「霊と真理による礼拝」2020.4.19
 ヨハネによる福音書 4章16~26節

 尾張旭教会として、日曜日の礼拝を在宅礼拝に切り替えて、2回目の礼拝となりました。今日は、主イエスが礼拝について教えておられる箇所です。今日の聖書箇所も、今の私たちに主がお与えくださった箇所として御言葉を聞きましょう。

1.サマリアの女性との対話の中で
 主イエスはユダヤを去ってガリラヤに行かれるにあたり、サマリアを通らなければなりませんでした。そして井戸端でサマリアの女性との対話が始まり、御自身が永遠の命に至る水を与えることのできる方だと話されました。その水を飲む者は決して渇かない、と。しかしこのサマリア人の女性は、水汲みという体力を使う仕事から解放されたいと思って、主イエスにその水をくださいと願うのでした。それが15節までのお話です。しかし、主イエスはその願いには答えないで、いきなり彼女の素性について話を変えてしまわれます。主イエスには、相手をご自分の語る真理の御言葉に引き込んでしまう力があります。いきなり夫を呼んできなさい、とは、初対面の人に言えないことかもしれませんが、全てを見通しておられる主イエスは、彼女の抱えている問題を露わにしてしまうと同時に、さらに大事な問題へ目を向けるようにされるのです。
 彼女は、自分には夫はいない、と答えますが、その理由も主イエスは見通しておられました。五人もの夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではないと指摘します。普通に考えると、自分の素性についてこんな風に言われると、余計なお世話だと思うかもしれません。しかし、彼女はそこまで自分の素性を見抜いているこの人はただ者ではないと気づきました。
彼女は、話を逸らして、礼拝の話に話題を変えようとします。彼女はイスラエルの歴史を知っており、自分の素性を見抜くようなこの人は預言者に違いないと思ったのでしょう。それに対する主イエスのお答えはどうだったでしょうか。この女性は、道徳的に言えば、ほめられた生活をしているとは言えませんでしたが、主イエスはその生活を非難するわけではありませんでした。礼拝のことよりもまず、自分の生活を正しなさい、と言うのではなく、礼拝の問題を持ち出した彼女の話に沿って答えてくださいます。これは、生活上の細かいことはどうでもよいというわけではありません。この後の二人の対話の経過を見ればわかるのですが、主イエスとの対話そのものによって、彼女は自分の人生そのものに大きな変化をもたらすお方に出会う、という無上の経験をさせていただきました。こうして主イエスは、礼拝の話を通して御自身をこの女性に示され、そして、彼女にとって最も大事なことに目を向けさせるのです。

2.まことの礼拝をする者たち
 主イエスは、彼女との対話によって、彼女に最も大事なことを教えてくださいました。それがまことの礼拝についてです。この女性は礼拝をする場所について、ユダヤ人とサマリア人との違いを語ります。サマリア人たちは、自分たちの北イスラエル王国がアッシリアに征服されたことによって、アッシリア人が植民として送り込まれ、その人たちとの混血の人々が増え、宗教的にもユダヤ人のこれまで歩んできた道ではなく、独自の道を歩んできました。そして礼拝すべき場所もゲリジム山に定めて神殿を建て、独自に礼拝を続けてきました。それで彼女はまずその場所についての互いのこだわりを語るのです。
 それに対して主イエスは大事なのは場所ではなく、まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって礼拝をすることが何より重要なのだ、と言われました。そして今やその時が来ている、と。ここに「まことの」と「真理」という二つの言葉が出てきます。「まことの」という形容詞とそれに基づく「真理」という名詞です。本物の礼拝と、そうではない礼拝があることを私たちはまず知るべきです。世にはいろいろな信仰があり、多くの神々が拝まれています。しかし本当の礼拝は生ける唯一の神を礼拝することです。
 イスラエルでは、本当の唯一の神が礼拝されてきたはずです。ノアも、アブラハムも、モーセも、ダビデも、みな本当の神を礼拝してきました。ですから、それとの対比で言うと、ここで「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と言っておられる「まことの」の意味を知らねばなりません。アブラハムやモーセたちの礼拝が偽りの礼拝だったのではなく、それは不完全なものであり、うわべは様々な外形的な儀式に寄りかかっており、目に見える形に頼る面が多々あったのです。それは地上的なもので、目に見えるものに囚われている人間に、その時期に限って与えられた礼拝の行い方だったという意味です。そして、神の御子イエスがこの世に来られたからには、もうそのような礼拝の時代は終わりを告げ、霊と真理による礼拝が行われるようになる、と言われるのです。

