「真の神が救ってくださる」2020.3.29
 ダニエル書 3章1~18節

 旧約聖書には、実に様々な種類の文学書が含まれています。このダニエル書は、特に大変引き付けられる、印象深い内容を持つ書物と言えるかもしれません。聖書物語の本でも取り上げられやすい物語があります。教会学校でも子どもたちへのお話としてなじみのあるものです。

1.ダニエル書の重要性と背景
ダニエル、とは「神は裁く」、あるいは「神はわが審判」というような意味があります。紀元前6世紀、イスラエルの国がバビロン帝国によって侵略され、エルサレム神殿は破壊され、町は廃墟となってしまいます。国の主だった人たちは捕囚として連れ去られてしまいました。ダニエルとその友人たち合わせて4人もバビロンへ連れて来られました。彼らは少年でしたが、優れた能力をもっていたので、バビロンで教育を施され、やがて王のもとで仕えるようになっていきました。バビロンでは、偶像の神々が拝まれていましたので、彼らは異教徒に囲まれて生活していました。そうなれば当然、信仰の戦いが生じてきます。
このダニエル書は、その中のダニエルを中心に話が進みます。この書物は、旧約聖書の中でも次の二つの点で大変際立って重要な面があります。一つは、神に油を注がれた方、つまりメシア=キリストが到来されることを告げていること(9章25節)。もう一つは、死者の復活について語っていることです(12章1~3節)。この二つのことを旧約聖書の中でも特に明確に語っている書物です。そういう書物ですから、今日の私たちクリスチャンにとって大変重要であります。
ダニエル書は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルに続く四大預言書として数えられることがあります。しかし、イスラエルの歴史の中では、ダニエル書は預言書ではなくて、諸々の書物、というくくりの中に入れられてきました。私たちの今日の聖書では、先ほどの三つの大預言書の次に置かれていますが、イスラエルの人々が読んできたヘブライ語の聖書では、ダニエル書は諸々の書物の中のしかも最後の方に置かれています。読むとわかりますように、不思議な現象が起こって、それによって神が御心を示される、という形で話が進みます。

2.異教徒たちの中で
今日の朗読箇所である3章では、中心人物であるダニエルが登場しないのですが、バビロンにおいて、王が金の像を拝めという命令をくだしました。それに逆らう者は燃え盛る炉に投げ入れる、という罰則つきです。この像は高さ60アンマ、幅は6アンマとありますが、高さ約27メートル、幅約2.7メートルです。尾張旭市でいうと、城山公園のスカイワードあさひの半分もない高さですが、平野に立てられたのですから、この時代であれば、相当遠くからでも見えたでしょう。各種の笛や事の奏でる音楽が聞こえてきたならば、その像の前にひれ伏して拝めという命令が下されたのでした。
ダニエルの友人たちである、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は、真の神を信じておりましたので、笛や事の音が聞こえてきても金の像を拝みはしませんでした。この3人の名前は、もともとはイスラエル人としての名前を持っておりましたが、バビロンで新たな名前を与えられていました。名前を変えさせられる、ということは、征服された側にとっては屈辱であり、相手の力によって征服されたこと思い知らされるものです。かつて日本が朝鮮の人々に対してしたことと同じです。歴史の中で、イスラエルの人々は真の神によって導かれてきたのですが、歴代の王たちの不信仰のゆえに神の裁きがくだり、バビロンによってその屈辱を味わわされていたのでした。
しかし、彼らは、その信仰においては征服されていませんでした。どんなに強大な国家権力をもってしても、神の民の心を征服することはできないのです。彼らは、自分たちの名前を変えられて、バビロン式の名前で呼ばれていましたが、それは甘んじて受けていたのでしょう。バビロンの人々がそう呼ぶ以上は仕方がなかったでしょう。しかし、彼らは、金の像を拝めと命じられてもそれを受け入れることはしませんでしたし、できませんでした。真の神を知らされ、その神が自分たちをどのような境遇に置かれたとしても、人が手で造った神を拝むことはしなかったのでした。神を信じない人の目から見れば、そもそも彼らがバビロンに連れて来られて、異教の偶像への信仰に囲まれているような環境に入れられているのに、それに対して何もしないのか、できないのか、そういう神でもなぜ信じているのか、という疑問が起こってくるのかもしれません。実はダニエルがこのことについてどう考えていたかは、9章にあるダニエルの祈りを見るとわかります。なぜイスラエルがこのような状態にあるのか。それはほかでもないイスラエルが神に対して犯した罪のためだ、と祈っているのです。ほかの3人の友人たちがどのように思っているかは書かれていませんけれども、彼らとてダニエルと同じように考えていたことでしょう。自分たちの罪のゆえにイスラエルに対する神の裁きが下っているのだけれども、なお、その神を信じることはやめずにむしろ神の憐れみを祈り求め、助けを信じているのです。

