「主の家に宿る幸い」2020.9.20
 詩編 27編1~14節

 私たちはこの世に生まれてきて、物心つくと、自分の家があるということを自覚するようになります。そこが自分にとって最も居心地の良い所であれば幸いですが、中にはそうでないという方も世の中にはおられると思います。そして、段々と友だちの家に遊びに行くようになったりすると、自分の家と比較してみるようにもなります。世の中にはこんな暮らしをしている人もいるのか、こんな広くて立派な家に住んでいるのか、と感心したりもします。また、どんなに愛着があり、住み慣れていても、そこを離れなければならないこともあります。進学、就職、結婚などで親元を離れる場合がそうです。それでもこの世で帰る家があればまだよい方だと言えましょう。帰る家がなかったら、それは悲しいことです。今日朗読した詩編27編では、「主の家」に宿ることの幸いを作者は歌っています。私たちにとって「主の家」とは何でしょう。そしてそれは私たちに何をもたらしてくれるのでしょうか。


  1.人を恐れない信仰

 まず、作者の状況を簡単に見ておきます。表題には「ダビデの詩」とあります。表題は聖書本文ではありませんので、信憑性に乏しい場合もありますが、この27編はダビデまでさかのぼれるのかもしれません。作者は、自分に対して陣を敷く敵が戦いを挑んでくる、という状況に置かれています。しかし作者は誰をも恐れない、と断言します。それは、主なる神が自分の光であり、救いである、と確信しているからです。しかし、そうはいうものの、この詩の全体を見ていくと、そう簡単ではないこともわかります。後半の7節以下にあるように、しきりに主の助けを求めて祈り、憐れんでください、見捨てないでください(9節)と願っているからです。人を恐れはしないけれども、自分に絶対的な自信があるわけではありません。自分の武力に信頼しているからではなく、神に信頼しているのです。

 また、ただ敵に囲まれているだけではなく、偽りの証人と不法を言い広める者が自分に逆らって立っている、とも言っています(12節)。それでも、誰をも恐れない、とやはり思っているのです。神は自分の助けであり、救いの神である、と信じているからです。その信仰は、自分の父親と母親を引き合いに出して比べることもします。作者は、決して自分の親を全くあてにならないと思っているわけではないでしょう。「父母はわたしを見捨てようとも」という言葉は(10節)、あくまでも例えばの話であり一般論としての言葉です。人間の親は子を見捨ててしまうこともあり得るし、あるいは何もできないので助けられない、ということもあるでしょう。それに対して主なる神は必ず自分を引き寄せてくださる、という信仰です。


  2.願うべきひとつのこと

 そのような信仰によって生きている作者は、主の家に宿ること、それだけを求める、と言っています(4節)。願うただひとつのこと、とは突き詰めていった時に、自分にとって最も願うべきことは何か、ということです。私たちも、この同じことを考えてみてはどうでしょうか。いえ、考えてみる必要があります。考えてみるべきです。そうすることで、自分は何を求めて生きているのか、ということがおのずと明らかになってきます。

 そして作者は、「命のある限り」と言っています。これはもちろん、この世に生きている限り、という意味ですが、「主の家に宿る」とは何を意味しているでしょうか。主の家とは、目に見えるもの、感覚的に捕らえることのできるものとして考えるならば、文字通り神殿であり、神を礼拝する聖所であり、今で言えば教会ということになります。この作者は敵に囲まれているような状況にあり、自分を陥れようとさえする者たちに脅かされています。誰をも恐れない、と言いつつも、実際心は穏やかではなかったのです。これは実は信仰を持って生きている人が経験する感覚ではないでしょうか。それで、主の家に身を寄せて宿りたい、そこが一番安全で安心できる、と思っているのです。

 私は唯一の真の神を信じている。神は人よりも強く、御自身の民を守ってくださると信頼しているのですが、その信仰が口先だけだというのではなく、それが人間の現実でもあるわけです。この作者の置かれているような状況の中で、やはり安心して主のもとに留まり、心穏やかに主と共にいることが最も幸いであると知っており、それこそ心から求める一つのことだ、というのです。

