「キリストの教会として成長する」2020.1.26
 エフェソの信徒への手紙 2章11~22節

 昨年の教会標語聖句は、19節と20節の前半でした。そこでは、私たちが神の家族である、ということに焦点が当てられていました。神によって選び出され、キリストのもとに神の家族とされていることに目を留めました。

1.教会のかなめ石はキリスト
 使徒パウロは、エフェソの教会の人々に対して、あなたがたは神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています、と書きました。教会を建物にたとえると、土台は使徒や預言者たちの教え、神の御言葉の真理です。決して使徒や預言者たちという一人一人の人間が土台であるわけではありません。いくら使徒や預言者でも、個人としては人間であり、その一人一人が土台とはなりえないのです。ですから、使徒や預言者たちの教えにある、ということです。パウロは、別の所では、自分を建築家にたとえて、イエス・キリストという土台を据えた、と言っています(Ⅰコリント3章10節)。このエフェソ書では、角度を変えて、使徒であるパウロ自身も受けた神の御言葉の真理について語っているのです。
 ではキリストは何かというと、建物のかなめ石です。かなめ石とは、石で積み上げられる建物において、両側から壁が積み上げられていきますが、その天辺は、両側からアーチ型に組み上げられたものがぶつかることになります。その中心に最後に置かれることで初めて安定するわけです。つまり一番高い所に収まっているかしら石です。キリストはそのように譬えられます。
教会のかなめ石はキリストである。このことには、二つの意味があります。かなめ石は、かしらの位置にありますから、体である部分、つまり教会における信徒たちは、キリストに当然従い、服従します。キリストの御言葉に聞き、その導きと恵みに信頼して歩みます。そしてもう一つのことは、体である信徒一人一人は、かしらとしておられるキリストを仰いでそのかしらに向かって成長してゆきます。キリストは信徒たちの命の源であるとともに、信徒たちが向かってゆくべきお方です。

2.キリストにおいて組み合わされる
そのようにされている信徒たちは、建物にたとえれば、全体が組み合わされているのです。建物は、いろいろな部分からなっています。土台、柱、壁、屋根、入り口、窓、各部屋、など。それらは一人の建築主、設計者によって統一あるものとして建てられてゆきます。一人の建築主、一人の設計者ですから、その全体は統一がとれており、住むのに適したものとされています。建てる建物は、ただ外観の美しさを誇るために建てるのではなくて、そこに住むことが目的ですから、居心地も良くなければならないでしょう。そしてその設計者は神であり、建築主はキリストであり、一人一人の信徒はかしらでもあられるキリストに従って家を建てるのに用いられ、かしらに向かって成長する、という仕方で組み合わされます。
この教会という建物は、信徒たちによって構成されており、かしらはキリストですが、その構成員であり、かしらに向かって成長する一人一人の内には、キリストの父なる神と、キリスト御自身が共に住む、とまで言われています。ヨハネによる福音書一四章で、主イエスは御自身の父なる神の家には住むところがたくさんある、と言っておられます(2節)。それは単純に天の国のことを指しています。そして一四章のもっと後の方で、主イエスを愛する人のことについて述べています。そして次のように言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(14章23節)。 そういう一人一人が組み合わされているのが教会です。ここに二つのことが明らかになります。一つには、教会は、ただ罪深い者たちが、かしらなるキリストのもとに集められたというだけではなくて、集められている者たち一人一人の内にも、父なる神と神の御子キリストが住んでおられる、というのです。もう一つのことは、では一人一人の内に父なる神とキリストが住んでおられるのなら、もうそれで一人一人がそれぞれに暮らして入ればそれでよいではないか、ということではなく、その一人一人が見える形でも集められて一つの建物として組み合わされていくということです。ここで言う「集められて」とは、端的に言えばこのように一つの場所に集められて礼拝をする民とされることですが、しかし必ずしも目に見える形で一つの場所に集合して礼拝している、というだけではありません。目に見える形では集合していなくとも、建物の中には組み入れられているのです。その点は忘れてはなりません。
ついでに言っておきますと、父なる神と神の御子キリストが信徒たちの内に共に住んでくださる、と主イエスはヨハネ福音書14章23節で言われましたが、では三位一体における聖霊なる神はどうなのでしょうか。実は主イエスは14章の17節で聖霊は「あなたがたと共におり、これからもあなた方の内にいるからである」と言っておられました。つまり、私たちの信じる三位一体の神様は、驚くべきことに私たち信じる者の内に共におられるということです。イエスを救い主と信じる者は、実はそのような光栄を与えられていることを知らなければなりません。目に見える教会とは、そういう者たちの集まりであるのです。

