「世を生かす命のパン」2020.9.13
ヨハネによる福音書 6章41~51節

 ヨハネによる福音書の6章は、主イエス・キリストが御自身のことを天から降って来た神のパン、永遠の命を与える命のパンである、と言われたことを中心に話が進んでゆきます。人々はそのことを理解できませんでした。確かにこれは、ただ聞いていてもわかるものではありません。しかし、主イエス・キリストというお方に心を向け、その御言葉に耳を傾けるなら、主イエス御自身が、私たちにお語りになって御言葉を理解し受け入れさせてくださいます。私たちはそのことも信じながら、主イエスの御言葉に聞くのであります。


  1.イエスに対するつぶやき

 せっかく神の御子であり、世の救い主であられる主イエス・キリストが目の前におられるのに、イエスの言葉を素直に聞いて受け入れることができない。これは実に悲しむべきことです。この、つぶやいてしまう、というのは、私たちがしばしばしてしまうことではないでしょうか。何かに疑いがある、不満がある、納得ができない、信じられない、認められない、といったときに私たちはつぶやいてしまいます。

 主イエスに対するつぶやきは、まずはイエスの氏素性に対してでした。ヨセフの息子であり、その家族も知っている。特にイエスよりも年長の人であれば、イエスがナザレの村で子供のころから育ったということを知っています。イエスの誕生物語を知っている人もいたでしょう。今イエスの目の前にいる人々の中にそういう人がいたかどうかはわかりませんが、それでもイエスの子どもの頃からのことを知っている人はいたわけです。そういうイエスが、「わたしは天から降って来た」というのですから、疑問に思うわけです。人々は二つの点でつぶやきます。一つは今言ったように、イエスの両親を知っているのに、なぜ天から降って来たというのか、という点。もう一つは、イエスが天から降って来た「パン」であると言われるので、どうやって自分を食べさせるのか、という点です。

 主イエスは、それに対してここでもまた非常に厳しいお答えをされます。イエスのもとへ行くこと、つまりイエスのことを受け入れ、信じるためには、イエスをお遣わしになった天の父なる神が引き寄せてくださらなければ不可能である、と。これは37節で言われていた、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」という御言葉を逆から言われたものです。


  2.神によって教えられる

 主イエスに聞こうとしてイエスのもとに来る者は、天におられるイエスの父から聞いて学んだ者です。預言者の書に「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある、というのはイザヤ書54章13節を指しています。神に教えられる、というのは、ただ神の御言葉を聞くというだけではなくて、その心が開かれて、神の御言葉を聞き、受け入れるようにされる、ということです。

 その人は、神の御子主イエス・キリストのもとに来るのですが、イエスは御自身について、非常に大事なことを述べています。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」(46節)。このことは、1章18節で、著者のヨハネが書いていたことと同じです。イエスの父、とは天の父なる神のことです。神と父、と言葉を区別して語っておられます。父なる神も、御子なる神キリストも、聖霊なる神も、一人の神であられます。

 神を父、子、聖霊として語れるのは、御子キリストが人となって世に来られ、そして父なる神からゆだねられた御業をなし、神の御言葉をお語りになって初めて私たちに知らされたからです。旧約聖書では、この点はほのめかされてはいましたが、完全には明らかになっていませんでした。キリストが来られて初めて父なる神、子なる神、聖霊なる神を明らかに示してくださいました。父なる神を永遠から見ておられたキリストによって初めて天の父は私たちに示されるのです。もっとはっきり言いますと、神というお方は、キリストによって私たちに明らかにされたのでした。

 もちろん、旧約時代の信仰者たち、預言者たちも神を示されていて、特にモーセは神が顔と顔を合わせて選び出された(申命記34章13節)とまで言われています。それでもモーセは許された範囲で神と語り合ったに過ぎませんでした。キリストは神の御子として、私たちには隠されている神を私たちに現わすお方として来られたのです。


