「神は愛のきずなで導かれる」2020.4.26
 ホセア書 11章1~11節

 今日はホセア書から神の御言葉に聞きます。ホセアという名前は「救い」という意味です。彼は紀元前8世紀の後半に、北イスラエル王国で預言しました。イザヤ、ミカ、アモスたちとほぼ同じ時代の人です。彼は、家庭内に問題を抱えていました。不貞を働いた妻を迎え入れて愛せよ、と主から命じられてホセアは従います。そして主は、ホセアのその行動によって、主御自身が罪を犯したイスラエルの罪を赦して受け入れてくださることを示されました。預言者は、言葉を語るだけではなくて、実生活でも主のなさることを映し出し、それによって神がどんな方であるかを人々に教えたのです。

1.幼いイスラエルを愛された主
 この11章は、ホセア書の中でも極めて大事なところです。新共同訳の小見出しにある「神の愛」は、聖書の重要なテーマの一つです。そもそも、私たち人間を救おうとされる神の愛がなければ、聖書に示されたイスラエルの長い歴史も人類の歴史もあり得なかったのでした。神が、愛の神でないなら、とうの昔に人間は滅んでいたはずです。しかし神は、一度人間を創造されて、ご自分のことを示された以上は、その人間に寛容な御心をもって接してくださり、愛と慈しみをもって導いて来てくださったのです。
 今日の私たちも、イスラエルに示された神の愛を語るこの箇所から、自分の来し方に思いを馳せて、主なる神が自分に対し、自分の周りの人々に対し、そして教会に対し、どのようにしてきてくださったかを顧みるべき時を与えられています。
 1節で、まだ幼かったイスラエルを私は愛した、と主は言われます。主はまずアブラハムをお選びになって、祝福の約束を与えられました。その子孫であるイスラエル民族に対し、主は他の民族とは違って特別に語りかけ、恵みを注ぎ、導いて来られました。ここでイスラエルは一人の人間に譬えられています。そしてイスラエルの人々がモーセの時代にエジプトで奴隷状態となっていた時のことが語られます。その時イスラエルは、まだ幼かったのでした。ここに旧約聖書の歴史を知る上での大事な点が示されています。旧約聖書の長い歴史は、イスラエルの歩みに沿って展開してきましたが、丁度人間が赤ちゃんから幼児、子ども時代を経て大人になってゆくように描かれるのです。
 幼いので、まだ右も左もわからない。手取り足取り教え導かなければならない状態です。主はそういうイスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出すためにモーセを指導者として立て、イスラエルの人々を荒れ野に導き出されました。そして荒れ野の生活の中でも生きてゆくのに必要なものを与え続けておられました。ところがイスラエルの人々は、エジプトから脱出して40年間、忍耐をもって導き続けてくださった主を忘れて、カナンの地において、その土地の人々の信じるいろいろな偶像の神々を拝むようになってしまいました。人間は、すぐに目に見えるものに頼りたくなるのでしょうか。生ける真の神様がこれまでずっとイスラエルを導いてきたのに、それを忘れて手近な神々にいとも簡単に寄りかかってしまうのです。

2.かたくなに背く民を癒す神
 生ける真の神を捨てて、偶像の神バアルに香を焚き、犠牲を献げる。そんな罪深い民に対しても、初めから慈しみ深い父のようにイスラエルを育ててきたのは主なる神でした。エフライムと言われているのはイスラエルのことです。イスラエルの部族の中で最も勢力のある部族なので、エフライムと言えばイスラエルのことを指します。そして、このホセア書においては、北イスラエル王国のことです。南王国のユダは、このホセアの時代はまだ、五節で言われているアッシリア帝国に侵略されておらず、さらに200年ほど生き延びます。
 そのエフライム、つまりイスラエルの人々を養い育て、歩き方まで教えてきたのは主なる神でした。そして、人々が気付かなくても、常に導き、必要なものを与えてくださっていたのもこの神でした。それをイスラエルは自覚せず、癒されてきたことを知りませんでした。これが恩知らずでなくて何でしょうか。これはイスラエルが、真の神に選ばれて語りかけられてきたからこそ言われることです。聖書には他にも多くの民族が登場しますが、このように言われるのはイスラエルだけです。神の愛を特別に受けてこれまで生かされてきたので、本来なら神の恵みと慈しみに十分に感謝して、常に依り頼んでいるはずです。それにも拘らず背いているイスラエルでしたが、神は憐れみに満ち、慈しみに富んでおられるので、罪を犯して背を向けて行った者を引き戻し、受け入れて赦しを与えてくださるのです。
 さて、私たちはどうでしょうか。私たちも初めから主なる神様のことを知っているわけではありません。求道者として教会の礼拝に集うようになったり、親に連れられて教会に来たりしますが、やがて教会にいるのが普通のことになっていたという人もいるでしょう。みな子どもが育つように、少しずつ養われ、教えられ、育てられてきたのです。主イエスに出会うようにされたことも、全て神の愛に基づいています。それらのことは、幼いイスラエルを神が愛して導いて来られたことに重なります。そして私たちも、神が導き、養い、時には癒してきてくださったのに、それを十分自覚できていない。私たちはイスラエルほど恩知らずではない、と言い切れるでしょうか。それで、もう少し、ここで主がイスラエルを導いて来られたそのなさり方を見ることにします。

