「銀貨を捜す女」2020.10.18
 ルカによる福音書15章1節~10節  小原光稔委員

 今日の奨励は元名古屋教会の牧師:鈴木英昭先生の『神の国への招き』から奨励題をいただきました。ルカによる福音書には、たとえ話が多くあります。聖書箇所は8節~10節ですが15章1節から10節までをお読みします。

   イエス様が収税人や罪人たちと一緒にいると、パリサイ人や律法学者たちはつぶやいて「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2節)と不平を言いました。ここで、彼らは、つぶやくと同時に裁いています。

 3節から10節には、2つのたとえが書いてあります。

 1つは羊のたとえで、1つは銀貨のたとえです。それぞれなくなった羊1匹(銀貨1枚)を見つけて、大喜びしてパーティーを開くというものです。このたとえは、私たちに対する神様の愛に関して語っています。罪人である私たちが悔い改めて神様に立ち返るとき、神様は大喜びしてくださるのです。

 迷い出た羊が私。羊飼いはイエス様。イエス様がこの私を見出してくださるうれしさです。

 しかし、今回の奨励では、もっと深いところにイエス様の言われた本当の意味があることを少しだけ知ることができました。

まずひとつ手がかりは、このイエス様のたとえ話が、誰に向けて語られたかということです。それは先ほど読みました15章の最初のところに書いてあります。

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された(同1-3節)。

 たいへん有名な羊、銀貨、放蕩息子のたとえ話すべてを、この徴税人や罪人に対して、ファリサイ派の人々、律法学者たちが不平を言い出したことについて、イエス様が語り始められたということです。

 99匹の羊を残し、1匹の羊を探しに行った羊飼いのたとえ話も、まさにそういうふうに理解しないといけないわけなのです。そして間違いなく、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分が迷い出た1匹の羊だとは、絶対に思っていないということであります。彼らにとっては、神さまの喜びは、ただ正しい人々だけに向けられるものだ。

 正しい人々をご覧になって神さまはお喜びなるのだ。正しい人々以外は、神さまはお喜びになりはしまい。そう考えていたというのです。しかし、イエス様がこのたとえ話で、ファリサイ派の人々、律法学者たちを攻撃されているわけではありません。むしろファリサイ派の人々、律法学者たちを、一人の罪人が悔い改めた時の神さまの喜びにあずかるようにと招いておられるのです。イエス様の御言葉を求めて集まって来た人々と共に、その喜びに、あなた方もこの喜びに加わりなさいと招いておられるのです。

 いなくなった羊の物語。その最も大きなこと、大切なこと、それが、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(同5-7節)。このより大きな喜び。天においてより大きな喜びが起きるということです。喜んでいるのは羊ではなく、天、神さまであるということなのです。

 このことは続く8-10節で語られます。銀貨9枚はあるのです。でも1枚が見あたらない。だからこの女の人は。ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて(同8節)捜すのです。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』(同9節)と言うのです。イエス様は言葉を重ねられます。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(同10節)。羊も、銀貨の物語も、一人の罪人をさがし、一人の罪人が悔い改めるのをごらんになった「神さまの喜び」の物語です。

 次にあるのが有名な『放蕩息子のたとえ』です(11節以降)。

 ここで羊の物語と銀貨の物語とを読んで、さらに放蕩息子を読んだ時に誤解してはいけないということです。失われた羊をここまでたずねもとめてくださるイエス様、神さまのお姿を見て。放蕩の限りをつくした弟を迎え入れ、歓迎してくださるお父様の姿を見て。ファリサイ派の人々にも、律法学者たちにも理解できなかったこと。それは罪人を迎えるところにある「神さまの喜び」でした。罪人を迎えるために、ひとり子イエスを十字架につけ、罪人の罪のあがないのためにほふりなさったのです。キリストの十字架なくしては、私どもの救いの道はなかったと言うことです。

 《キリストの十字架》・・・・《罪人は私ども》

 罪人が帰ってくる。罪人が悔い改めて神さまのみもとへと帰ってくる。それが神さまが最もお喜びになること。それが、放蕩息子の物語をも含めてのメッセージなのです。

 先ほども言いましたが、ファリサイ派の人々や律法学者たちにとってはっきりしていたことがありました。それは自分たちは罪人ではないという確信であったのです。でも私どもは知っているはずです。常に聖書の御言葉を通して、また信仰の教科書をも通して、私どもが罪人として神さまの恵みを求めないではいられないこと。私どもは御言葉を求めます。イエス様の前に歩み出ます。赦しをいただきたいのです。そしてそれこそが、この聖書が言う、神さまが最もお喜びになることなのです。