3.霊と真理による礼拝
 では、霊と真理による礼拝、とはどんなものでしょうか。ここで忘れてはならないのは、「神は霊である。」だから礼拝する者は「霊と真理をもって礼拝しなければならない」という理由付けです。神は目に見える物体ではなく霊であられる方ですから、それに相応しい礼拝をすべきなのです。まず、ここで言われている「霊」とは「神の霊」のことです。
 そして「真理」。この「霊と真理」という二つの言葉は、以前の口語訳聖書では「霊とまこと」と訳されていました。この訳の「まこと」というと礼拝する側の姿勢に焦点が当たっているような印象を受けます。まっすぐな、純粋な、信実な気持ちで礼拝するのだ、ということです。もちろん神様を礼拝するのですから、まじめな、まっすぐな気持ちで礼拝することは大事ですが、ここで主イエスが言われた「霊と真理」とは、私たちの側の礼拝の姿勢に重点があるのではなく、やはり神の霊によって導かれて、その中で献げる礼拝こそなすべき礼拝なのです。神の霊によって新しく生まれた者が、神の霊である聖霊の恵みと導きにゆだねて行う礼拝です。そして聖霊は主イエス・キリストが神の御子、真の救い主であることを私たちに証ししてくださるのですから、聖霊に導かれて、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みに生かされて行う礼拝です。イエス・キリストへの信仰なしに、ここで言われる「霊と真理をもって」献げる礼拝はあり得ません。
 サマリア人の女性は、キリストと呼ばれるメシアが来られたら、一切のことを知らせてくださる、と言いました(25節)。イエスこそその方でした。主イエスは、一切のことを知らせるだけではなく、その、霊と真理による礼拝を実現に至らせるお方です。主イエスが来られたからこそ、聖霊も遣わされ、私たちの心を神に向けさせ、信仰へと導いてくださるからです。
 一人の旅人として目の前に現れたイエスと出会ったこの女性は、自分の過去を見抜いてしまう預言者と思われる人、いや、預言者以上のメシアに出会ったのでした。彼女は自分の過去を振り返れば、人に知られたくない、話題にしてほしくないことだったでしょう。しかし主イエスはそれを思い出させながらも、彼女の人生の最も大事な点に目を向けさせたのでした。
 先に、このサマリア人の女性に対して、主イエスは彼女の素性について、非難はしなかった、と言いましたが、彼女がそのような生活をしていたのは、神様もイスラエルの歴史も知っているけれども、自分の人生の中で神様との関係が希薄であり、信仰に根ざした生き方をしていなかったからでしょう。もちろん人によっていろいろな事情があって、身を持ち崩してしまうことも人間にはあり得ます。いくら信仰を持っていても、自分だけではどうしようもない状況の中で、思い通りにならず、生活が乱れてしまう、ということはいつの時代、誰にでもあり得ることです。しかし、主イエスというメシア=キリストと出会うことによって、彼女は自分の人生と生活そのものを考え直す機会を与えられたのです。それは、主イエスから「その乱れた生活を直しなさい」というようなことを直接言われなくても、自分で考えるようになったことでしょう。
 今の状況を考えましょう。これが長く続いたらどうでしょうか。仕事がなくなる、生活が苦しくなる、家庭も何か変になってくる、という状態になったりしたら、私たちは思いもしない影響を受けて、今までとは全然違う生活になってしまうかもしれません。しかし、どういう状況の中でも、私たちはこの世に生かされている限りは、生ける真の神様を、主イエス・キリストにあって信じ、礼拝してゆく、という信仰の姿勢を持ち続けてゆくことが大事です。今のこの状況は、今まで起きてきた様々な事件や災害や政治経済上の出来事にまさって、世界中に対する視野を広げさせてくれたのではないでしょうか。この不安と恐れと不自由が入り混じる世界の中で、私たちは今日もまた、主イエス・キリストの御名のもとに心を一つにして礼拝をし、唯一の真の神を崇めています。それはまた聖霊の一人一人に働くお力と恵みの現れでもあります。私たちがこうして主の日の礼拝を行なうことには、今のこの世界の状況から一歩退いて、そこで神様からの平安を得て、そしてまた日常に帰ってゆくという面が確かにあります。しかし同時に私たちの礼拝は、今のこの世界状況のただなかで行われていることを忘れてはなりません。一切を造り、治めておられる神様を私たちは信じます。その神様が、救い主イエスをこの世にお与えくださいました。この世は、その救い主によって罪を赦され救われる必要があります。
 そうである以上、救われた者は、そこに信仰によって立ち続け、世のために祈ります。そして礼拝を通して主の民とつながります。そして神に祈ります。緊急事態宣言は5月6日までですが、この状況は、1年は続くのではないか、という見方もあります。誰にも断定的なことは言えません。モーセの時代、エジプトで奴隷状態の中で苦しんでいたイスラエルの人々は主に祈りましたが、それは長い年月に及びました。そして神はその叫び声を聞いて人々を顧み、御心に留められたのでした(出エジプト記 2章23~25節)。今日、それと同じようになるというわけではありませんが、私たちは世界中で主の民が祈っても主がなかなか聞きあげてくださらないように見える、といって、すぐにさじを投げるわけにはいきません。むしろ、どんな状況の中でも主を信じて祈り礼拝する民がいたことを聖書は教えています。私たちもその民の中に加えられています。そしてモーセ時代よりも、はっきりと「霊と真理による礼拝」を示してくださったメシア=キリストが示されているのですから、聖霊により頼んで信仰に踏みとどまり、礼拝を続ける民として、今週も歩みを続けましょう。

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