「我らは主の御名によって歩む」2020.9.27
 ミカ書4章1~14節

 旧約聖書の書物の中には、救い主がこの世に来られることを大変はっきりと告げているものがあります。クリスマスになると、そういった旧約聖書の箇所が朗読されたり、説教されたりします。このミカ書は、救い主がユダヤのベツレヘムから出ることを述べておりますので、キリスト教会では、ベツレヘムでお生まれになったイエス様の御降誕を述べている預言書としてクリスマスの時季にはしばしば朗読されます。5章1節がその箇所です。そこにイエスというお名前は直接出てきませんけれども、イエスを救い主キリストとして信じるキリスト教会は、このイエスこそベツレヘムでお生まれになった救い主であり、ミカの預言にある通り神の民を治めるお方、永遠からおられるお方、神の御名の威厳を帯びておられるキリストであられることを大変明らかに示しているものと信じてきました(5章1、3節)。今日は、その一つ前の4章から、私たちに語りかけておられる神の御言葉に聞きたいと思っています。


  1.ミカ書という預言書

 この預言書は、モレシェトの人、ミカに臨んだ主の言葉が記されています(1章1節)。「ミカ」という名前は、「ヤハウェ(=主)のごときものは誰か」という言葉の短縮形とされています。彼は紀元前8世紀の中頃から、7世紀前半の人です。モレシェトという村は、モレシェト・ガトという町と同じとみなされており、エルサレムの南西約35キロメートルの所にあります。ベツレヘムからは西南西に30キロメートルくらいですので、ミカからすると自分の出身地からそれほど遠くない所でイスラエルを治める方が登場すると預言したわけです。身近なところで起こる大きな出来事だと思ったことでしょう。

 この預言書の冒頭に書かれているとおり、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にミカはサマリアとエルサレムついての幻を見ました。サマリアは北イスラエル王国の首都、エルサレムは南ユダ王国の首都です。北にある大帝国アッシリアの脅威にさらされている状況で、アッシリアの属国となって、かろうじて国を保っている有様でした。北イスラエル王国の都サマリアは紀元前722年にアッシリアの前に陥落し、国は滅びてしまいました。南ユダ王国には、アッシリアが攻め入ることができず、主のみ使いによって撃退されたのでした。しかしミカの時代よりずっと後に南ユダ王国もバビロン帝国によって征服されてしまいます。これらは皆イスラエルの主に対する罪の結果でした。そのことは3章の終わりに書かれています。民も、預言者たちも祭司たちも不正を行っていたにも拘らず、主が自分たちの中におられるから災いが及ぶことはない、と過信していたのです(3章11、12節)。

 それゆえ、主はご自分の民に裁きを行い、異教徒の手に渡されたのですが、そういう中でも、わずかに主の民を残しておられ、主に対する信仰を保ち続ける人々はいました。そして主はこのミカ書において、滅ぼされる前の南ユダ王国の人々に対して、遠い将来に希望を与える預言を示しておられるのです。


  2.終わりの時を目指して歩む信仰

 ミカによって語られた主の御言葉を聞きましょう。この4章で、主は終わりの日についての約束をお語りになります。この1節から4節までは、イザヤ書2章1節から4節までと同じことが言われています。イザヤもミカも紀元前8世紀の人ですが、どちらが先に語ったことなのかはわかりませんが、二人の預言者が共通して語ったことですから、人々の中に強く印象付けられた約束だったには違いありません。

 今の状況がどれほどよくないとしても、そしてそれがイスラエルの民の罪の故だとしても、主は最後には御自身の神殿のある山を高く上げ、多くの国々がやって来て、「主の山に登ろう」とまで言うようになるのです。そして武器を打ち直して農具に変えてしまい、もはや戦いを学ばなくなる、つまり平和が支配するのです。

 預言者たちは現在民がどのようにすべきかを語りますが、ここにあるように遠い将来に祝福される約束を語ることもあります。今は主の懲らしめを受け、厳しい裁きを受けているけれども、主なる神は御自分の民を滅ぼし尽くすことを望んではおらず、将来に救いと祝福を約束しておられます。それだから、民は罪深く、欠け多いものではあるのですが、主の示される道を歩もう、という信仰の姿勢が出てくるのです。

