「神への愛がないこと」2020.7.5
 ヨハネによる福音書 5章41~47節

 「あなたがたの内には神への愛がないことを知っている」という主イエスの言葉は、ユダヤの人々にとっては、そんなことを言われたら聞き捨てならないことだったに違いありません。神への愛があるかないか。これは単に神の律法を守り行うかどうか、ということ以上に、その人と神との関係を鋭く問いかける言葉であります。この言葉を主イエスは、御自身を殺そうと狙い始めた人々に向かって語られました。ですけれども、他人事ではなく私たちもまた、神への愛があるのかないのか。このことを自分にも問いかけることが必要であります。

1.唯一の神からの誉れ
 イエスを信じず、イエスは神を冒涜しているのだ、と決めつけていた人々は、結局のところ神ではなく人を見ているのだ、と主イエスは言われます。人から褒められることは大変喜び、しかもお互いの誉れを求めようとする。それがあなたがたの姿だ、と。しかしイエスは、人からの誉れは受けない、と言われます。この世で、人に褒められたり、担ぎ上げられたりすることでこの世で人からの高い評価を得ようとは全く考えておられません。
 この世では、人や社会の評価、名声というものが幅を利かせておりまして、あからさまにそれを求める人もいるわけです。そのためだったら不法なことであっても実行する、というのです。主イエスは互いに相手からの誉れは受ける、と言っておられますように、自分だけではなくお互いに、ですから、持ち持たれつでどちらも得だということでしょう。彼らはユダヤ人ですから、すべての人を見ておられる神がおられることは知っているはずです。それにも拘らず、人からの誉れを求めている、と主イエスから指摘されています。
 そうであれば、天の神の存在など多くの人が認めようとしないこの国ではなおさらでしょう。今、インターネットによる各種サービスによって、人からの注目を集めることが容易にできるようになりました。何かを投稿した際に、共感してくれることを求めて突飛なことをしたり、危険なことをさえしたりする人がいるようです。多くの人から注目してもらいたいかどうかはともかく、人に認められたい、という思いを持つのはだれしも共通しているかもしれません。しかしそれが度を越してしまうと何が本当に価値あるものか、全く見えなくなってしまうのかもしれません。
 主イエスは、人からの誉れなど求める必要のないお方です。そうではなく唯一の真の神の誉れ(栄光とも訳されます)を主イエスは常に求めておられました。私たち人間のおもな目的は、神の栄光を現すことであると、私たちは教えられています。それを誰よりも実行しておられたのが主イエス・キリストでした。

2.モーセはイエスについて書いた
 それに対して、唯一の真の神ではなく、人同士の互いの誉れ、栄光を求めていた人々は、イエスを正しく認めることができません。ユダヤの人々は旧約聖書に登場するモーセを非常に尊重していました。神と顔を合わせて話をした人であり、モーセこそイスラエル人と神との間に入ってとりなしてくれた最大の預言者で、モーセのような預言者が再び現れることを人々は期待していたのでした。モーセの行った務めの内、重要なものは、神の律法を代表する十戒の石の板を直接神からいただいたことです。そしてそれを代々受け継いで来たイスラエルの人々は、十戒を尊び、自分たちはモーセの弟子だ(ヨハネ9章28節)、といって神の律法に従って歩んできたことを誇りにしてきたのです。
 しかし、主イエスは、今まで誰も言ったことのないこと、モーセの律法を何度も聞いて、十戒に従うべきことを繰り返し教えられてきたイスラエルの人々にとっては驚くべきことを言われたのです。「モーセは、わたしについて書いているからである」と(46節)。これは本当に、聞いている人を驚かせる言葉です。そして大きく二つの反応を引き起こすでしょう。一つはそんなことはあるわけがない、と受け付けない人たち。それは、イエスを殺そうと狙うようになった人たちにつながるものがあります。ユダヤの世界では、聖書や神の権威に対して、自分をそれと同等のものとするようなことを言う人間は放っておくわけにはいかないのです。
 日本でも、もし古代の文書に記されていることを、現代の誰かが「これは自分のことを言っているのだ」と言い出したとしたらどうでしょうか。恐らく誰にも相手にされないことでしょう。しかし主イエスの場合、ただ大それたことを言ったわけではありませんでした。多くの人々に神の御言葉を教え、病人を癒し、自然をも従わせる奇跡をなさって、ご自分の言葉が口先だけのものではないことを証しされました。
 モーセがイエスについて書いた、とはどういうことでしょうか。モーセが書いた、と言うときそれは創世記から申命記までの旧約聖書の最初の5冊を指しています。天地創造から始まり、人間の創造と堕落、ノアの大洪水、バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブたちを選ばれたことと祝福の約束、モーセの誕生と出エジプト、十戒を代表とする律法が与えられたこと、荒れ野の度の中での人々の罪と神の赦しと導き、など、実の多くの重要なことが記されています。神に創造された人間は罪を犯してしまい、楽園から追い出されて罪を背負ってこの世で苦しみを受けつつ生きることになりました。しかし神の憐れみによってなお生かされ、イスラエルの人々は神の助けと導きを与えられて約束の地、カナンへ入って来て土地を得ることができました。
 神と人との交わり、神の恵みによる人間の罪の赦し、祝福の約束。こういったことが主題となっています。そして特に罪の赦しが完全に満たされるには、神の遣わされる救い主、神の御子イエス・キリストによる罪の贖いが必要です。主イエスが、モーセはわたしについて書いたのである、と言われたのには、そのような深い、大きな意味が込められているのです。だから主イエスは、モーセの書いたことを信じないのならば、わたしのことも信じることはできない、と大変厳しい言葉を語られたのです。