3.キリストの教会として成長する
エフェソの信徒への手紙でも、実は同じようなことが言われています。教会という建物全体は、主における聖なる神殿となり、聖霊の働きによって神の住まいとなるのです。ただ、ここでは、一人一人のことよりも、信徒たちの集まりという面に焦点が当てられています。主イエスを信じる者たちが共に建てられ、組み合わされたものが神の住まいとなるのです。
その際、集められる者たちは、主イエス・キリストという建築主によって集められ、組み合わされることを忘れないようにしましょう。信じた者たちがあちらこちらから集まってきて、では教会という建物を建てましょう、と言っているのではなくて、かしらなる方が集めて組み合わされます。設計者、建築主は神とキリストであり、どんな家を建てるかは、建築主の意図によっているのです。どんなに高価な建築資材でも、建築主と設計者が、その資材を用いようとしなければ決して建物には組み込まれないように、人の集まりとしての教会という建物も、建築主でありかしらであるキリストの意図が先にあることを覚えましょう。
そして教会という建物は、文字通りの家などとは違って、組み合わされた建物全体が成長してゆくと言われています。それは信徒一人一人が成長し、組み合わされたものとしても成長してゆくことです。信徒一人一人は、最初は自分の魂の救いを求め、魂の平安や安心を求め、まずは自分自身の救いに思いを集中させます。自分の魂の救いについては正面から取り組んでいないのに、他人の救いのことを最初から考えているということはないはずです。それは当然のことです。しかし、信じて信仰生活を送っていくと、段々と他者の救いについても自分の救いと同じように考えるようになってきます。それは大事な成長の一面です。子供が自分だけでおもちゃを独り占めせず、皆で分け合って遊ぶようになるとか、一緒に遊ぶことを覚えていくのと同じです。
そして、信仰の体力のようなものもついてきます。それは必ずしもいつでも元気溌溂としていて、体も健康である、ということではなく、キリストの教会に組み合わされていることを感謝し、その立場をよく悟り、自分の置かれた位置をよく弁えるようにもなることです。そして常に感謝が伴うようになる。さらに、自分が組み合わされている教会に対する責任感も養われてゆきます。教会は、魂の平安をもたらすべき所であることは言うまでもありません。教会でいつもいがみ合ったり、意見の衝突の結果、分派ができて対立してしたりして、そこにいる人が疲弊してしまうのでは教会としての真の姿から遠いと言えます。教会の礼拝に来て、魂の平安を与えられ、そしてまた自分の生活に帰っていければそれでよい、という考えもあります。しかし、集まってくる人が皆そう思っていたらどうでしょうか。実際、昔そういう考えに立って教会生活を続け、責任ある立場には就きたくない、ただ礼拝で出て帰るだけにしたい、という方の話を聞いたことがありました。いろいろな弱さのためにそれしかできないという方がおられることも事実です。それは認めねばなりませんが、もし全員がそういう思いでいたら、礼拝の準備も奉仕もする人がいなくなってしまいます。やはり教会はこの世にある限りは、信徒たちが集まってくれば自動的にすべてが整うのではなく、キリストに用いられて一人一人がキリストの体である教会としての働きをなしているからこそ、成長もしてゆけるのです。
成長する、とは文字通りの人間の成長という場合、年齢を重ねるにつれて成長しますが、それは同時に衰えに向かって進んでいるということでもあります。個々の教会も年数が経てばその構成員は年を取ります。そこに若い人が加わってこないと皆、年を取るばかり、ということになります。成長とは確かに身長や体重のように確かに数値の上での増加を伴いますが、それだけではないはずです。身長や体重の増加が止まっても、分別が備わり、人を助ける視点を身に着ける。目立たなくても人々を支える働きがあることを知るようになる。教会も同様です。目に見えない所で成長してゆきます。しかし、目に見えないところで成長してきたものは、必ずやその姿が外に現れてきます。それは制度的な面では、長老を立てて自治組織が完備した教会となる、ということにもつながります。それが遠いように見えても、やはりそれは目指すべき道です。そのことは常に視野に入れつつ、制度を整えること自体が目的で教会を設立するのではなく、それがふさわしいから目指すのであり、キリストの教会として成長してゆく中でそれも整えられてゆくことを覚えましょう。そしてお互いを尊ぶことを学び、お互いの内に父なる神と御子キリストと聖霊がおられるのだ、という見方をしましょう。キリストの教会として成長する道へと召されていることを覚え、それを光栄に思い、感謝し、個々の喜ばしい責任をも与えられていることを自覚して、成長に与ってゆけるように祈りましょう。

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