 そしてこの世にある限りは、そこはまだ天国ではありません。信仰によって神を仰ぎ望み、天の御国に憧れるのが私たちですが、しかしやはりこの世に生きている限りは私たちは目に見えるもの、形あるものによって支えられています。食べ物、飲み物、衣食住の全般にわたって言えます。そして神を信じる者は、特に目に見える仕方で共に集まり、神を礼拝します。今で言うなら、目に見える会堂に集まります。そのように一つ所に集まることは非常に大事なことです。今回の新型コロナウイルスのことで私たちはそれを思い知らされました。

 この世では、神との結びつきは目に見える教会堂、信徒たち、目で読み、耳で聞く聖書の御言葉、自分たちの口から発する祈りと讃美の言葉、そういったものによって示されており、私たちはそれらによって現実に強められ、守られ、養われています。確かにそうですが、同時に、神との結びつきは、そういう目に見えて形あるものに限定されてしまうことのないつながりでもあります。特に今、施設に入っている方々は、面会も制限されているか禁じられているか、という状況です。それでもそこに主は共におられることを覚えましょう。

 その昔、イスラエルがバビロン帝国によって征服され、人々が捕囚として連れ去られた時、主なる神は預言者エゼキエルによってお語りになりました。「確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかし私は、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった」(エゼキエル書11章16節)。主は私たちがどこにいても、共にいてくださることができます。私たちが動けなくても、主はそこにいてくださいます。

 しかしこの詩の作者のように、願いが叶うならば、生きている限り主の家に宿りたい、と言うのです。この世を去れば天の御国が待っていて、そこで主のもとに永遠に宿ることができるのですが、それでも現在、目に見える形で主の家に連なり、共に主を仰ぎ望みたいのです。


  3.主の家に宿る幸い

 こうしてみてきますと、一つのことがわかります。主を信じる者は、この世において、天にある主の家に住まいたい、宿りたいと願う気持ちが与えられます。しかし同時に、今、主がこの地で与えてくださった場所や環境というものがあります。その中で主の家に宿る幸いを垣間見させていただいている、という面があるのです。私たちは、この地上で主の家において信仰によって主にまみえ、そして天の御国を仰ぎ求めるのです。

 ところでこの四節ですが、後半部分は、他の翻訳では多少違って訳しているものがほとんどです。例えば「主の麗しさにまみえ 主の宮で尋ね求めることを」(聖書協会共同訳)、「主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために」(新改訳2017)などです。新共同訳では「主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを」となっており、特に2行目の「朝を迎えることを」というのが全く違うように見えますが、単語の解釈の仕方で違っているようです。いずれにしても、この時代、主の宮、つまり神殿に宿ることができるのは祭司だけで、そこで朝を迎えられるのも祭司だけです。これよりはるか昔、祭司エリに仕えた少年サムエルは、後のエルサレム神殿ではありませんが、当時の聖所である神殿で寝起きしていました。詩編27編の作者は、自分も祭司になりたかったというわけではないでしょう。祭司をうらやましがったというよりも、常に主を仰ぎ望み、主の麗しさを見て、主と共に生きることを求めたのです。

 今日私たちは主の日、日曜日に礼拝堂に集まって礼拝をします。そして、祭司でなくてもここで朝を迎えることはしようと思えばできますが、特に会堂に泊まることを私たちは第一に求めるわけではありません。やはり、この地上にあっては目に見える形で教会での礼拝を尊び、大事にし、そこで主にまみえることを求めるのですが、それが最終目的ではないし、主の家に宿るということの最終的な形でもないわけです。主イエス・キリストが、十字架で私たちの罪を贖い、神の国へと招きいれてくださったので、栄光の神の国、すなわち天の父なる神の家が用意されています(ヨハネによる福音書14章2節)。

 しかしそこに至るまでは主が備えたもう場で一日一日、わたしたちは主を仰ぎます。この詩の最後の方、13節で作者は告白しています。「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを」。これはやはり今のこの世でのことです。私たちは、主の恵みを見ることを信じているでしょうか。毎日のことは当たり前のようになっていないでしょうか。そこに主の恵みは見いだせるでしょうか。もし不安に感じるとしたら、この作者にならって改めて信じます、と告白し、自らに「主を待ち望め」と語りかけたらよいのです。私たちはこの作者にまさって、私たちと共にいてくださる神の御子主イエス・キリストを知らされているのですから。この方によって、私たちには主の家に宿ることが約束され、保証されています。その素晴らしさをまだ十分に感じ取ることができていないのですから、主の家で主と共にあることを第一のこととして、命のある限り求めてゆきたいと願います。祈りましょう。

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