3.神への愛がないこと
 最後に、今日のお話の題にしました、「神への愛がないこと」に戻ります。「あなたたちの内には神への愛がないことをわたしは知っている」と言われた人々は、恐らく相当腹を立てたことと思います。神への愛が乏しいとか少ないのではなく、神への愛がない。主イエスは目の前にいる、御自身を否定する人々に厳しく言われましたが、今、私たちはこの言葉を現代人として聞いています。
 私たちすべてのものは、神の御子からこのように言われても仕方のない罪深い者としてこのように生まれてきました。神を愛するよりも、まず自分を愛しているのが私たちです。そして目に見えるもので、自分を楽しませてくれるもの、満足させてくれるもの、おいしいもの、楽しいこと、喜ばせてくれるもの、こういうものを私たちは教えられなくても愛するものです。しかし、神を愛することと、隣人を愛することは、やはり外から、神から教えられなければなりません。すべては神からいただいたものであって、神に感謝すべきこと、一切を造り治めておられる神をあがめること、その御言葉に聞き従うこと。それが神を愛することである、ということをまず教えられます。
 しかし、私たちは教えられるだけではそれを実行できません。それで、神はただ教えるだけではなく、私たちの心が神に向かうように働きかけてくださいます。主イエスはユダヤの人たちに、あなたたちの内には神への愛がない、と言っておられましたが、元々私たちの内に神への愛があるかと言えば、そうではない、と言われても仕方がありません。私たち人間は、神によって造られ、命を与えられて生かされているにも拘らず、それが神によっていることを知らず感謝もせずにいました。それでも神は憐れみ深く、人に必要なものを天から与えて養ってくださっていました。
 私たちは主イエスの、「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」という御言葉を、まずまっすぐ受け止めるべきです。主イエスは厳しいことを言われますが、神への愛が私たちの中にないことを指摘するだけではなく、私たちの内に神への愛を生み出してくださるかたであることを覚えましょう。神への愛がない、とまで言われるけれども、神への愛がない罪人の内に、まず神の愛を示してくださり、神がまず私たちを愛してくださったことを、自らのこの世でのすべての業、特に十字架において示してくださいました。もし私たちが、神の愛によらず、主イエスを抜きにしても神への愛に初めから生きている、と言うとしたら、それは思い違いです。
 この世には、夫婦、親子、兄弟、友人、同胞、郷土、祖国等への愛があります。しかしそれらの愛も、元は神からのもので、私たち人間の内に、その愛がある程度映し出されたものです。この世にも、確かに隣人愛を行っていると思える人がいます。しかし、完全な愛は、神の愛する独り子、イエス・キリストによって明らかにされました。私たちが主イエスを信じ、その救いの恵みにより頼み、御言葉に聞き、祈りつつ生きようとするなら、それは神の愛が私たちの内にまず注がれ、そして神への愛が私たちの内に生み出されたからです。
 世には神への愛ではなく、人や物や金や名声や地位に対する愛が満ちています。しかしそれらがどれほど強いものであっても、神からの愛と、神への愛の前には霞んでかすんでしまいます。そして私たちは、神の愛と神への愛とを示されたなら、どちらも同じように一番にすることはできません。キリスト者も、この世にある様々なものを愛する気持ちはあります。しかしどれほど私たちを喜ばせるものであっても、神の愛がなければ全てはすべては空しい。それを覚えて、神の愛を示し、神を愛する愛をもたらしてくださった主イエスの愛の内を進み続けることができるように祈りましょう。

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