「誰のもとへ行くべきか」2020.10.11
 ヨハネによる福音書 6章60~71節

 御自身のことを、天から降って来た永遠の命を与える命のパンである、と言われた主イエス・キリストは、更にご自分の肉と血を食べる者は永遠の命を得て、永遠に生きると言われました。このような話を聞いていた弟子たちの多くの者が、今日の朗読箇所のように、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と言ったのでした。

 先に議論し始めたのはユダヤ人たちと言われていましたが、ここでは弟子たちの多くの者です。しかし、主イエスが特別に選ばれた12弟子ではなく、これまでイエスについてきて、弟子となっていた多くの人々のことです。そしてこの人たちの多くが主イエスから離れ去ってしまったのでした。主イエスの語られることは、このようにイエスとたもとを分かつ行動にまで人を至らせてしまうこともあることがわかります。つまりイエスの言われることは、誰にでも耳触りの良い、聞きやすく、抵抗のない言葉ではない。これは明らかです。最終的にはイエスにつくか、それとも離れていくか、という究極の選択にまで至る、というものなのです。その点を心に留めつつ、私たちもまた、イエス・キリストというお方の前に立っています。その御言葉を聞いて、私たちはその後についていくのか。また背を向けて行くのか。突き詰めればどちらの態度をとるか、という問いかけを与えられているのです。


  1.イエスにつまずく

 主イエスの言われたことをまっすぐに受け止められなかった弟子たちの多くの者は、イエスにつまずきました。人々がイエスにつまずいた話は福音書に何度か出てきます。つまずく、とは日本語では中途で挫折する、とか失敗する、という意味があります。そのまますんなりと道を進むことができなくなってしまうのです。イエスのお話を聞いて、その素晴らしい御業を目のあたりにしてきたはずの多くの弟子たちでしたが、イエス御自身の肉を食べ、血を飲む、という話になってくると、それを素直に受け入れて、イエスに従って行くことができなくなってしまいます。結局は、自分の考えの及ぶ範囲、許容できる範囲を超えてしまうと、もうその後についてゆくことができないです。

 主イエスは言われたことがあります。「わたしにつまずかない者は幸いである」(ルカ7章23節)。イエスの御言葉が、たとえどんなに自分の考えや知識や感覚からかけ離れていても、なお、イエスのなさることと御言葉に心を留め、従っていこうとする人は幸いです。


  2.霊であり、命である言葉

 ここでイエスにつまずいた弟子たちに対してイエスは言われます。「命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。霊と肉が対比されています。主イエスは、ご自分の肉を食べ、血を飲む者には永遠の命が与えられる、と言われました(54節)。同じ「肉」という言葉が使われています。しかし、イエスの肉、というのは人としての体をもってこの世に生まれたイエスのことであり、その体が献げられることによって私たちの罪の贖いが成し遂げられ、救いが与えられるということでした。

 しかし今日の箇所で主イエスが「肉は何の役にも立たない」と言われるのは、ただ単に肉と言われており、それは霊と対比されるものとしての肉です。ここでいう「霊」とは生まれながらの人間を、神に結び付け、神との交わりの内に生きるように新しく生まれさせてくださる神の霊、つまり聖霊のことです。それに対して「肉」は、その聖霊の恵みをまだ受けていない、生まれながらの人間の性質を指しています。

 聖霊は私たちに新しい命、つまり永遠の命をくださいます。それに対して私たちの生まれながらの肉と呼ばれる性質は、新しい命をもたらすのに何の役にも立ちません。これが、主イエスが「肉は何の役にも立たない」と言われたことの意味です。ですから主イエスは矛盾したことを言っておられるわけではありません。私たちはこのように、主イエスがどういう場面で何を意図して語っておられるかを良く読み取らねばなりません。これは聖書全体にわたって、私たちが心得ておくべき読み方です。

 そして、私たちが主イエスの御言葉を本当に理解し受け入れるためには、神の霊、聖霊のお働きに与るよりほかにありません。しかしこの聖霊は神がお与えになろうとする者に、自由にお与えになります。となると、私たち人間が求めたらその通り与えられるとは限らない、と思えてしまうのですが、実はそうではありません。主イエスは言われました。「天の父は求めてくるものに聖霊を与えてくださる」と(ルカ11章13節)。そして、聖霊によって主イエスの話された「霊」による御言葉を受け取ることのできた人は、天の父がイエスのもとへと招かれた人であることが明らかになるのです(ヨハネ6章65節)。


