「十字架のイエスがあなたを救う」2020.4.5受難週
ルカによる福音書 23章26~43節

 4月を迎えました。先月の今頃も既に新型コロナウイルスの感染が広がっていて、私たちはこのことを心に留めてきました。しかし一ヶ月経って世界中の感染者がどんどん増え、亡くなった方も非常に多くなっています。そのような中、救い主イエス・キリストの十字架の死を覚える受難週となりました。私たちは、ただ教会のカレンダーでイースターを前にして受難週となった、ということではなく、主イエス・キリストの受難と十字架の死、そして復活に至る神の御業を今一度よく思い巡らすべき時を与えられています。今世界で起きていることはそれとして、イースターはイースターとして祝う、というわけにはいきません。今この状況の中で受難週を迎えた私たちに、今日、この礼拝で主が語られる御言葉を聞きましょう。

1.イエスは十字架につけられた
 今日の朗読箇所は、主イエスがローマ総督ピラトのもとで十字架刑の判決を受けて、処刑場に引き立てられていく時からのことです。主イエスはご自分が架けられることになる十字架を背負って「されこうべ」と呼ばれる所へ向かいました。その途中で旧約聖書の預言書を引用した主イエスの謎めいた言葉を伝えています。30節はホセア書10章8節からの引用です。主イエスの御言葉は、大変厳しいイスラエルに対する裁きの宣告です。人々は今、神の御子、救い主であるイエスを十字架につけようとしているが、神の前での自らの罪の大きさを認めずに、罪のない神の御子を十字架につけることの報いを受けねばならないのです。枯れ木、とは主イエスを十字架につけようとするイスラエルの人々のことです。
 確かにここでは非常に厳しい主イエスの権威ある御言葉が聞かれます。しかし、主イエスが十字架につけられるということ、そのこと自体が、私たち人間の罪のゆえであり、その罪の贖いのためでした。ここに深い神の御心があります。主イエスが十字架にかけられて、私たちの罪を担ってくださったからこそ、私たちの罪は赦されます。しかし、そこにはただ一つ条件があります。それはたとえ知らずにイエスを十字架につけて殺してしまったとしても、それを認め、悔い改めることです。そうするなら赦しの道は開かれています。ですから、直接主イエスを十字架につけた人々でも、もし本当にその罪を悔い改めてイエスを主と信じるなら、赦しが与えられます。それを主イエスは三四節で示しておられます。ご自分を十字架につけた者たちのために、彼らをお赦しください、と祈っておられます(34節には〔 〕がついていますが、これは有力な写本になく、一般的に後代の加筆ではないかとみられています。しかし、括弧入りとは言え、私たちは、この言葉の内に主イエスの御心が示されている、と見ることができます)。

2.わたしを思い出してください
 こうして十字架につけられた主イエスに対して、直接イエスを十字架につけたローマの兵士たち、民衆、そして特にイエスを死刑にすべきだと主張した議員たちや民の指導者たちは主イエスに対する侮辱的な言動を重ねます。一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人も、イエスを罵りました。ここに、自分の罪の実態と重さを知らない人間の姿があります。これは私たち人間の罪の現実を私たちに突き付けています。罪のない神の御子を、罪深い人間が十字架につけたのです。そして、主イエスが十字架につけられたからこそ私たちの罪の贖いが成し遂げられました。こんなことは、誰一人この時知る由もなかったのです。ですから、今こうして聖書により主イエスを十字架につけた人々の悪事を見ている私たちは、この一連の出来事の見物人でいてはいけないのです。そうではなく私たちは、イエスを罵らなかった、もう一人の犯罪人の側に自分を置かなければなりません。自分のしたことについては、神の裁きを受けねばならない。しかしそこから、十字架につけられているイエスに目を向け、この方には罪がないことを認め、この罪なき神の御子に依り頼む道へと入ってゆかねばなりません。
 この犯罪人は、主イエスに向かって、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。彼にとっては、隣りで一緒に十字架につけられているイエスと、自分とでは十字架につけられている意味が違うことを知っていました。なぜ彼がここまでの信仰に至れたのか、それはここには記されません。しかし、神は、どれほど罪深くてもその罪人の心を新しくして心をイエスの方に向けさせ、イエスにより頼む信仰へと導くことができます。
 この人は、十字架という極刑に処せられながらも、この世の最後の時にその恵みをいただいたのでした。どんなに罪深い者でも、本当に罪を認めて悔い改め、その罪がイエスを十字架につけたのだと知って、イエスを信じ、より頼み、イエスによって神に立ち帰らせていただきたいと願う者には、誰にでもこの恵みは与えられています。
 主イエスは、この犯罪人に対して、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この犯罪人はこの世の生涯の最後に最高の祝福に満ちた約束をいただけたのでした。彼が十字架刑に処せられるほどの大きな罪を犯していたとしても、その罪を一言で赦すことのできる権威を持つのがイエス・キリストというお方です。こうして十字架について私たちの罪を担ってくださったからこそ、この犯罪人に対して罪の赦しを告げることができたのです。

