「イエスを信じる者は決して渇かない」2020.9.6
 ヨハネによる福音書 6章34~40節

 私たち人間も、たいていの生き物も、食糧や水分を外から受け取らなければ生きてゆけません。動物の場合、殆どの場合文字通りの食べ物と飲み物があればよいと思います。殆どといったのは、動物も寂しさを覚えているのであろうということは、飼っている動物をみるとわかるからです。人間の場合は、飢え渇きと言った場合、体だけではなく、心、魂の飢え渇きの比重が大変大きくなります。そして、ただ寂しさを感じる、というだけではなくて、魂の奥深いところで、自分にもよくわからないけれども、飢え渇きがある、ということを私たちは否定できないと思います。人間に魂の飢え渇きがあるということは、今のこの世での、目に見えるものによって衣食住が満たされていればそれで十分であるとは言えないものが何かあるからではないでしょうか。それは確かにあると言えます。その飢え渇きを満たしてくださるお方として、神の御子イエス・キリストがこの世に来てくださいました。


  1.神のパンはどこに

 さて、今日の朗読箇所は、主イエスの周りで話を聞いていた人々の質問から始まりました。「そのパン」とは、直前の33節で主イエスが語っておられた、「神のパン」のことです。昔、神がモーセの時代に天からの食べ物としてマンナというものを与えてくださいましたが、それは文字通り荒れ野において、毎朝天から与えられた貴重な食糧でした。それによって人々は何もない荒れ野で生き延びることができたのです。そして、モーセではなく、天からの真のパンをイエスの父が与える、と言われたものですから人々はそのパンをいつもくださいと願ったわけです。しかし彼らがそう願ったのは、あくまでも空腹を満たしてくれる食べ物としてのパンのことでした。人々にとっては、この世での生活に必要な食べ物としてのパンをいつも与えてくれる人がいるならこんなに有り難いことはないのですから、イエスにそれができるのなら、いつも与えてほしい、ということです。

 しかし、主イエスのお答えは人々の想像を超えるものでした。「わたしが命のパンである」と言われたのですから。この時から、主イエスと人々の話はかみ合わなくなってきます。その反応と、主イエスとのやり取りは次の段落になりますので、今日はその前に、主イエスが言われたことそのものを良く見ておきたいと思います。

 ここで主イエスは「わたしのところに来る者」、「わたしを信じる者」、「父がわたしにお与えになる人」、「わたしのもとに来る人」、といろいろな言い方をしておられますが、皆同じ種類の人について、違う角度から言っているものです。要するに主イエスを、神のもとから来られた神のパン、永遠の命を与えるパン、救いを与える救い主、復活の恵みをも与えてくださる神の御子、と信じることです。もちろん主イエスに興味を抱いてその語られたことを聞いてみよう、聖書を読んでみようと思う素朴な思いから始まる面がありますから、最初から永遠の命とか復活とか言われてもわからない、ということはあるでしょう。確かに、そうです。だから、とにかくイエスと言われるお方の言葉をいろいろ聞いて学んでみよう、ということがとても大事なことです。そうすることによってイエスというお方をさらに良く知っていくことを通して、先ほど言ったようなことも段々と分かってくるようになります。

 そして、イエスこそ主である、という信仰に至ってゆく。イエスのもとに行く、とは、そのような一連の流れ、動きを含めて言うことができます。しかし、やはり最後にはもう自分をイエス・キリストというお方に預けてしまう、という信仰に導かれてゆくものです。イエスのもとに行く、とはそこまでを含めた言い方です。とにかく、神のパンはイエス御自身であり、イエスのもとに行かなければそれをいただくことはできません。


  2.飢え渇く人間

 こうしてイエスのもとに来るならば、その人は飢えることも渇くこともない、と言われています。最初に言いましたように、魂の奥深くにある飢え渇きのことです。さてしかし、私たちは、この魂の飢え渇きなるものを自覚しているのでしょうか。なんとなく、漠然とそれを感じているのかもしれませんが、私たちはそれを明確に感じることすらできないほどに、神から離れていることに鈍くなっています。神から離れて生きていることを初めから自覚して、早く神のもとに、神の御子イエス・キリストのもとに行かねば、と生まれながら自覚している人は実はいないのです。

