主が祝福を残してくださる」2020.5.17
 ヨエル書 2章12~27節

 今日はホセア書とアモス書に挟まれた、ヨエル書という小さな預言書から神の御言葉を聞こうとしています。ホセア書から後ろにある預言書を12小預言書と言います。ヨエル書は小預言者の中でも小さい方に属する書物です。「ヨエル」とは「ヤハウェは神」という意味の名前です。ヤハウェとは、主のお名前を表わす固有名詞で、「主」と訳されています。ヨエルはペトエルの子であると書かれていますが(1章1節)、どういう人であったのかは良くわかりません。
 ヨエルが預言した時代も、諸説があります。ホセアとアモスは共に紀元前八世紀に活動した預言者で、その間に挟まれているので、同時代のようにも見えますが、もっと後の時代を反映しているのでは、というのが有力な説です。エゼキエルなどの後、エルサレムの神殿が再建された後の状況を反映しているようです。旧約聖書の預言は特に、時代背景を知って読みますとその預言の意図がよりよくわかりますが、ヨエル書の場合、預言が語られた時代が特定できないとしても、教えそのものを聞くことで、神の私たちに対する御心を聞き取ることができます。1章3節には「これをあなたたちの子孫に語り伝えよ」とあります。私たちも地に住む者の一人としてこれを聞くべき者の内にいるのです。

1.恐るべき主の日
 ヨエル書では、前半の1章、2章では恐るべき主の日について預言されています。旧約聖書ではしばしば主の日についての預言がなされます。今日、私たちは「主の日」というと単純に日曜日、主イエスが復活された日のことを言っていますが、旧約預言においては、主の日と言えば、主が裁きをなさる恐ろしい審判の日、として語られていました。
 それは、主の民であるイスラエルの人々の罪のゆえでした。それで預言者たちは人々に悔い改めを迫り、主に立ち帰るようにと語ったのです。今日の朗読箇所はその主の審判の日、2章の見出しにありますように主の怒りの日に臨むにあたって、今こそ、悔い改めて立ち帰れ、と命じているわけです。

2.主に立ち帰れ
 では、主に立ち帰るにあたって、どうすべきか、というのが13節です。「衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け」。イスラエルの人々は、激しい怒りや嘆きの感情を露わにする際、自分の衣を引き裂きました。アブラハムの孫であるヤコブは、息子のヨセフが野獣に殺されたと聞いた時に自分の衣を引き裂きました(創世記37章34節)。また、ダビデはサウル王が戦死したという知らせを聞いたときに自分の衣をつかんで引き裂き、共にいた者たちもそれに従いました。激しい怒りと悲しみの感情を抱いていることが周りの人にすぐにわかったのです。
 このような習慣は、悪くすると、本当に嘆いているわけでもないのに、人に見せるために衣を裂く、という行為に及ぶこともあり得ます。そうなると、本当に心から嘆き悲しんではいないのに、人々の手前、悲しんでいる振りをすることもできます。それも考え合わせると、衣を裂くのではなく、心を引き裂け、という主の御言葉は、本当に心から悔い改めよ、という教えだと良くわかります。主は人の心の内をも見ることができますから、見せかけだけで衣を裂いて、嘆き悲しんでいる振りをしても、それは無意味なものにしか過ぎないのです。  主は、恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられる方だから、立ち帰れと言われています(13節)。主が悔いられる、とはどういうことでしょうか。主は人間のように自分のしたことを、しなければよかったと言って嘆くようなお方ではありません。罪のゆえに裁きを受けて懲らしめを受け、苦しみの中にいる罪人に対して憐れみの御心を向けられて、厳しい裁きから、憐れみ深い対応へと人間に対する態度を変えてくださることを示します。悔いる、という言葉は、憐れみを抱く、とも訳せる言葉です。

