「聖書の真の目的を知る」2020.6.14
 ヨハネによる福音書 5章31~40節

 主イエス・キリストは、この世に御自身を遣わされた父なる神の御心を実現するためにすべてのことをなさいました。父なる神がなさることは何でもその通りにする、と言われたように、父なる神と全く心を一つにしておられ、御自身のなさることはすなわち天の父なる神のなさることなのだ、と言われました。しかし、その主イエスの御言葉を聞いたり、なさったことを見たり聞いたりした人々は、なぜ信じることができるのか、何を根拠として信じるのでしょうか。今日の私たちはどうしてイエスを信じることができるのでしょう。それは、聖書がイエスこそ神の御子、救い主だと証言しているからです。

1.証しの真実さ
 イエスが神のもとから来られた神の御子なのか、それとも信じないユダヤの人々が言うように、神を冒涜する者なのか。それを私たちが判断するためには、イエスについての何らかの証言が必要になります。ある人の発言の真実さが問題になっている時、それを批判する側と、擁護する側に分かれます。主イエスも、ご自分が神のもとから来られたことを人々に悟らせるためにいくつかの証言を必要とされます。ここでは、イエスに対する証し・証言について四つ挙げられています。
 一つは人間からのもの。それはごく普通の人間による証しです。つまりごく一般の人が、イエスは神の御子ですよ、と証言することです。しかしイエスは、それは受けないといわれます(34節)。次に、同じ人間ではあるものの、洗礼者ヨハネが挙げられています。彼は神から遣わされた人でしたから、イエスは神の小羊であると語り、神によってこの世に送られた救い主であることを人々に証言しました。この証言をイエスは受けられます。ヨハネによって信じる人が起こされることはあるわけで、実際、ヨハネの証しを受け入れてイエスの下に弟子入りしたのがペトロやアンデレたちです。
 けれどもそのヨハネの証しもそれで十分というわけではありません。さらに勝る証しがあります。それが三つ目の証しですが、イエスがなさる業そのものです。イエスがなさったいろいろな業は、ほかの誰もなし得なかったものです。生まれつき目の見えない人の目を見えるようにし、聞こえない人の耳を聞こえるようにし、病の人をいやすこと、そればかりか死んだ人を生き返らせることすらなさいました。風や海を静めることもされました。これらはいわゆる奇跡ですが、素直に目の前で起こることを信じる人々もいれば、あれは悪霊の力でやっているのだという人々もいました。単に奇跡を見せるだけでは、それを神の御業だと素直に受け入れないと人も多くいたのです。しかし、イエスのなさる業そのものを見て、神の御業だと認めて信じる人もいました。不信仰によって受け入れない人々はいましたが、業そのものは、イエスが神の御子であることを証ししていたのでした。

2.あなたたちが救われるために
 イエスがどれだけ奇跡を行っても、神から遣わされたヨハネが証しをしても、すべての人が信じたわけではありませんでしたが、それらは全て、その証しによって信じた人が救われるためのものでした。私たちは神によって救われる必要があるのです。私たちは、今のすべての人間の状態がそうであることを知らねばなりません。救いという言葉は私たちの日常でもしばしば使われます。窮地に陥っていた人が、誰かの支援によって助けられる。川で溺れていた人が助け上げられる。精神的に孤立していた人が、誰かが声をかけ、味方してくれることによって救われる。いろいろです。
 今この福音書で言われている「救い」は、それ以上のものです。体や心、立場、生活などが救われる以上のものです。もちろん、溺れていた人が救われるのは、命が助かることではありますが、ここで言う救いは、たとえ体が死に至ったとしてもその先にある救い、魂の救いです。それは私たちがどこにいても、現世であろうと、死後の世界であろうと神のものとされている救いです。それは神の前での罪の赦しを伴うものですが、今日の箇所ではそのことにまで触れてはいません。神の前で神と共に、神に受け入れられて生きる命のことです。既に5章の24~29節で主イエスが言われたことが、その人の内に起こるということです。神の前で、罪の裁きを免れ永遠の命の内に生きることができる。そういう救いです。
 神は私たちがそのような救いを受けるように望んでおられ、それを信仰によって与えるために証しを見、聞いて信じるように招いておられるのです。

