イエスを神のもとから来られた神の御子だと信じる人からは、もはやこのような問いは出てきません。

 そして、51節までの主イエスとユダヤ人たちとのやり取りでは、イエスという天からのパンを食べる、ということについても語っておられましたが、具体的に食べる、ということについては語っておられなかったので、今日の箇所では、どうして、つまりどのようにして食べさせるのか、とユダヤ人たちは疑問を投げかけています。しかし、ここでもまた主イエスは、どのように、という方法についてはお語りにならないのです。イエスの肉を食べ、血を飲むなら永遠の命があり、復活にあずかれる、というのですが、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは具体的にどういうことなのかを、ユダヤ人たちの疑問に沿っては答えておられません。

 しかしこのことは難しく考えるよりも、これまで主イエスが語ってこられたことを振り返れば見えてきます。イエスの語られる御言葉を素直に聞き、受け入れて信じることです。それはイエスというお方を本当に神の御子と信じて近づいていく者には決して難しいことではありません。けれども、そうでない人には大変難しいことになってしまうのです。このユダヤ人たちがそうであったように。この人々は、イエスの肉を食べ、血を飲むということをまず文字通りにだけ考えます。そして具体的な方法を聞きたがるのです。

 これは、わたしたち現代人がいつもしていることかもしれません。具体的にどうやるのか、どんな方法でできるのか。それをよく知りたい。原因と結果も知りたい。科学的視点からも納得がいくような説明がほしいのです。特に今日では、目に見えないこと、霊とか魂とか言われることに対して、その存在を信じない人は多いかもしれませんので、ここでユダヤ人たちがしているように、激しい議論になってしまうかもしれません。神を信じ、主イエスを信じる者も、疑問を持つ人々と議論になってしまうこともあるかもしれません。しかし、主イエスが天から降ってこられた命のパンであり、私たちがそれを食べる、ということについていくら議論をしても相手を納得させることは難しいでしょう。それは不可能ではなく、必要とあれば主なる神が、議論で反対する人を論駁させてくださるということもないわけではありません。ステファノの例があります(使徒言行録6章9、10節)。

 しかし私たちは議論で論駁するよりも、与えられている信仰によって自分の信じる所を率直に語る、ということが大事です。主イエスも敵対する人たちに対して、議論で論駁するよりも、御自身のことを証しするという仕方で語られたことが多かったと言えます。


  2.聖餐式との関連

 さて、こうして主イエスはどうやってイエスはご自分の肉を人に食べさせることができるのか、という問いに対して御自身の肉と血が、それぞれ真の食べ物、飲み物である、と言われました。どのようにということではなく、食べて飲むならば、どういうことになるか、と言われるのです。

 ここで、主イエスが聖餐式を制定されたことを思い出します。ヨハネによる福音書には他の福音書とは違って聖餐式制定の記事がありません。しかしこの6章には、主イエスの肉を食べ、血を飲むということが言われており、聖餐式を意識しているように見えます。確かに主イエスは聖餐式を制定される時に、パンを裂いて「これはわたしの体である」と言われましたし、ぶどう酒の杯を取って、「これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言われました(マタイ26章26~28節)。

 しかしこのヨハネによる福音書6章で、聖餐式そのもののことを言っているというよりも、やはり主イエスと私たちとの強い結びつきのことを語っておられるのです。ここで主イエスは「食べる、飲む」という行為をあげておられます。私たちは食べ物や飲み物を食べたり飲んだりして、それを体の中に取り込んで、その栄養分を自分のものにし、そして命をつないでゆきます。それまでは自分とは別物だった食べ物も飲み物も、消化されて自分の体の一部となってゆきます。そうなると、もはや自分の体のどの部分がどの食べ物によってできているか、などということはわからなくなります。それが食べ、飲むことの結果起こることです。

 主イエスは、そのようなものとして食べることと飲むことの譬えを用いています。イエスの肉と血、とは確かに主イエスが人となって体を持つお方として私たちのもとに来られたことをまず表しています。そして、イエスが人となって肉の体を持ち、その体をもって十字架で御自身を献げてくださった、その御業があります。この時点で、まだイエスは十字架にかかっていませんけれども、肉を裂き、血を流された主イエスは私たちの罪の償いとして、献げられます。私たちはその肉と血によって罪を取り除かれるのです。イエスの血は私たちの罪の償いのために流されました。それは確かにイエスが十字架上で死なれたことを示しています。

 ですから、イエスの肉を食べ、血を飲むとは、文字通りのことではありません。しかし、人としての体を持ち、十字架で血を流された主イエスを信じ、この方と結びつき、自分の命をゆだねる。それによって主イエスはその者の内におられ、その信じた者もまた、イエスの内にいることになるのです。それは食べ物がその人の内にあって、もうその人の一部になっており、切り離すことができないのと同じように、私たちも主イエスと一つにされます。

 ただし、イエスを信じてイエスに結び付けられた者の中にイエスの神としての御性質が混ざりこんできて、私たちが神のようになってゆくということではありません。私たち人間は人間、イエスは神の御子であります。神の性質と人の性質とが私たちの中で混ざってしまうということではありません。

 しかし、主イエスと私たちとは一つにされている。これはもう、神の与える最大の恵みであり神秘です。しかし私たちはそれを与えられています。聖餐式は、それを印づけるものとして主イエスが制定されました。私たちはもう八ヶ月も聖餐式を行えていません。聖餐式を行うことによって確かに私たちの信仰は養われ、強められるものです。しかし聖餐式が行われないからと言って、私たちの信仰がだめになるのではなく、主イエスとの結びつきは確かに与えられていることを信じましょう。そしてこの状況が終息して再び聖餐にあずかれる時が来ることを待ちましょう。


  3.このパンを食べるものは永遠に生きる

 こうして、主イエスと一つにされた者は、いつもイエスの内にいることになり、主であるイエスもまた私たちの内におられる。そして、私たちはイエスによって生かされる。しかも永遠に生かされます。それは決して今の状態が延々と続いて終らないというのではありません。今とは違う次元で生きるようになります。見た目は変わらないでしょうし、イエスと結びついた後も、私たちはこの世にいる限り呼吸し、飲み食いしなければ体を維持できないのです。

 では、永遠に生きるのは、この世を去って死んでから初めてそのようになるかというとそうではありません。イエスの言葉を聞いて信じ、イエスを遣わされた天の父なる神を信じる人は、すでに永遠の命を得ており、死から命へ移っているのです(ヨハネ5章24節)。私たちは信仰によって、日々それを受けていることを味わってゆく者として召し出されています。私たちは、主イエスにまみえ、神の国の祝宴に与る日を待ち望みます。

 私たちの父なる神は、私たちに命を与え、この世に生まれさせてくださいました。その時から、いいえ、天地の造られる前から私たちのことをキリストにあって選んでおられました(エフェソ1章4節)。そして、「恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43章1節)、と言ってくださっています。それは私たちの羊飼いなる主イエスによって、私たちに実現しました(ヨハネ10章3、4節)。ですから、この地上で既に永遠の命は始まっています。羊飼いなる主イエスに結び付けてくださった私たちの神は、聖霊の恵みによってもまた、私たちを永遠に生きる者として支え守り、助け導き、強めて栄光の御国へと伴ってくださるのです。

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