「今もなお働かれる主」2020.5.24
ヨハネによる福音書5章1~18節

 私たちの主イエスは、多くの病人を癒されました。今日の朗読箇所にもその記事がありますが、ヨハネによる福音書にだけ記されているこの出来事は、主イエスのなさったことの深い意味がたくさん込められている箇所です。

1.良くなりたいか
 エルサレムにある、ベトザタの池でのことです。20世紀になって、この池の遺跡が発掘されたそうです。この池は南北に二つの池が並んでおり、合わせて南北約100メートル、東西60メートルほどのもので、丁度サッカーのグラウンドくらいの広さになります。五つの回廊があったと書いてあるように、周りを歩けるようになっていました。そこに多くの病人が横たわっていたのでした。7節に「水が動くとき」とありますように、間歇泉のようなものが湧いていたのではないか、と思われます。そして、その動いた時真っ先に入った人は体が良くなる、と信じられていたのでしょう。新共同訳では後代のものとみられる3節後半から4節にかけてが削除してあり、巻末にその一文が載っています。天使が来て水を動かすことがあり、その時に真っ先に入る者はどんな病気にかかっていても癒された、とあります。新共同訳の底本にはありません。奇跡ではなく、間歇泉によるものではないかということです。
 そこにいた、38年も病気で苦しんでいた人を主イエスがご覧になり、「良くなりたいか」と聞かれました。この質問は、病人の側からすると、そんなの当り前ではないか、と言いたくなるかもしれません。しかし、ここでこの人はその質問にまっすぐには答えていません。単純に、はい、もちろんです、治りたいです、とは言わずに、この人は自分のことを助けてくれる人がいない、という悲しい状況を伝えます。この人は水が動くときに自分を助けて水に入れてくれる人がいない、と言います。彼にとっては治りたいというのが一番の願いではあるのですが、誰かが助けてくれるということをまず求める、ということにいつの間にかすり替わってしまったのでしょう。これは無理のないことかもしれません。自分の体が治る、という大事な願いよりも、それをかなえるための手段がない、助けてくれる人がいない、という二次的な問題に目が移ってしまっていたのです。
 これは私たちも、祈る時にもしかするといつの間にかしてしまっていることかもしれません。何か願いがある、というときに、それを実現するためにはあの手段、この方法があって、それが実現すれば叶う、と考えるのです。手段はともかく神様に願い求めるよりも、あれこれ実現に至る道を予め自分で想定して、それに沿って願いが実現するように祈る。もちろん具体的なことを上げて祈るのは大事なことではありますが、予めこちらで筋道を確認してレールを敷いておいて、それに沿って主がかなえてくださるように願ってしまうのです。そうではなく、とにかく願いを述べ、手段も道筋も見通せないにも拘らず祈り願う。これは大事なことです。例えば会堂を建築しようとするときに、献金を少しもしないでただ会堂が建ちますように、とだけ祈るのではなく、やはりできることはしながら祈ります。しかし献金もしながら、現状ではこれしか資金ができないだろうと初めから枠を小さく限定してしまうかもしれません。時に私たちは主の前に、自分が、あるいは自分たちが心底何を望んでいるのか、ということを改めて洗い出してみることが必要なのです。

