「イエスの言葉を信じる」2020.5.10
 ヨハネによる福音書 4章43~54節

 今日も主の御言葉を聞きましょう。主イエス・キリストの御言葉は、今でも力強く私たちに語りかけています。主の御言葉には、すべてのものの造り主としての力と、一切の主権の上に立っておられる方としての権威があります。その権威ある御言葉によって私たちに救いと命が与えられています。

1.2回目のしるし
 主イエスは、サマリアから出発してガリラヤへ行かれました。そしてかつて婚礼の席上で、水をぶどう酒に変えたことのある「カナ」という村へ行かれました。この福音書を書いたヨハネは、その時の奇跡を「最初のしるし」と言っています。ここでいうしるし、とは、イエスが本当に神の御子であり、世の救い主として来られた方であることを明らかにする証拠、という意味でのしるしです。今日の箇所では、主イエスは王の役人の息子が死にかかっていたのを、ただ一言の言葉によって癒したことが書かれていました。そしてその家族の者たち皆が信じたのであり、ヨハネはこれを、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた「2回目のしるし」であると書いています。
 カファルナウムにいた王の役人は、病気の息子を癒してくださるようにと、イエスに頼みました。ガリラヤのカナとカファルナウムとは、約30キロメートル離れています。瑞浪教会が、丁度そのくらいの距離にあります。今日の私たちなら、車で小一時間走れば着ける距離ですが、検索してみたら、徒歩ですと7時間くらいはかかりそうです。普通に旅をしているのであればもっとかかるでしょうから、一日がかりの距離でしょう。この息子の熱が下がったのが午後1時、そしてこの役人と、僕たちが途中で会ったわけですから、それぞれ翌日に出発したのでしょうが、いずれにしても今の私たちとはずいぶん違う時間感覚の中にいたのだと思います。今私たちは通常はすぐに電話やメールで安否を確認できますが、この当時の人々にとっては、ひたすら歩かなければならず、この役人は山を下り、僕たちは坂を上ってカナへ向かっていたのでした。旅の途中で、いろいろな思いがこの役人の心の中を巡っていたのではないでしょうか。主イエスの御言葉をそれこそ何度も思い出しては、あの方がそう言われたのだから、それを信じて道を行くしかないと思って道を急いでいたことでしょう。僕たちも、一刻も早くご主人様に、この良い知らせを伝えたいと思って、やはり道を急いでいたでしょう。

2.しるしや不思議な業を見なければ
 さて、少し戻りまして、この役人が主イエスのもとに来た時のことを見ましょう。主イエスは、藁をもつかむ気持ちで御自分のもとにやってきたこの役人に対して、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と手厳しいことを言われました。しかしこのことは、いつの時代の人にとっても、特に現代人にとってはその通りと言わざるを得ないのかも知れません。主イエスの時代には、実はしるしや奇跡を見ても信じない人たちがいました。そういう人々は、何を見ても受け入れません。奇跡を行えば、それは悪霊の力だという人もいました。結局、信じるかどうかは、その人の心の内に何が起こるかによって決まるからです。では、今日しるしや奇跡を見せる人がいたとして、どうでしょうか。今日の奇術師、マジシャンと呼ばれる人たちの技は実にすごいものだと思います。種があると分かっていてもどうしてそんなことができるか全くわからないので、もしかするとこの人たちは人間ではないのか、と思いたくもなります。そういう現代では、たとえ常人には理解できない奇跡的なことを誰かが見せても、きっと何かのトリックがあるに違いない、と思うのではないでしょうか。初めから手品だと言っているものと、手品なのに、超能力だと言っているものと、やっていることは大して変わらないのです。ですから、今日では奇跡やしるしだけでは人を納得させることはより難しくなっているかもしれません。しるしや奇跡を見ても信じないのです。
 しかし、この時の役人は違いました。この人は、はじめから主イエスに一緒に来てもらって、そして直してほしいと願っていました。しかし、主イエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われます(50節)。この役人は、イエスの言葉を信じて帰りました。