 ですから、父なる神が御子イエスにお与えになった人が、イエスのもとに来ることができるようになるための働きかけを私たちはいただく必要があります。それは次の段落で主イエスが語っておられます。先取りしてみることになりますが、44節です。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。父なる神が引き寄せてくださらなければ、神のパンであるイエスのもとに言うことは不可能である。こう言われてしまうと、では、自分がいくらイエスに興味をもって、聖書を通して、教会の礼拝を通してイエスのことをもっと知ろうとしても、イエスのもとに行き着けないかもしれないのか、と思ってしまうでしょうか。

 しかし、主イエスは言われました。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と(37節)。つまり、主イエスに興味を抱き、その御言葉をさらに求め、近づき、そしてイエスを救い主と信じて救われたいと願っているなら、その人は父なる神に引き寄せられていたのだ、というわけです。ですから、イエスによってどうか救っていただきたいと願って、イエスを主と信じているなら、その人が追い出されることはありません。

 これは本当に私たちにとってありがたい御言葉です。私たちにはイエスのもとに行く能力がないのに、父なる神がイエスのもとに引き寄せてくださるので、イエスのもとに行ける。そしてイエスのもとに行って、御言葉を聞き、信じ、イエスこそ救い主と信じて従って行く人は、決して追い出されることがない。これは本当に私たちの救いが神の恵みであり、神の賜物であることを実によく現している御言葉です。私たちはここに寄りすがることができます。


  3.永遠の命と復活を約束する主

 主イエス・キリストは、はっきりとご自分が天の父なる神のもとから遣わされてきたことを自覚しておられました。この点が、他の誰とも違います。世の中にはいろいろな宗教があり、いろいろな人生についての教えもあります。

 人はこの世の生活において少しでも充実した生涯を送りたいと願うものでしょう。そして何とか良いものを自分の手に入れたい、良い暮らしがしたい。満足を得たい、と願うのです。しかし、なかなかそれを得ることはできません。この世の生活で、欲しいものはすべて手に入れた。もう何も不足はない、と言える人はいるでしょうか。仮に巨万の富を手に入れ、家族も自分も元気で悩みもない。あるとしたら有り余るお金をどう使うか、ということぐらいである。そんな人がいたとしても、不老不死を手に入れることだけはできません。何十億円を注ぎ込んで不老不死の薬の開発に尽力しても、それは無理な話です。巨万の富も、自分が永久に手にして自由に使えるはずもないのです。

 だからどれだけ多くの目に見えるものを手に入れたとしても、不安と空しさとを覚えてしまうのではないでしょうか。そして永久には生きられないことを悟って諦めるか、口惜しさを感じて次の世代に譲っていくしかないと残念に思うのでしょうか。人が健康や美しさを求め、いつまでも良い状態を確保したいと願うのは、漠然と永遠の命に憧れているからかもしれません。しかしそれがどこにあってどうすれば手に入れられるかを人は知りません。

 しかし、人に命を与え、この世で生かしておられる天の父なる神がこの世に遣わされた、命のパンである神の御子イエス・キリストは、人に永遠の命を与える権威をゆだねられています。この神の御子イエス・キリストは、十字架で死なれましたが三日目に復活されました。それは、私たち普通の人間も、復活にあずかり、永遠の命を受けられることの保証です。イエスの父なる神は、イエスを信じる者に対して、父となってくださいます。

 そしてイエスを信じる者に永遠の命を与え、イエス御自身が私たちを復活させてくださいます。終わりの日、というのは、時間的にいつのことかは私たちに隠されていますが、必ずやってくるこの世の終わりの時です。私たちはこの世を去った後、イエスに結びついた魂は天国に入れられます。体は墓の中です。そしていつのことかわかりませんが、神の定められた終わりの日に復活させられ、もう決して死ぬことのない体と魂とが再び一つになります。

 それは今の私たちが心と体に重荷や病気や悲しみを負って悩んだり苦しんだりするのとは違い、全ての苦しみ、悲しみ、悩みが取り去られた全く新しい祝福された状態になるのです。それを与えるために、神の独り子であるイエス・キリストは救い主としてこの世に来てくださり、私たちをみもとに招いておられます。どれだけこの世で善行を積んだか、どれだけ良い行いをしたかではなく、ただ自分の弱さと神の前での罪を認めて十字架の主イエス・キリストを仰ぎ信じることで、受け入れていただけます。この主イエス・キリストのもとに行くなら、誰一人神の国の永遠の命から追い出されることはなく、復活の恵みにあずからせていただけるのです。

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