 聖書の中には、よく知られている話、というものがいくつもあります。

しかし、気をつけて読みたいポイントがあります。それは、有名で、よく聞いたことのある、分かりやすい話だからこそ、わたしたちは安易に読んでしまう、理解してしまうという落とし穴のことです。こういう箇所ほど、あっさり読んで、得心してしまう。そこに、神様からの恵みを受け取り損ねる危険が、潜んでいるのです。わたしたちは、11節以下も含め、これらの三つのたとえを、何と呼んでいるでしょうか。人に紹介するとき、教会員同士で話をするとき、何と呼んで、ルカによる福音書15章に出てくる三つのたとえを、説明しているでしょうか。恐らく多くの人が、「ほらほら、あの99匹と1匹の羊の話よ」とか、「なくなっていた1枚の銀貨のたとえ」とか、「放蕩息子のたとえ」とか、そういう風に、呼んでいるのではないでしょうか。新共同訳聖書の便利なところは、まさにこういう見出しがついているところにあります。しかし、この見出しがいつも適切なのか、見出しに引きずられて安易に内容を特定してしまわないように、気をつける必要があります。見出しを見て、「ああここにはこういう話が書いてあるのね」と、先入観をもって読んでしまったり、ひどいと本文をちゃんと読まなかったり、そういうことのないように、気をつけたいものです。というのも、今日わたしたちが読んでいる二つのたとえ、これらのたとえは、「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」とは、「言えない」からです。

 言えないからです、というのは、ちょっとあえて誇張した言い方をしましたが、的外れとまでは言えないまでも、主イエスの語られた内容の豊かさを、もったいないことにだいぶ切り落としてしまうようなところがあるのです。

この見出しに誤りがあるとは言えません。間違いなく、真理の一面を伝えています。主イエスは羊のこと、銀貨のことを、確かに話されました。でも、主イエスが本来伝えようとされた内容を、見落とすきっかけになりかねないのが、見出しというものだということを、

 皆さんには是非、踏まえた上で、聖書と向き合っていただきたいと思うのです。だから、礼拝における聖書朗読では、この見出しは読まないのです。聖書の本文ではないところは、神の言葉ではないので朗読しないのです。今回、わたしたちが読んでいる二つのたとえの見出しが、なぜ、たとえ本来の内容を見落とすきっかけになりやすいのか。それは、このたとえで語られている主人公を、わたしたちが「取り違えて」聴いてしまいやすくなるからです。「見失った羊のたとえ」、「無くした銀貨のたとえ」。これらの見出しでは、羊や銀貨の方に、注目が集まります。「羊の」たとえ、「銀貨の」たとえ。修飾語を落とすと、このようになります。これは、羊や銀貨にたとえられている、人間を中心とした、見出しのつけ方です。もっと言えば、救われた側から見た、この話の要約です。

 だから、何を中心にこのたとえを読むのか、「見失った羊のたとえ」という見出しだけを頼りに読んではだめなのです。しかし、羊のたとえ、と言っている限り、つまり羊に表されている「人間についての話」として理解している限り、わたしたちは、主イエスのおっしゃろうとしたのとは違う方向に進んで行って、それこそ迷子になってしまうことが十分ありうるのです。

わたしたちは、このたとえを「神中心に」、飼い主中心に、読んで行きたいと思います。神の喜びに焦点を当て、このことから外れないように、御言葉を聴いていきたいのです。

 1匹のために捜し回った飼い主は、いったい何を願っているのか。たった1人のために労苦する神様は、どういう神様なのか。主イエスがわたしたちに伝えたかったのは、この、「神様の」姿なのです。そこでは、救われた人の姿というものはあったとしても、あくまで背景としてなのです。飼い主にたとえられている神様は、たった1匹、たった1人が、失われていたのに見つかる、このことを喜びとされるお方だと、このたとえは言っています。

 そこには、99対1という理屈はないのです。足して100になる群れがあったら、そこにいる1ずつが、神様にとっては欠けてはならない存在なのです。大事なのは主イエスがわたしたちに伝えようとされた、この、神様の性格なのです。神様は、誰一人として、放っておけないのです。そして事実、誰一人として、神の国の救いへの招きから、除外されないのが神様なのです。1匹を捜し回った結果、99匹のうちからまた何匹か、はぐれてしまうものがいたのなら、神様は今度もまた同じように、1匹1匹を探し回るのです。 大事なのは、今、神様のもとからはぐれている者が、また神様のもとに帰ってくること。シンプルなことに、ただこれだけが、神様の喜びなのです。

 それも、自分だけで笑いをかみ殺すように喜ぶのではなく、同じように神様のもとに帰って来て、一緒に食卓を囲むことができるようにされた人たちと、この嬉しさを分かち合いたくて、もうしょうがないのです。主イエスがたとえでお話しになり、わたしたちに知ってもらいたいのは、こういう神様の姿なのです。そしてこの主の言葉の前に立っている一人一人に、あなたがた一人一人が、神の捜し求めておられる尊い一人一人なのだということを、是非とも伝えたいのです。