3.主が祝福を残してくださる
 主はご自分の民の罪に対して、厳しく正しく裁きをなさいますが、その厳しい態度を民に向かって取り続けるのではなく、憐れみに基づいて接してくださいます。それで、主が思い直され、祝福を残してくださるかもしれない、と言うのです。神がくださる祝福には、いろいろなものがあります。この世の生活で必要なものを備えてくださる、という点が特に旧約聖書では示されています。それは家や土地、家畜の繁殖や農作物の豊かな収穫、子孫の増加と一族の繁栄、といったことに見られます。これらは確かに現世でのものということですが、しかしこのような祝福をいただけるということは、神の御厚意に与っていることのしるしですから、実に感謝すべきことです。もちろん最も大事なのは魂の救いですが、魂の救いをいただいた者が、様々な目に見える祝福をいただくことがあります。目に見えない永遠の命の祝福をいただいていることのしるしとなることもあるわけです。反対に、魂の救いは受けているが、この世では、ある程度の厳しい試練を与えられることもあります。その顕著な例が使徒パウロです。彼は主イエス・キリストによって罪の赦しをいただき、救いを与えられ、使徒とされて福音宣教にその後の命を懸けるほどの使命を与えられました。福音がまだ伝えられていない所へ行って、主イエスとその復活とを告げ知らせる、という大変な務めを与えられて、それに生涯をかけました。
 彼は命がけで旅をし、迫害を受けて石で打たれて殺されそうになったことがあり、飢えをしのび、遭難したこともありました。それでも彼はこの世で必要なものをいただいて生き続けました。彼にとっては最大の祝福である魂の救いと永遠の命を約束されていたので、この世での苦しみを耐え忍んで、栄光の神の国を待ち望み、務めを全うしたのでした。それもまた神の祝福です。ですから、神が祝福をくださる、というとき単にこの世の生活でいろいろなものが豊かに満たされるとか、人との関係が良いものとなって満たされるとか、何も悩みがないとかいうことではなくて、神のものとされている、神が御好意を向けてくださっているということがその根底にあるのです。この世で悪知恵を働かせて悪事を働き、大儲けをしたとしても、それは神の祝福ではなく、一時的にお金が懐に入っただけで、やがてそれは朽ちてゆくだけで、その人を救うことはできません。せいぜい一時的な快楽で欲求を満たすだけです(ヤコブの手紙5章1~3節)。
 このヨエル書で言われている祝福は、神が御好意を向けてくださり、神との親しい関係を、神自ら続けてくださるという道です。神は「あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない」と言っています(2章14節)。主に献げるべきものすら、主が備えてくださる、というのです。私たちも献金を主に献げます。それらはもともと、主からいただいたものです。そしてそれを献げて礼拝することができる。それによって神とのつながりが与えられていて、神の祝福が与えられている、と私たちは自覚できるのです。
 そもそも旧約聖書では、全世界的な人間の罪によってそのたびに神が人類全体に罰や報いを与えることがなされてきました。ノアの洪水の時(創世記6章以下)、バベルの塔の時(同11章)がそれにあたります。洪水によっての後その家族と動物たちのつがいが残されましたがそれ以外のものは皆滅ぼされました。しかし、それでこの世界を終わりにはされませんでした。世が続く限りは神によってすべてが保たれ、季節の変化は続き、世の営みは継続されているのです。バベルの塔の時も、人間の思い上がりに対して神は罰を与えて言葉を乱してしまわれましたが、言語の違いを超えて異国の者どうしが意思の疎通を図れるようになっています。そしてやがて言葉の違いを超えてすべての人々に救いの福音が告げ知らされます(ペンテコステ)。これらは、みな、後の時代にまで神の祝福が残されていた、ということです。神は歴史の中ではたびたび人に対して、特に主の民に対して裁きをなさり罰と懲らしめを与えられはしましたが、常に最終的な祝福は残しておかれたのです。最後の最後には主の民が永遠の安息に入れるように用意しておられます(ヘブライ人への手紙4章9、10節)。私たち人間がいかに罪深く、欠け多い者であろうとも、主なる神は、永遠の安息への道を主イエス・キリストにあって、備えてくださっています。これは私たちにとって本当に感謝すべきことです。
 この後、ヨエルの預言では、会衆が集まって主の憐れみを呼び求めよ、と命じます。すると、主はご自分の国を強く愛してその民を深く憐れまれた、という素晴らしい恵みが示されます(18節)。そして、主は豊かな実りをもたらしてくださり、雨を豊かに賜り、穀物は満ち、ぶどう酒の搾り場は新しい酒に溢れるのです(23、24節)。そして最後には、民の中に主がおられることを知るようになる、と言われています。それこそ最大の祝福です。この、新しい酒が溢れる、という一節は、遠い後の日、ガリラヤのカナで主イエスによって象徴的に実現しました。そしてその祝福は文字通りのぶどう酒に留まらず、今日まで、私たちのもとにまで及んでいます。この時代の中でも主は祝福を残していてくださいます。
 このヨエルの時代よりはるか昔、先ほどのヤコブの双子の兄エサウは、長男の権利を軽んじて食べ物と引き換えにヤコブにそれを譲ってしまいました。そして後にヤコブに祝福を奪われてしまった時、祝福を受け継ぎたいと願ったけれども、事態を変えてもらうことができなかったのでした(ヘブライ人への手紙12章17節)。ですから、恵みを受けている者は、それを軽んじてはなりません。主を信じ、その救いに与っていると信じる者はなおさらです。そして主に連なる者は決して恥を受けることがない(ヨエル2章27節)ということをよく心得ましょう。主に立ち帰り、主に信頼し、感謝と賛美を献げる者には慈しみ深い方であることを信じて今の時を歩みましょう。そして、主が祝福を残しておられることを、困難な事態の中でも身をもって証しし、示す務めをもいただいていることを知りましょう。どんな状況の中でも、主の祝福を信じて礼拝し、生活する主の民は、その日々の歩みを通して慈しみ深い主がおられることを証ししているのです。

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