 これは今日の私たちも同じです。目の前のことはなかなか困難な状況である。しかし主は救いを約束してくださっています。その主を信じてなおこの世を生きて進む時に、私たちは一足飛びに天の国に、つまり神の御計画の完成した中に入れるわけではありません。そこに至るには一日一日の歩みがあります。それはちょうど、道を歩くときに、その道はあちらこちらに曲がり角があり、曲がった先は、角を曲がってからでないと見えないのに似ています。角を曲がると次の角までの視界は開けます。しかしその先にはまた曲がり角があり、そこから先は見えない。しかし主は道を示してくださるので、間違った方向に曲がることはないのです。私たちの信仰の歩みはそのようなものです。

 しかしまた、私たちが信仰によって道を進む時に、周りからいろいろな声がかかります。本当に聖書の示す神はいるのですか。キリストは本当に唯一の救い主なのですか。他にもいろいろな神々がいるのだから、他の神々にも頼ってみたらどうですか。キリストは狭い道を歩くようにとお命じになったようですが、みんなで広い道を歩いた方が、味方が多くて楽ではないですか、等々。


  3.我らは主の御名によって歩む

 そのようにして、この世には様々な生き方があるのだから、キリストに従うだけが道ではないよ、という誘惑が私たちに降りかかってきます。特にこの日本では日本の宗教があるのだから、日本人として日本古来の伝統による宗教に従っていればよいではないか、と。しかし、私たちは預言者ミカが5節で述べることを、私たちの信仰告白とします。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに我らの神、主の御名によって歩む」と。今日私たちは、主イエス・キリストという救い主の御名を与えられています。イエスを主と信じる者は、クリスチャン=キリスト者と呼ばれます(使徒言行録11章26節)。キリストに属する者、という意味です。私たちは誰のものか、と問われれば、キリストのものだ、と答えるのです。

 洗礼を受ける時、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授ける」と牧師から言われて授かります。それは主イエスが復活されて天に昇られる前に弟子たちにお命じになったことです(マタイ28章19節)。これは直訳すると、「父と子と聖霊の御名に入れる洗礼」となります。御名の内に加えられることで、その者たちの神は父、子、聖霊なる神である、という意味です。その神のものとされており、誰もそれを引き離すことができません。私たちには、この者は父、子、聖霊なる神のものである、という名札が与えられており、どのような力もそれを引きはがすことはできないのです。だから、私たちはとこしえに我らの神の御名によって歩む、ということができます。

 そしてこの世にあっては何があっても、他の神々ではなく、イエス・キリストの父なる神の御名を、キリストの御名を、聖霊なる神の御名を呼び求め、より頼みます。私たちはこの世ではなお弱き者ですが、悪しき者、つまり悪魔が私たちに手を触れて、真の神から完全に引き離してしまうことはできません。旧約聖書に示されたイスラエルの国は、神に対して罪を犯し、国は滅ぼされてしまいました。しかし必ず主は御自身の民を贖い、再び生かしてくださいます。そのことは、イスラエルが征服されている間は、見えていませんでした。アッシリアやバビロンは、当座は自分たちの神々の方が、イスラエルの神よりも強い、と思っていたことでしょう。しかし、実際は違いました。イスラエルを懲らしめるために、神は他国を用いただけだったのです。だから高ぶったアッシリアもバビロンも、やがては衰えてゆきました。永遠の国ではなかったのです。

 私たちも今日、この世界にあってキリストの御国は肉眼でだれにも明らかに見えるように、力強い勢力をもって現れているわけではありません。しかし、そこに確かに神の国、キリストの御国は来ており、始まっており、完成へ向かって確実に進んでいます。その神の御名によって私たちは歩み続けます。家庭で、地域で、町中で、どこにいても私たちが神のものでない場所や空間などありません。私たちからキリストの御名が外される時などありません。それは決して重荷ではなく、軽い軛だと主イエスは言われました(マタイ11章30節)。

 キリストの御名を担っているがゆえに重圧で押しつぶされてしまう、ということはありません。私たちが担う部分はそれぞれの場にありますが、主キリストがその私たちを担ってくださっています。キリストの御名を与えられている者、クリスチャンは、実はキリストによって担っていただいている者だ、ということを世に現わしているのです。だから私たちは安心してキリストの御名により頼み、とこしえにその道を歩み続けることができるのです。

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