「神の独り子を信じる者は永遠の命を得る」2020.2.2
ヨハネによる福音書 3章13~21節

今日の朗読箇所には、聖書の教えの最も肝心なところが端的な言葉で示されています。私たちが神によって救っていただける根拠はどこにあるのか。そして、なぜ神は私たちを救ってくださるのか。そして救いの目的は何か。これらのことが3章16節の一節の中に示されています。極端な言い方をすれば、聖書の他の箇所は、ここで教えられていることをさらに詳しくかみ砕き、歴史的・地理的な面も視野に入れつつ、説き聞かせているということすらできます。

1.人の子は上げられなければならない
14節、15節には、旧約聖書民数記21章にある、モーセの時のことが記されています。罪を犯したイスラエルの人々に対する罰として炎の蛇が送られ、それに咬まれたものが竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぐと命が助かった、という出来事です。同様に人の子イエスも十字架に上げられ、それを仰ぎ見る人は罪を赦され、永遠の命を得られます。そしてこのことは、「上げられねばならない」とある通り、イエスが十字架に上げられるのは、どうしても必要なことだったからです。私たちの罪を神が赦してくださるためには、どうしても神の御子イエス・キリストが十字架にかからなければならない。ほかの手段ではどうにもならない、というのが私たちの罪の赦しです。
イエスが十字架に上げられることは、神の御心によって実現したことでした。イエスがユダの裏切りによって捕らえられ、ローマ帝国の裁判を受けて、有罪判決を受け、そして十字架につけられた、一連の出来事はたまたま起こったことではありません。すべては神の御計画のもとに一つ一つのことが実現していったのです。
しかし、忘れてはならないことがあります。イエスは十字架に上げられねばならない、と言われてはいますが、それは神がどうしてもしなければならないこと、神に義務付けられていることではありませんでした。神は確かに人間を創造され、エデンの園に住まわせ、全ての良いものを与えてくださいました。しかし同時に善悪の知識の木をエデンの園に上、それを食べたなら必ず死ぬ、ということも神がお定めになったことです。人間にはただ戒めを与えて、食べることを禁じられました。自分の意志で神の戒めを守るようにとなさったのです。最初の人アダムとエバはその戒めをあえて破り、神に背いてしまいました。人間は神の期待に応えず、神の意に沿った行動を貫くことができませんでした。
神は、人間がそのようにして罪を犯してしまう可能性のある者として人間をお造りになったのは確かなことです。そして、最初に罪を犯したのはアダムとエバでしたが、その後にこの世に生まれてくるすべての人間が、その罪を担って生まれてきたのでした。
しかし、私たち人間はその責任を神に押し付けることはできません。背いたのはやはり人間であり、アダムとエバだけではなく、私たちすべてのものが神に背いてしまい、神に逆らう者となってしまったからです。ですから、人間の犯した罪の償いは、人間自らがなさなければなりません。その罪の結果として神の前に死ぬこととなったのが私たち人間なのです。この場合の死ぬとは、単に生物学的に死ぬことだけではなく、神との親しいつながりを失う、という意味での死でした。これを霊的な死、と言います。これが罪を犯した人間に対する神の報いでした。その報いの重要な点は、神との交わりを失ってしまうこと、そして自力ではもはやその神との関係を回復することが人間にはできない、という点にあります。

  2.神は独り子をお与えになったほどに世を愛
   これが、人間の置かれた現実であります。人間の側からはもうどうしようもないのです。しかし神はそのままにしておくことを望まれませんでした。神に背いた人間なのに、そのまま神の前に死んで、滅びてしまうことを望まれなかったのです。神がそもそも人間を造られたのは何のためだったのでしょうか。それはそのことを通して、神の栄光が現されるためでした。人間の創造に限らず、すべてのものの創造は神の栄光を現すためのものです。しかし特に、神に似せて造られた人間には人格があり、神と言葉を介して通じることができるようにされました。神は特に人間に対して、神に向かい合う者となるべくお造りになったのです。神は人間の内に、ご自分の形を認めておられます。その人間を、神は愛してくださったのです。
 そして、そのためには、最も大事なものを代わりに差し出す、ということさえも厭われませんでした。それが愛する独り子である神の御子キリストをこの世に人として遣わす、と言うことだったのです。「世」というのは世間一般とか世界という漠然としたものではなくて、この世に生きている、生まれながらの人間のことです。神が「世」を愛されるその愛の大きさは、愛する独り子であるイエス・キリストをこの世にお与えになるほどであったのでした。この場合の「与える」とは十字架で、「世」の罪のための贖いとして献げることを指しています。それほどに「世」を愛された、というのです。先ほど「生まれながらの人間」と言いました。この世に生まれて、回心していない状態、罪深い状態の人間です。神の戒めを立派に守っている信仰深い人間ではなく、まだ神を知らず、信じず、従いもしていない「世」を愛されたのです。私たちはこのことをよくよく知らねばなりません。これを知らずして神の愛を語ることはできません。

  3.独り子を信じる者は一人も滅びず永遠の命を得る
そして、この独り子なる方、つまり神の唯一の御子であるイエス・キリストを信じる者に、永遠の命を得させてくださいます。しかも、信じる者が一人も滅びることなく、です。ただひとりの例外もありません。どれほど罪深い者であっても、独り子なる神を信じるなら、滅びを免れ、永遠の命をいただくことができます。
なぜ、神はこれほどまでに罪深い者を愛されるのか、という点をもう一度考えましょう。それは、神御自身の形に似せて造られた私たち人間が、神と向かい合い、神の栄光を現すためだという趣旨のことをお話ししました。人が神との親しい交わりを持つことを神御自身が喜ばれ、人との人格的結びつきを望んでおられるからです。罪を赦されて永遠の命を得た人間が、永遠に生きて喜び楽しくしているのを、ただ傍から見て喜ばれるだけではないということです。
こんな小さな存在である私たち人間との人格的交わりを神が喜ばれる、ということは本当に驚くべきことです。このことを知って、独り子を信じ、神に立ち帰る者は、実は神に導かれていたのだ、ということが21節で明らかにされています。私たちがもし、神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を持っているなら、それは神に導かれてきたからです。「真理を行う」とは「光の方に来る」ということです。光とは神御自身のこと、その独り子であるイエス・キリストのことです。「その行い」とは独り子を信じて、光なる神のもとに立ち帰る、ということです。私たちが生まれながらの罪を持ちながらも、たまたま行った善いわざのあれこれのことではありません。そんなものは、私たちの罪を償い、罪の裁きを免れるのには役に立ちません。私たちの罪の贖いは、正しく聖なる方、罪のない神の独り子の十字架の贖いによってでなければなし得ないことだからです。この、神の独り子であるイエス・キリストを信じて、自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち帰る人は、既に神に導かれているのであり、永遠の命をいただいているのです。

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