「イエスが救い主だと分かった」2020.5.3
ヨハネによる福音書 4章27~42節

 尾張旭教会として、日曜日の在宅礼拝4回目となりました。今日は、サマリアの井戸端で主イエスがサマリアの女性と出会い、礼拝についての話をした後に、その女性が町へ行って人々に主イエスのことを知らせたお話です。あっという間に主イエスのことがサマリアの町で広まったのでした。この女性は、自分の過去を言い当てたこの人は、ただ者ではないと感じていたのです。私たちも、聖書によって主イエスの御言葉に触れ始めた頃のことを思い出してみてはどうでしょう。なんだかこの人の言うことはどうも他の人とは違う。何かあるのではないか、と思った方もいることでしょう。私はそうでした。主イエスと出会った人にはそのような小さな驚き、何だろうこの人は、という印象がもたらされるのではないでしょうか。そして実際、この方は、私たちに全く新しい世界を見せてくださるのです。

1.弟子たちの知らないイエスの食べ物
 主イエスから、御自身がキリストと呼ばれるメシアだ、と聞かされたこの女性は、町に行って人々にイエスのことを知らせました。その前に、買い物に行っていた弟子たちが帰ってきます。そしてサマリアの女性と主イエスが話していたのをみて驚いたとあります。ユダヤ人とサマリア人は交際しない、という固定観念が彼らの内にもあったからです(4章9節)。
 弟子たちが食事を勧めますが、主イエスはここでも弟子たちがついてゆけない答えをされます。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と(31節)。弟子たちは当然、普通の食べ物のことを考えて答えます。しかし主イエスは、食べ物の話から永遠の命に関する話に弟子たちを導いてゆかれます。サマリアの女性の時には私たちの生活に欠かせない飲み水のことから永遠の命に至る水のことを語られました。今度は、主イエスは弟子たちに、永遠の命に至る実を集める話をされます。日常的なものから永遠に目を向けさせる。主イエスが周りの人たちに対してなされた恵み深い接し方です。
 しかし、ここで主イエスは、私たちが考える食べ物とはおよそ感覚的にかけ離れたことを語られました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と(34節)。弟子たちもそうでしょうが、私たちにとってもこの御言葉は、食べ物との関係ではしっくりこない言葉です。食べ物とは外から摂取するものです。目や耳から入ってくるものを吸収して自分の中に取り込んで、それが自分の栄養分となる、というならまだわかります。そもそも食べ物は、私たちの命を維持して保つために取るものですが、主イエスは、自分が何かを行い、ある業を成し遂げることが自分の食べ物だ、というのですから不思議です。主イエスにとっては、天の父なる神の御心を行ってその業を成し遂げることは、食べ物を食べるように、そしてそれ以上に御自身を生かし、保つことであり、喜びであり、楽しみであるのです。これをしなければ生きているとは言えない。そのためにこそ生きているのであり、この世に来られた理由だ、という思いが込められているのです。
 私たちは普通一日三食食べます。当然のように毎日繰り返しますが、もしそれが当たり前のようにできなくなってくると、急に食事の有り難さと重要さが身に迫ってくるでしょう。そして今日の食糧はどうしたらよいか思案します。人間にとって食べ物を得ることは、この世の生活で第一位を占める重要なことです。その余裕があるので人は文化、芸術、学問、娯楽、スポーツ等に時間とお金と労力を注ぎ込むのでしょう。それほど食べ物は私たちの生活の土台となる面があるわけです。
 芸術家が貧困の中から優れた作品を生み出すことがあります。そういう人は食事も忘れて作品制作に没頭することがあり、主イエスに似ています。主イエスは第一に、父なる神の御心を行い、その業を成し遂げることにご自分の存在がかかっているというお方でしたから、これこそご自分の食べ物だと言われたのです。そして、主イエスのような食べ物を受けている人は他には誰もおらず、この世に主イエスただお一人です。このようなお方に出会えること。これは何にもまさる恵みです。