3.イエスを信じる信仰
 そして、この役人は、途中で自分の僕たちと会うわけです。彼は僕たちから、息子が生きていること、前日の午後1時に熱が下がったことを聞き、それがイエスの言われた「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを知って、家族こぞって信じたのでした。この「信じた」という言葉は50節でイエスの言われた言葉を「信じて」帰って行った、と言われた時と同じ言葉です。2度目に信じた、と言われた時には、イエスの言葉とか、奇跡を行う力とかいうよりも、イエスその方を信じたということです。最初にイエスから「あなたの息子は生きる」と言われた時も、確かにこの役人はイエスの言葉を信じて帰ったのでした。イエスが来てくれなくても、きっと言われた通りになって息子は生きる、と信じたのです。しかし2度目に信じた時にはイエスというお方そのものを見たのです。この方が神の権威を持つ方であり、命を与え生かすことのできる方であることを見たのです。最初にイエスに会った時には、とにかく自分の息子を助けてもらいたい、という一心でした。そして息子の病気が治る、という一点だけを期待し、イエスの言葉を信じたのでした。しかし、帰る途中で息子が本当に治ったことを知り、しかもイエスが「あなたの息子は生きる」と言われたその時に息子が癒されたことを知った彼は、イエス、というお方に全面的な信頼を寄せる信仰へと導かれたのです。
 私たちは、このような信じ方を日常でもしているかもしれません。誰かの言葉を信じて、その通りに行動してみる、ということがあります。どこそこの店で消毒薬を売っていた、と言われてそれを信じてとにかく行ってみる。そして実際にそうであったと知る。そしてそういうことが何度かあったとすると、ああ、あの人の言うことは信用できるな、という信頼になってゆくわけです。主イエスに対する信仰はどうでしょうか。私たちは、直接この役人のように、自分や家族の病気を奇跡的に癒してもらって、そして信じるというわけではありません。しかし、聖書に書かれているイエスのなさった御業を見て、ああ、このお方は素晴らしい方だ、このようなことができる方は素晴らしい、特別な存在ではないか、と思うようになるのです。それはいわば第一段階で信じた、ということです。
 しかし、信仰は単に聖書の中でのイエスの奇跡を信じる、というだけではありません。いくら聖書の中に書かれている出来事が本当だと信じても、その同じ主イエスが昔も今も変わらず生きて働いておられ、今日、自分に対しても働いておられる、ということを信じるのでなければ、その人の信仰はまだ途上にあると言えます。進むべき道には進んでいるとしても、この役人とその家族のように、信じた、というところまで私たちの信仰はゆきつくものであります。イエスは今この世に生きている私に対して、罪を赦し、救いを与えてくださる方としておられます。そして、「あなたの息子は生きる」とここで役人に言われたように、「あなたは生きる」と言ってくださるのです。そういっていただいていることを信じた者は、この世で、新しい命の道を歩き始めます。今まで経験したことのない事態が襲ってきたとしても、イエス・キリストにおいて現れてくださった神を信じます。困難や試練などにおいても、そこにも生ける主がおられることを信じます。
 その信仰は、もはや、自分の利益のため、自分と周囲の人々が守られるため、ということだけを求める信仰から進み出てゆきます。成長してゆきます。そして何よりも、主イエス・キリストが、本当の意味で私たちを生かすことのできるお方だと知ります。それは重病が癒されて熱が下がる、ということ以上のものです。熱が下がってもやがて人はついには死ぬ時を迎えます。しかしその死をも越えてゆく命をくださるのが主イエス・キリストです。今、信じる私たちに対して、そのように「あなたは生きる」と言ってくださるのです。その権威を持つお方であることを、今日の福音書の記事は教えてくれているのです。この方を私たちはこぞって信じます。
 そして主イエスが言われる意味での「生きる」とは、神の前で、神と共に生きることです。この役人の息子は死にかかっていました。主イエスはその状態から、健康な状態に戻すことができました。今の私たちは、神の前には死にかかっていたどころか、死んでいたという者です。そういう私たちを神の前に生かすことができる。そのような方は救い主イエス・キリストしかおられません。   そしてそのように生かしていただいた者は、この世の生活の中で、たとえどんな状況に置かれたとしても神につながっていることを知っています。生活面での助けを求めることもできます。「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」という祈りを教えてくださった主イエスを信じて祈ります。天の父なる神は、主イエスに信頼して祈る者に、永遠の命の祝福と共に、この世で必要なものも加えて与えてくださいます。主イエスがそう約束してくださいました。私たちはその主イエスの権威ある御言葉を信じ、イエス御自身を信じるのです。

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