2.床を担いで歩きなさい
 主イエスは、わざわざわかりきった問いをされたというのではなく、この人に、自分が本当は何を望んでいるのかという大事な点に立ち戻らせようとされたのではないでしょうか。しかし主イエスはそのこと自体をどうこう言われずに、いきなり「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われます。この人はそんなことを言われるとは全然思っていなかったことでしょう。このように主イエスは私たちに対して、私たちが殆ど或いは全く期待もしていなかったようなことへと私たちを導かれます。この病人は、主イエスの御言葉にすぐに従いました。まさかそんなことが起こるわけがない、と思って立ち上がろうとしない、ということはなかったのです。彼は従いました。水が動いた時に真っ先に入れるように助けてくれるよりもずっと大きなことをしていただいたのです。
 ここに安息日の問題が起こりましたが、その前に、この人に対して、後で主イエスが合われた時のことに目を向けます。この人は、自分を癒してくれたのが誰なのかを知りませんでしたが、主イエスは、再び会われた時に「あなたはよくなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。なにやらこの人の後々に暗い影を落とすようなことに聞こえます。
 この人が、何か大変大きな罪を犯していたのかどうかはわかりません。ただ、神の御子であるイエスだからこそ、彼の過去と、その内面について、その罪について知っておられたがゆえに言われた御言葉です。神が、人の罪の罰として病を与えたり、懲らしめたりすることは旧約聖書に実例がいくつかあります。そして、神により頼んでいる者でも時に神が罰として病を与え、重荷を与え、苦しみの内に置かれることもあります。それを試練として与えられる場合もあります。しかし、すべてに共通しているのは、私たちにはすべてはわかりませんが、それぞれの人に対して神は相対してくださることと、神はご自分を信頼してより頼む者に憐れみ深いお方である、ということです。
 この病人に対して主イエスは、もう罪を犯してはいけない、と言われました。罪を犯さないようにすること、罪を避けること、これは誰にでも当てはまることです。この人の場合、主イエスが奇跡を起こして癒してくださったのですから、それほどの恵みを受けておきながら、神に背を向けて生きるようなことがあってはならない、もしそのようなことがあれば、神の厳しい懲らしめを免れないであろう、そしてそれはあなたの今後の人生に不幸をもたらすことになる、ということです。この人は38年もの長きにわたって病気で苦しんできたのですが、38年目に主イエスに出会うことができ、癒していただいた。それは38年の苦しい生活に見合うことでしょうか。もっと早く自分の所に来てほしかった、と思うでしょうか。しかしそれは神のみが知ることです。たとえ38年かかったとしても実に幸いなことだったはずです。この人が一番それをよく実感していたのではないでしょうか。

3.主は働いておられる
 最後に、ユダヤ人たちが言った安息日のことについてお話しします。彼らは病気を癒していただいた人に「今日は安息日だから、床を担ぐことは律法で許されていない」(10節)と言いました。安息日に荷物を運ぶことは働くことであるから、禁じられている、ということで、人々はそれを守っていました。そしてこのことについて、イエスとユダヤ人たちの間に対立が起こり、人々はイエスを迫害し、ついには殺そうと狙うようになったのでした。
 主イエスははっきりと、神とご自分が一つであり、ご自分が神の側に立つものであることを示されました。安息日には、人は働いてはならない、と命じられていましたが、神はお働きを継続しておられます。確かに創世記2章では、神は安息日に創造の仕事を離れ、安息なさったとあります(3節)。これは創造の御業が完了したことを表しているわけですが、実は神は創造されたすべてのものを、その後ずっと保っておられ、その意味で働いておられるのです。もちろん神がお働きになるのは人間が汗水垂らして苦労する、というのとは違いますし、神も人と同じように休まないと疲れてしまうわけでもありません。人に安息させることを教えるために仕事を離れた、と言われているのです。
 それで主イエスは、わたしの父、つまり神は今もなお働いておられる。と言われたのです。父なる神が働いておられるのだから、子である自分も働くのだ、と。そして神を父と呼び、だから自分も働くということは自分を神と等しい者とすることだ、とユダヤ人はみなしました。そういうことになります。それは神を冒涜することだ、という理屈です。主イエスを神の御子と認めない人にとっては、イエスはけしからぬ存在です。
 私たちは、この主イエスを信じます。神の御子は安息日だからという理由で目の前にいる病人の癒しを手控えることはなさいませんでした。何もしないでいれば神の戒めを守っている、と考える人々に安息日の意味を問われました。神は今日、何曜日であっても私たちの命を保ち、生かしていてくださいます。私たちはまずそのことに気づかなければいけません。そして安息日は何もしないで休むのではなく、神のお働きに与っていることを感謝して神をあがめ礼拝する時です。入院していたり、施設に入っていたりすると、いつもの曜日と変わらない、と思うかもしれません。しかし、そこに神のお働きを思いめぐらし、神をあがめ、御言葉に聞く人がいるなら、そこに神の御手が置かれています。既にそこに神のお働きがあるのです。使徒ペトロは書きました。主イエスが十字架で「お受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(ペトロの手紙一 2章24節)。私たちもこの病人と一緒で、主イエスに癒していただく必要があり、信仰に導かれた者は既に癒していただいたのです。そうすることで神と共に生き、主イエス・キリストによる義をいただいて、神のもとに立ち帰り、神の羊として守り、養っていただいているのです。

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