  3.イエスによって生かされる

 主イエスは、御自身を天から降って来た生きたパンである、と言われました(51節)。生きたパンである、ということの意味は大変深いものがあります。イエスというパンそのものに命があるのですが、ただ単にそのパンが生きているだけではなくて、それを食べる者は死なないのであり、永遠に生きる、と言われます。ここで言う死なない、とは、このままの体でいつまでも生き続けることを表しているのではありません。新たな命の秩序の下で、永遠に生きるのです。

 そしてイエスは御自身の肉を、世を生かすために与える、と言われます。それは十字架で御自身を献げることです。私たちの、神の前にある罪の償いをされることを指しています。主イエスの十字架上の贖いは、私たちを生かすためだということに注目しましょう。私たちはこの世に生まれてきて、日々過ごしています。それは確かに人間としての活動をしています。しかし主イエスは、御自身を十字架で献げられて、その体を罪の贖いとして信じ受け入れる人を、「生かす」と言っておられます。一言で言えば、私たちは主イエスによって初めて生かされるのです。

 私たちが今生きているこの体は、外から栄養を取り続けなければ生きていられません。私たちの体が食べ物を摂取してそれを体内で消化し、栄養分を取り出して体を日々維持している、その仕組みは驚くべきものです。でも私たちは食べればそれが栄養になる、ということをもう当たり前のこととして過ごしていないでしょうか。一口食べるごとに、ああこれが胃袋へそして小腸に入って消化吸収され、体中に栄養分が運ばれて、たんぱく質が体や血液を作り、脂肪分がエネルギーとなっているなあ、などと感心しながら食事をすることはないでしょう。気がつかないけれども、私たちの体の中では大変緻密な仕組みが働いていて、体を維持し、成長させていたのです。

 主イエスが私たちを生かすパンとしてこの世界に来られ、そして私たちを生かしておられることも、私たちは感覚で察知できるようなものとは違います。私たちが全然意識していなくても、イエスを信じた者の内には永遠の命が与えられています。それは神に対して感謝と讃美を献げることにおいて明らかになってきます。「世を生かす」という時の「世」とは生まれながらの人間のことです。神のことなど気にも留めず、自分の力で働いて稼ぎ、食べて、生活を成り立たせていたのは、自分の働きの成果だと思っていたものが、全ては神様によって与えられた恵みだと感謝するようになります。全てを、神を信じる者の視点で見るようになります。それまでは、運がよかった、偶然助かった、幸運だった、不運だった、巡り合わせが悪かった、たまたま善い人に出会った、と考えてきたとします。

 ところがイエスという天来のパンをいただくと、すべては単なる偶然ではなく、神の計り知れない御計画と配慮によっていることを知るようになります。また、全ての出来事の意味がすぐには分からなくても、背後に神の御手の導きがあって、良いことも災いも、一切は神がご存じだから、神にゆだねてゆこうと思うようになります。もちろん、信仰を持ちながらも悩みや、苦しみの内に置かれることはあります。しかしそれでも神にすがる心をもっています。神を仰ぎ見ることをやめません。イエスという天から降ってきた生きたパンを食べる人は、新しい命を歩み始めます。見た目は変わらないかもしれません。しかし、内面は確実に変わっています。神との関係の中に生きていることを知るようになります。自分の人生の主人は自分ではなくて、神であることを知ります。

 神とキリストによって新しい命に生かされた者にとって、この世で生きることは、ただ衣食住を充実させて、楽しく暮らすためのものではありません。神と共に歩み、真に小さな、なおこの世では罪が残ってはいる者だけれども、罪の赦しをいただいた者として、神の国の民とされたことを喜び、感謝と讃美を献げるためです。こうして私たちは、命のパンであるイエス・キリストによって「生かされる」のであります。そしてこの世を去るべき時が来たなら、永遠の命を受けるために、自身を神にゆだねます。しかしそれまでは、困難な状況の中でも主イエスが助けてくださることを信じ、信仰による歩みを続けるのです。共にその歩みを続けましょう。

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