3.救われるべきこの世と私たち
 さて、罪の赦しと、天の御国に入れていただけるという確かな宣言をいただいたこの犯罪人と同じ位置に私たちも自分を立たせましょう。自分の罪は本当に神の前に深いもので、そのままでは自分の罪のゆえに罰せられて滅びるしかないにも拘らず、十字架の主イエスにより頼み、「わたしを思い出してください」と心から願う者は本当に神の国が約束されています。
 この犯罪人は、十字架で処刑される、という自分の人生の最後を振り返って、今の今までは絶望的な思いを抱いていたのではないでしょうか。自分の生涯や、生きてきた環境、自分のなした悪事を振り返って、なんと愚かなことをしてきたのだろうかと思っていたのではないでしょうか。自分が死刑になるのは仕方のないことだ、しかしなぜ自分の人生はこうなってしまったのだろうと思ったかもしれません。彼は自分が報いを受けるのは当然だ、と認めていますが、それは自分の罪深さと愚かさを味わいながらのものだったはずです。
 しかし、彼の隣には救い主がおられました。そして絶望を抱いていたであろう彼に、光が差し込みました。本来なら最悪の状態でこの世を去るはずだったこの犯罪人は、神の前では救われたのでした。この人は大きな罪を犯して、人に多大の迷惑をかけ、損害を与え、傷つけることもしたでしょう。殺人を犯したのかもしれません。それでも、主イエスは神のもとに立ち帰ったこの罪人を受け入れてくださいました。
 そんな大罪を犯した者を、それだけで赦してしまうのは、いかがなものか。この犯罪人から損害を被った被害者はどうなるのか。被害者の気が済まないのではないか、という思いが私たちの中には出てくるかもしれません。しかし、罪はすべて神に対して犯されたものです。その罪を赦せるのはただ一人神のみです。主イエスは神の権威を持つ方としてこの罪人の罪を赦されました。その主イエスが罪人の罪を背負って十字架にかかっておられるからです。私たちは罪人として、この犯罪人の罪の赦しについてとやかく言える立場ではありません。私たちは神の裁きと赦しについて、神に対して論評する立場にはないのです。そのことをよくよく覚え、そしてまず自分自身が神の前に罪を赦していただくべき者として立っていることを忘れてはいけません。
 そして私たちは、主イエスにより罪の赦しをいただいて、その上で初めて他の人の罪の赦しを願う者としていただけるのです。今、新型ウイルスの感染拡大の中で、私たちは神の憐れみを祈り求めます。このことが起こっている意味を、私たちは神様と同じ立ち位置で知ることは許されていません。ただ聖書から分かっていることは、人間の堕落によって罪がこの世に入り、それによって人間以外のものにも悪い影響を及ぼしていることです。人は、自らの罪のゆえに、この世界に対する罪について、その責任を負うべきものとされているという点です。
 創世記で、罪を犯した人間に、主である神は言われました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。~お前に対して土はいばらとあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に」(3章17、18節)。しかしそれは、今この新型ウイルスにより感染して死に至った人に、神が直接裁きを与えたと言っているわけではありません。しかし人間は無力であり、必ず死ぬということは示されています。
 しかし、このような状況の中で、天地を創造し、御心のままに治めておられる主権者であられる神に祈ることができます。私たちは祈る者として召されています。私たちがこの世に生かされているのは、ただ自分が救われればよいというわけではなく、真の神を知らずにいる多くの人々の代わりに、そのために祈ることです。突然の感染によって苦しみの内にある人々のために、最前線でそれにあたっている関係者の人たちのために。
 私たちは日頃世界中のニュースを知らされていますが、今のこの状況は特に世界中の人々と自分と周りの人々とが密接につながっていることをまざまざと見せられています。そして今回のことは、例えば大震災とか、台風による被害の場合と違って、被害を受けていない地域の人が出向いて行って助けることができません。となれば募金とか、正しい情報共有、そして祈りしかありません。そして祈ることは全てのクリスチャンにできることであり、しなければならないことです。
 祈りましょう。私たちのすべての罪を赦してくださるように。そして神の御名があがめられるように。苦しみの内にある人々が助かるように。そして今この時、私たちは改めて十字架上の主イエス・キリストの苦しみを思い巡らす時を与えられていますから、罪と悲惨の状態にあるこの世の人々のためにも祈りましょう。私たちのために罪を担って十字架で辱めを受けられ、苦しみを味わい尽された主イエスに心を向け、「私たちを思い出してみ心に留めてください」と祈りましょう。そしてその罪の贖いにより頼みましょう。主イエスに依り頼むなら、必ず罪の赦しは与えられ、救いが与えられるのです。

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