2.永遠の命に至る実を集める
 次に主イエスは刈り入れの話を始められました。刈り入れまでまだ四ヶ月もある、というのは農業で通俗的に言われていた言葉のようです。主イエスは弟子たちに畑を見るように促されますが、永遠の命に至るために人々を導くことを刈り入れに譬えておられます。人々を神のもとに刈り入れるために、主イエスが弟子たちをお選びになりました(38節)。弟子たちは、刈り入れまでまだ時間がある、と農夫が言うようにゆったり構えているのではなくて、もはや色づいている畑を見るべきです。主イエスが救い主としてこの世に来られたからには、既に刈り入れの時が来ています。そして、これまで多くの預言者たちが畑を耕し、種を蒔いてきました。今、弟子たちはその労苦の実りを刈り入れるために選ばれ立てられました。これは、いつの時代においても福音宣教における真実です。預言者たちはそれぞれの時代の中で実の多くの労苦を重ね、神経をすり減らし、心も体も平穏な時がないような預言者もいました。しかし彼らの労苦は、今や、主イエスと弟子たちによって実りが刈り取られ始めているのです。
 さらに主イエスは、弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わした」と言っておられます(38節)。この時点では、弟子たちはまだ大した働きをしたわけではありません。むしろこの御言葉は、今日に至るまで福音宣教のために世界中に遣わされた多くの人々のことを含めて考えられます。今日でも、私たちはそれぞれの教会で神の御言葉という種を蒔き、救われる人が起こされるのを期待しています。しかし、一人の人が信仰に導かれて救いに入るには、実に多くの人の労苦が関わっています。誰かを教会に誘ってきたとしても、その人が信じて洗礼を受け、信仰者として歩んでゆくのを、誘ってきた人は見ることがないかもしれません。初めて教会に来た人も、それまでの間に、どこで聖書に触れ、主イエスとの接点があったのかはわかりません。その人のために種を蒔いた人がいたわけで、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」。これが私たちの間でも起こっているのです。種を蒔く人も、刈り入れをする人もいる。そしてどちらも喜びます。
 しかし、そんなにすんなりとはいかないことも私たちはこの世で経験しています。身近な家族や友人に長年救い主イエスのことを伝えてきたけれども、なかなか信じるまでに至らない。これは多くの人が味わうことでしょう。けれども、私たちはそこで二つのことを忘れないようにしたいのです。一つは、信じた人は自分自身がまず主によって刈り取られた者である、ということ。もう一つは、救い主イエスの御言葉には力があること。主イエスの御言葉が空しく終わることはないのです。
 この時の弟子たちは、主イエスが、ユダヤ人とは交際していないサマリア人の女性と話をしていたことに驚きました。彼らにとっては、サマリア人はユダヤ人とは仲の悪い民族で、神の民の道から外れてしまった人々、と思っていたでしょう。そんな人たちに主イエスのことを積極的に伝えようとは思っていなかったでしょう。もしそうでなかったら、主イエスがサマリア人の女性と話しているのを見て驚かなかったはずです。弟子たちは、まだ狭いものの見方をしていました。しかし、主イエスの前には刈り入れを待つ多くの人々という畑が広がっており、それは世界中へ、さらに、後の時代までも視野に入っていたのです。

3.イエスが救い主だとわかる
 そして、この時の実りがサマリアの人々でした。主イエスと出会う恵みを与えられた女性から話を聞いた人々は、その時点でもイエスを信じたのですが、直接主イエスに会うことによって、早速永遠の命に至る実を結び始めたのでした。
 そしてここで最も大事なのは、多くのサマリア人は、イエスについて証言した女性の言葉、つまり証しを聞いてイエスを信じたことです。先に信じた人が主イエスについての言葉を誰かに語り、それを聞いた人の中に信仰が芽生えます。サマリアの人々は、主イエスのもとに来て、自分たちの所に二日間留まってもらいました。たったの二日間でしたが、直接主イエスに会った人たちはさらに信じました。「もうあなたが話してくれたからではない、わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかった」と(42節)。ここに人が信仰に至る時の二つの段階が示されています。誰かの言葉を聞き、それによってイエスに近づき、教会の礼拝に来たり、聖書を読んだりするようになる。そして聖書の御言葉と、人の言葉と証し等を通して救い主イエスに対する信仰が芽生えてきて、この方こそ真に世の救い主だ、との信仰に至ってゆきます。そこには隠れた聖霊のお働きがあります。私たちはそれを最初から自覚することはできませんが、後になれば確かに聖霊の恵み深いお働きにあずかっていたと言えるのです。
 そしてこの聖霊の恵みは、直接主イエスに会ったサマリアの人たちに勝るとも劣らずに今日の私たちに与えられています。むしろ聖霊は今や世界中の教会に働いておられます。その素晴らしい恵みを教会が受けたペンテコステ(聖霊降臨)後の時代に生きている今の時代の私たちの方が、サマリアの人々よりも力強く主イエスに結び付けられている、と言えるのです。肉眼では見えず、肉声は聞こえなくても、主イエスは私たちの所に留まってくださっています。聖書の証言、また先に信じた人々の証言(証し)を用いて、聖霊が起こしてくださる信仰は、主イエス・キリストこそ「本当に世の救い主であると分かった」と告白するのです。
 主イエスが本当に世の救い主であると分かったら、その人には何が起こるのでしょうか。全ては神の御心の中にあり、自分はその神の御手の中に導かれ、救われたと信じて歩み始めます。そして世の中全体のことも神様の視点から見ることを学び始めます。私たちが全てを理解しているわけではなくてもです。ただ一人全てをご存じで世を統べ治めておられる神がおられ、世の救い主イエスを与えてくださり、私たち人間の罪を十字架で贖ってくださったのですから、それに依り頼んでどんな時、どんな状況でも私たちは信仰によって立つことができます。この世界は人間の罪のゆえに歪んでしまった後、人間にとって災いや害となるものがまだ残っているのですが、それらもやがては全て新しい命の溢れる神の国では一掃されてしまいます。今はまだその途上にあるので、私たちは旅の途中で息切れしてしまい、休息が必要になることもありますが、世の救い主である主イエスは、様々な手段を通して御言葉を与え、力を与え、祈りによって御自身の力を示してくださいます。
 サマリアの女性は、自分の、人に知られたくない過去も主イエスに言い当てられました。でも彼女は恥ずかしいからと言ってイエスから遠ざかりませんでした。主イエスも、行いを改めてから出直して来なさい、とは言われませんでした。彼女は主イエスとの出会いによって新しくされ、つまり悔い改め、周りの人を主イエスのもとに連れてくる器となりました。種を蒔く人も、刈り入れる人も、刈り入れられた人も、共に主イエスに出会って、この方こそ世の救い主だと分かって喜び、その実りに与れるのです。それを信じて、困難な状況の中でも永遠の命に至る道を示して、先立ってくださる主イエスに信頼して従いましょう。

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