3.神は愛のきずなで導かれる
 神は言われます。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた」(4節)。これは詩的な表現で、人が自分の子どもに対して身をかがめてあれこれと世話をする様子に譬えて描き出しています。神はご自分の民を幼な子を養い育てるように世話をされるのです。  私たち人間は神様、という方について、いろいろなイメージを抱いています。神は全能者で、正しく、聖なるお方です。罪と悪を憎み、厳しく処罰されます。目を天地万物に向ければ、全てのものの創造者で、宇宙の果てまで知り尽くし、一切を御心のままに治めておられます。「わたしは神であり、人間ではない」と御自身で言っておられます(9節)。確かに人の思いも力もはるかに及ばない、永遠に生きておられる方です。しかし私たちはその全能者、永遠者、天地万物の創造主にして支配者であり主権者である神様が、実に憐れみと慈しみに満ちた方だということを本当に良く知っているでしょうか。
 4節で「人間の綱、愛のきずな」と言われています。人が優しく丁寧に幼な子の世話をするように、という意味です。言うことを聞かない動物を乱暴に扱うようにではなく、身をかがめて食べさせる、とまで言われています。旧約聖書で、イスラエルに対する裁きの箇所を読むと、主はやはり厳しくイスラエルに臨んでいるのではないか、と思えてきます。しかし主は民を滅ぼさずに、保ち、実は優しく身をかがめて世話をしておられたのです。イスラエルよ、あなたがたは神に対する印象を改めよ、とホセアを通して主は訴えかけておられます。
 それにも拘らず、民は頑なに主に背くので(7節)、彼らは助け起こされることはない。しかし、それでも主は言われます。「お前を見捨てることができようか」と(8節)。いったい、どこまで主は忍耐深いのでしょうか。そして先ほども見た御言葉が語られます。「わたしは神であり、人間ではない」(9節)。人間と神との大きな違いは何でしょうか。先ほど触れたように、神は全能者であり永遠者であり、天地の創造者だ、と言いたくなりますが、次に出てくる言葉は違います。「怒りをもって望みはしない」です。神の忍耐深さと寛容の大きさは、人間の比ではありません。言い換えれば、神の憐れみは限りなく、それは神御自身の胸を焼くほどの激しさです。激しく心を動かされるとか憐れみに胸を焼かれるという表現はあまりにも人間的な表現ですが、それほどに主は御自身の民の救いに熱心をもっておられるのです。
 そして神は愛のきずなで御自身の民を導かれます。主である神と私たちとをつなぐ最も強力なきずなは、神の愛である、とホセア書11章は強調しています。その神の愛が慈しみとして私たちに注がれ、憐れみとして施され、恵みとして与えられ、そしてついには救い主の十字架において、罪からの贖いとして現されたのでした。最後の最後に、人間の罪に対して怒りをぶつけるのではなくて、神の御子を十字架に差し出す、ということで神の愛を示されたのです。
 その救い主をお迎えした紀元1世紀のクリスチャンたちは、2,000年も後の、驚くほど医学も科学も進歩した時代の人々が、新型ウイルスによって命を脅かされていることを知ったら大変驚くでしょう。2,000年経っても自分たちと同じように人々は伝染病を恐れ、外出を控えているのか、と。そして同時に使徒パウロの言葉を私たちに教えてくれるでしょう。
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8章38、39節)。
 この御言葉は真実です。今のこの世界の状態を主なる神はご存じです。このことを通して、人間は自らの小ささ、弱さ、脆さを改めて知り、命を守るために知恵を持ちながらも無力な面も併せ持つ人間の姿を思い知らされています。それゆえにまた、愛する者たちの存在と命を尊ぶこと、そのためには距離を取らねばならないことも教えられています。
 そして特に主の愛を知らされた者は、主が私たちを愛しておられ、罪の中から呼んで招き出し、歩くことを教え、時には傷と病を癒し、愛のきずなで導いてきてくださったことを思い出しましょう。主は神であって人ではない。このこともまた思い出すべきです。人の思いや尺度を勝手に当てはめてはならないのですが、同時に人間にはるかにまさる熱情をもって愛されるお方であることを覚えるべきです。今も、私たちは神の愛のきずなによって導かれているのです。

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