  3.私たちはイエスのもとに行く

 「このために」(66節)、弟子たちの多くはイエスから離れ去ってしまい、イエスと共に歩まなくなってしまいました。このために、とは何のためにでしょうか。多くの弟子たちが、イエスの話されたことを「実にひどい話だ」と決めつけてしまったためでしょうか。または、「父からお許しがなければ、だれもわたしのところに来ることができない、と言われたために、そのとおりになった、ということでしょうか。どちらにも取れますが、この言葉は「この時から」とも訳されていますので、いずれにしても、イエスの語られたことについて受け入れない弟子たちが、この時以来離れて行ったのです。主イエスの御言葉は、神の御子の語られたことなのだから、それを聞いた人は必ず神のもとに導かれると思いたいのですが、そうではなく、むしろ多くの弟子たちですら離れ去ったというのです。

 私たちはこれを見ると、人間はいとも簡単に神の御子から離れ去ってしまうのか、という印象を受けます。しかしそれはここに出てきていた多くの弟子たちのように、表面的にはイエスの弟子となっていたけれども、イエスが奥深い真理を語られると、それはもはや自分の感覚や知識などからしてついてゆけない、となってしまう、その人間の現実を示しています。12人の中にすらも、イエスを裏切るユダのような人がいました。しかしそれでも主イエスについてゆく者がいます。それは私たちに真の命を与える神の霊=聖霊の力強いお働きによっています。私たちはその聖霊の恵みにより頼む者であります。

 最初に、私たちは主イエスについてゆくか、それとも背を向けて離れてゆくか、という問いを与えられていると言いました。しかしそんな極端な二者択一を迫られても、まだそんな所まで自分の理解は達していない、という方も求道者の中にはおられるでしょう。確かに、まだイエスのことがそれほど良くわからなければそれは当然のことで、特に現代の日本人とすれば致し方のないことかもしれません。ですから、今、聖書に触れている方、この話を聞いている方には、少なくともイエス・キリストというお方が、天から来られた神の御子であり、私たちに永遠の命に至るパンを与えるお方であり、命のパンそのものであられる、そういうお方であることを知っておいていただきたいです。

 そして、既に信仰に導かれて、イエスをキリストと信じ、救い主として受け入れて信仰告白し、洗礼を受けている方は、改めて自分の救い主として信じ、受け入れ、従っていることを再自覚しましょう。そして共に主イエスから離れることなく、永遠の命の言葉を常にいただいて、信仰の道を進み続けたいのであります。

 今日では、あらゆる情報が目と耳に入ってきます。最近の新聞に、ある方の言葉がありまして、伝統的な宗教は現代では力を失っている、ということを言っていました。宗教そのもののことを語った話ではないのですが、一般的な理解としてそうだということでしょう。確かに、ヨーロッパでは歴史のあるカトリック教会に集まる人は高齢者が殆どで、数も非常に少なくなっている、ということは聞きます。しかし、これらのことから、力を失っている、と断定できるかどうかは見方次第だと思います。もし、伝統的宗教(キリスト教以外も含めて)が築いてきたものが全てなかったとしたら、現代社会は、全く別物になってきたでしょう。良し悪しはあるけれども、力を失ってしまった、と一言では言えないと思います。社会現象としては、そう見えているでしょう。しかし、単に宗教の力というのではなく、神の御言葉の力、人を生かす神の力と見れば、その力は決して失われていません。私たちは、私たちの魂を救う神の霊の力を信じます。それに対して、魂の救いのためには肉は何の役にも立ちません。

 逆に神のもとから来られた神の聖者である、御子イエス・キリストには永遠の命の言葉があります。その主イエスと主に歩む道へと私たちは招かれました(66節)。イエスから離れ去るのではなく、イエスと共に歩むことこそ、私たちの真の幸いです。私たちは誰のところへ行きましょうか。永遠の命の言葉を持っておられる主イエスよ、あなたのところへ行きます、主と共に歩ませてください、と願う者を主イエスはその御言葉と聖霊とによって導き、その道を全うさせてくださるのです。

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