3.イエスについての神による証し
 最後に、4番目の証しです。それは父なる神による証しです(37節)。39節で言われている「聖書」による証しと通じるものです。ここで言う聖書は今私たちが手にしている旧約聖書のことです。今日の私たちにとっては、新約聖書もイエスが神の御子、救い主であられることを証ししているのですが、ここで主イエスが目の前の人たちに語っておられるのは旧約聖書のことです。神は旧約聖書に登場する多くの預言者たちによって、御心を示して来られました。その多くの預言者たちが語ったこと、行ったことは、突きつめて言うとすべてイエス・キリストを指し示し、イエスこそ真の救い主、メシア=キリストである、と告げているのです。
 例えば十戒が示され、戒めに従うように命じられています。神の民にふさわしく生きるようにと戒めが与えられていますが、十戒は人間のために道徳的正しさの基準を示していますが、同時に人間の罪の根深さをえぐり出してもいます。神の示される正しい基準に届かないのが人間であり、それが罪です。その罪から救われるにはどうしたらよいのか。十戒を完全には守れないことを知っても、長年かけて何とか守れるように修練したり、禁欲的な生活をして欲望を抑えつけて生きるように努力して励むのか。しかしそれでは人の一生が何千年あっても間に合いません。そうではなく、神が遣わされる、罪からの救い主、罪の贖い主によって罪を取り除いていただくしかありません。それをイエスの誕生とその生涯、十字架の死と復活を予め示すことによって実現する、ということを神は示しておられたのです。
 主イエスは、目の前にいるユダヤの人々に対して、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」、それなのに私の所へ来ようとしない、と言われたのは、聖書(旧約聖書)で神が多くの預言者たちによって証しして来られたメシア=キリストのことを正しく理解していない、ということです。聖書を研究すること自体は良いことです。私たち人間にとって、神がくださった聖書を研究して、永遠の命を尋ね求めること自体は間違っているわけではないのですが、聖書から何を引き出すかが問題です。
 誰によって永遠の命が与えられるのか。自分の力か、神の恵みか、それとも人間と神との協力によるのか。主イエスがここで言っておられるのは、自分の力と良い業に頼るのをやめ、全く神の恵みにより頼み、神の立てられたメシア=キリスト、つまり救い主であるイエス御自身に依り頼みなさい、ということです。聖書は読者がイエスに向かうために、イエスによって永遠の命を得るように、という目的に沿って書かれているのです。
 天地創造から始まり、人間の堕落と罪、その結果起こってきた様々な人間と世界のゆがみ、神の選びの民の歩み=イスラエルの歴史。これらのことは全てイエス・キリストこそ神の御子、救い主であることを指し示しています。この方こそ、来るべきメシア=キリストとして待ち望むことを教えていたのです。聖書を研究すること、すなわちイエスに行き着くことです。そうでなければその聖書研究は的が外れている。神の前での罪とは、的が外れていることを意味しています。神の前で正しく生きようとするのはよいが、それが自力で出来る、神の律法を一所懸命に守ればそれで神によしとしていただける、というわけではないのです。自分の力や自分の義、正しさに頼ることをやめよ、と聖書は言っているのです。
 今日の私たちには、新約聖書が与えられています。新約聖書は直接イエス様のことが書かれているから、もう新約聖書だけ学べばそれでよいではないか、という考え方では、主イエスがどれほど私たちに必要なのかを理解するのに不十分と言えます。旧約聖書の膨大な歴史や律法の記述、人々の罪と嘆き、苦しみと祈り、感謝と讃美、これらを通して私たち人間には神の遣わしてくださる救い主=メシア、つまりキリストが絶対に必要であることを教えられているからです。旧約聖書を脇へ捨て去って、不要のものにしてしまうと、なぜイエス様が必要なのか、なぜイエス様が本当に神の御子で救い主であると言えるのか、なぜイエス様によって救われることがそんなに素晴らしいのか、これらのことの深みを知ることができません。
 旧約聖書をまだ読んだことがない人でも、教会において聖書の説き証しを聞くことで、そこで旧約・新約聖書両方によって証しされるイエス様のことが説かれているなら、聖書全体の証しを聞いていることになります。一人の力だけで聖書を一から理解し、全体を正しく把握するのは困難です。神の聖霊が教会の歴史の中でも働いてくださって、私たちに聖書が証ししているイエス様を証ししてこられました。私たちはその聖霊の恵みも信じます。聖霊のことは、このヨハネ福音書でもこの後イエス様がだんだんと語ってゆかれますので、そこで学びましょう。
 私たちが教会の礼拝に来て、聖書の朗読と説教を聞き、礼拝を献げていることは、突き詰めると主イエスがここで言われたことを実行しているのです。永遠の命を得るために聖書が証ししている主イエスの所に来ているのです。聖書は単に人生訓を与えるのでも、生活の知恵や格言を与えるのでも、芸術や文学の題材を与え、教養を与えるのでもなく、イエスこそ真の神の御子、世に来るべき救い主でることを証ししているのです。そして信じることで罪の赦しをいただき、永遠の命をいただいて、神と共に歩み、神の御国の民の一員としてこの世を生き、やがて完成する神の国を目ざして歩みます。そしてなお、この世に生かされている限りは、神の栄光を現して、神への感謝と讃美を献げて生きる者としていただくのです。

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