   先ほど、99匹と1匹という話をしました。99匹の方が量的に大切だ、1匹の99倍大切だ、という声が、羊を中心に見たとき、人間を中心に見たときには、必ずと言っていいくらい出てくるということをお話ししました。しかし、一人一人を見つめて、神中心の喜びの輪の中に取り戻そうと探し回る神様を中心に、このたとえを聴いて行ったときに、一つのことが明らかになるのです。それは、99匹と1匹という対比を持ち出して、99匹の方が大切だとわたしたちが言うとき、誰一人として、自分があの、たったの1匹の側にいる前提ではものを言っていない、ということです。自分が1匹の側にいるとは思っていないから、それでは99匹がほったらかされて、全体の利益が損なわれる、というようなことが言えるわけです。もし、自分が迷い出た1匹の側にいたら、そんなことは言っていられません。今、危機に瀕しているのは、命の糧から離れ、霊肉共に飢え渇くということです。神はまず、その一つ一つの命から、御許へと連れ帰ってくるために労苦されるのです。

 そして、このたとえを聴いている全ての者が、実は神様に多大な労苦をおかけしているのです。ここに来て座っている一人一人が、神様が探しに探した一人一人なのです。99匹の側に回って高みの見物を出来る者など、神の前に一人もいないのです。無意識のうちに、99匹の側にいるように思っていた一人一人も、皆1匹の迷った羊と同じです。 

 自分は99匹の側で、徴税人たちは1匹の側。こういう人間中心の図式があって、だからあの1匹は落伍者で、自分たちは普段から律法を守っているから神の国の宴に招かれていると、いつの間にか思い込んでいるのです。これは、何の根拠もなく、何となく人を裁き、差別しているのよりも、遥かに根深い問題です。自分はもう、自力で99匹の側に到達している。そう思っていながら、あいつは迷子の羊だと裁いている。こういう心理が、人間には根付いていくのです。それも、それが神様の前に正しいと思い込みながら。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分がもう、自力で99匹になったと思いこんでいるものだから、自力でそこにたどりつけていないように見える、迷子の羊のように見える徴税人たちが、自分たちと同じように神の国に入り、神主催の大宴会に、同じ顔して参加するのが許せなかったのです。それで、主イエスに不平を言ったのです。「あなたも神の前に正しい者として生きるならば、あんな連中を清い交わりに加えるべきではない」。そう言って、自分たちこそが神の国に相応しいかのように、主張したのです。これは、これまでルカによる福音書が描いてきた、ペトロのこの一言に象徴される思いと同じです。「このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか、それともみんなのためですか」。また、別の箇所で言えば、自分をどこに置いて言っているのか分からない、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」というのと同じです。皆、心の中で、自分たちの方が、徴税人のような人たちよりも、一等上の人物だと思っている。そういう人間の思いを抱いています。これと同じ、思い上がりと他者を裁くという罪が、今回のたとえが語られた背景にはあったのです。

 主イエスは、共に喜ぼうと招いておられる神を前にして、徴税人や罪人と一緒に食卓を囲み、喜ぶのが不満に思えてならない人に対して、たとえを語られたのです。

 自分は1匹の側だ。神の前に罪を犯し、神から離れていると思っている人にではなく、自分はもう、自力で神の宴に相応しい99匹になっていると勘違いしている人に、皆、全ての者が1匹の羊なのだ、1枚の銀貨なのだと、たとえを語られたのです。そして、一人一人が神様に探し出していただき、連れ戻していただいた1匹の羊として、自分と同じように隣人が神様に救われて帰って来るのを喜ぶよう召されている。神と共に喜ぶものとなるために、群れの中に入れられている、そういう存在なのだということを知るために、主は語っておられるのです。

 だから、探し出されたわたしたちは、わたしたち一人一人を探し出して大喜びしてくださる神様と共に、同胞・隣人がこの群れに帰って来ることを望み、それをわが喜びとするのです。それこそが、わたしたちの伝道です。隣人を救い出した神の喜びを、かつて同じように救われた者として喜ぶ。これこそが、伝道の業に仕える者にとっての、何よりの喜びになっていくのです。わたしたちは、自分自身がたった1匹、たった1枚に過ぎず、なおかつ見失ったのは自分の方であるにもかかわらず、それでも神様に自分を探し出していただいた者として、そして喜んでいただいた者として、今ここにいるのだということを、まず確認したいと思います。何もできなかったのに、神のお遣わしになったキリストによって再発見していただいた者として、神中心の食卓に招かれている。その喜びをもって、一緒に喜んでくれという神様の呼びかけに、応えていくものでありたいと思います。人が1人、神のもとに立ち帰ることが出来た。それが神様にとって、どれほどの喜びであるのか、それをかみ締めて、神のこの愛に応えて生きていくものでありたいと思います。

 わたしたちが、1匹の羊を見つけたとき、1枚の銀貨を発見したとき、この神様ほどに、喜ぶでしょうか。喜んだとしても、友達や近所の人まで呼んで、一緒に喜んでくれと、言うでしょうか。しかしこれが、わたしたちを探し出した神様なのです。この神の愛を受け取り、応えて生きていく。それが、キリスト者の生涯なのです。
お祈りします。

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