3.神は必ず救ってくださる
さて、バビロンの王ネブカドネツァルの前に引き出された3人は、神に対する信仰の確信をもって、たとえ自分たちが燃え盛る炉の中に投げ込まれることになったとしても、自分たちの仕える神は必ず救ってくださると信じています。そして、「そうでなくとも」拝むことは決してしない、とも言っています。この「そうでなくとも」は、自分たちの仕える神は、もしかすると自分たちを助ける力がないかも知れないということではありません。神には助ける力があるけれども、神がその御心において自分たちを燃え盛る炉から助け出すことをされないとしても、という意味です。
  主イエスも言われたことがあります。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を畏れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい」(ルカによる福音書12章4、5節)。たとえ主を信じる者でも、この世の人々の力で死に追いやられることがあるわけです。実際、多くの人々が殉教してきました。神はそのような過酷な状況に置かれて今にも殺されようとしている信徒たちを、天から御使いを送って助け出すという奇跡的なことを通常は行われませんでした。
このダニエルの友人たちは、19節以下を見ればわかりますが、燃え盛る炉の中に投げ込まれたにも拘らず、神の御力によって守られ、何の害も受けませんでした。これは大変な奇跡です。神がこの3人を直接守られたのでした。それでも、私たちが目に止めたいのは、たとえ神がこの場で救ってくれないとしても、金の像は拝まないと彼らが言った点です。彼らは必ず救ってくださると信じていました。ここでの救いは燃え盛る炉やバビロンの王の手から救われる、つまり助け出されることでした。しかし、救いというものを突き詰めて考えるならば、最後的に神のもとで生きることを許されるか否か、ということになります。どんなに罪深い者でも、真実に悔い改めて神に立ち帰る人には神による罪の赦しが与えられ、救いに与ることができます。この世に起こる災厄から救い出すことができるだけではなく、永遠に魂を救うことができる。その神こそ真の神であられます。そして、神は御自身を信じる者に、この世では限られた時間を与え、その時間の中で神がよしとされる限りこの世に生かしてくださいます。だから私たちはこの世に生きていて、自分の寿命がいつ終わりを告げるかを恐れるのではなく、正しい審判者である神の前で罪を取り除いていただいて、恐れなく生きそして死に、神のもとに安らうことができるように求めるのです。
そして私たちの救い主である主イエス・キリストは、私たちの罪を取り除き、そうすることによって、私たちの死に対する恐れをも取り除くために来てくださいました。私たちが、もし自分の正しさによって救いを獲得しようとするなら、それは不安と心配の中で生き続ける一生となるでしょう。しかし、神の前で、罪について一点の曇りもない聖なる方、神の御子キリストにより頼むならば、必ず魂の救いをくださるのです。先ほど主イエスの御言葉を引用しました。私たちの魂を地獄に投げ込む権威をもっている方を恐れなさい、と。しかしその後で主イエスは言っておられます。あなた方のことを神はお忘れにならないから恐れるな、と(ルカによる福音書12章6、7節)。そしてこれは主イエスが友人である弟子たちに言われたことです。主イエスを信じ従う者は主イエスの友人と言っていただける。だから主イエスを信じる者は、地獄に投げ込む権威のある方をも恐れる必要がないのであります。  ですから、この世で主を信じる人の姿は、先ほどのダニエルの友人たちの言葉にゆきつきます。神は必ず救ってくださる。たとえこの世で困難な状況に置かれ、そこで生涯を終えるかもしれない。しかし、必ず神は救ってくださいます。その救いを、この世のどんな権力者も、自然災害も、未知のウイルスも、決して妨げることはできません。

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