「主の慈しみは決して絶えない」2020.1.19
 哀歌 1章1~33節

 今日は、この哀歌という悲痛に満ちた歌から、神の御言葉を聞こうとしています。この哀歌は、原典のヘブライ語では「エイカー」という題名で、偶然、日本語の哀歌に発音が少々似ています。「エイカー」とは、「ああ、どうして、どこに、なんとまあ」という意味があります。感嘆、疑問を現わしたり、追悼の意を表すときにも用いられます。かつての栄華を思い出しつつ、現在の悲惨な状況を嘆くような気持ちを表現するものです。今日はこの悲惨な状況を歌った「哀歌」という歌集から、神の御心を聞き取りたく願っています。

1.哀歌という書物
哀歌は、エレミヤ書の後に置かれていますが、これはギリシア語訳やラテン語訳の配置で、歴代誌下35章25節に、「エレミヤはヨシヤを悼んで哀歌を作った」という記事があり、エレミヤ書8章18節以下の記述が哀歌に似通っている、という点から来ているものです。しかし、もともとのヘブライ語では、ルツ記、雅歌、コへレトの言葉の次に、そしてエステル記の前に置かれており、諸書という違うまとまりの中に入っています。また、書写についての情報もないということなどから、著者はエレミヤではないのではないか、という説が有力です。時代背景としては、紀元前6世紀の初めの頃に、エルサレムがバビロン帝国によって侵略されて神殿が破壊され、町が荒廃してしまった時、とみられます。そのことを念頭に置いて読むと、なるほど、その悲惨さが良くわかると思います。
この哀歌は、5章に分かれておりますが、新共同訳にあるように第1から第5までの歌に分かれています。第1から第4まではアルファベットによる詩の形になっています。そして内容的には全体にエルサレムの悲惨な状態を嘆いて歌っていますが、それぞれが独立したものになっている、と見られています。エルサレムは、神の都として難攻不落の町である、と信じられてきました。神の都なのだから、我々は守られる、と民は信じてきたのです。しかし、そうではなかった。攻め込まれ陥落しました。町が包囲されて兵糧攻めにあった際には、食糧が絶えた時に、自分の子どもをすら煮炊きして食べてしまったという悲惨な出来事もしるされています(4章10節)。これは庶民の立場から人々の苦しみを語り、その理由をさぐりながらひたすら神の助けを祈り求めています。そしてその中にわずかながら神に対する希望を示している箇所もあります。4章の最後にはエルサレムの悪事が赦される時が来る、と言われています。そして今日の説教題である3章の22節こそ、その最大の希望が現されているところです。

2.申命記の呪いの実現
その希望についてみる前に、申命記との関係に触れておきます。申命記の28章という所には、神の祝福と呪いについて告げられています。神の御声に良く聞き従うならば神の祝福が与えられる。しかし聞き従わないなら様々な呪いが臨むという警告です。そこで与えられる呪いとは、疫病、旱魃、不道徳や乱行の横行、敵による土地の蹂躙、精神的な錯乱、飢えと渇きに悩まされ、木や石で造られた他の神々に仕えるようになり、ついには敵に包囲されて困窮の果てに自分の子どもをさえ食べるようになる、と言われています。28章全体を通して読むのがつらくなるほどではないでしょうか。
ついでに言うならばここでの祝福と呪いについての予告は、祝福に関するものよりも、呪いに関するものの方がはるかに多いのです。主の祝福がいただける、というのは、もうそれだけで十分なのです。しかし、主の呪いを受けるということが、いかに悲惨なものであるかを、これでもか、と言わんばかりに民に教えているのではないでしょうか。だから神に聞き従いなさい、と非常に強く命じているわけです。この申命記28章を読んでから、哀歌を読むと、実に申命記の呪いが実現していると言わざるを得ないのです。また、神がこのように厳しく警告しているということは、民が、神に聞き従わないという状況にいかに陥りやすいかを神は良くご存じだからではないでしょうか。イスラエルの人々は、この時よりも何百年も前からカナンの地で定住生活を始めてきましたが、周りの異民族の影響を次第次第に受けてきます。そしてその民が行っている偶像礼拝の罪を重ねていくようになるのです。神を目に見えるものとして形造り、それを拝むようになる。形を作る、ということは分かりやすく有難みがあるのでしょうが、人間にとって容易に偶像礼拝への誘惑となります。

3.主の慈しみにのみ希望がある
これらのことを踏まえて哀歌3章をみてまいります。3章もアルファベットによる詩です。3節ずつ区切ってありますが原典ヘブライ語の聖書の印刷もそのようになっています。1から3節までが英語で言えばAに当る文字で始まります。そして4~6節はBに当る文字ですべて始まっています。そうやって行の初めに三つも同じ文字を織り込んで歌を作っているのです。ヘブライ語のアルファベットは、22文字ですから、かける3で66節まであるわけです。他の1、2、4章は一節ずつの冒頭の文字がアルファベットの織り込みになっていますから22節までです。
さて皆さんが悲痛な思いを歌に書くとしたら、このように技巧的な歌を作るでしょうか。いろは歌に織り込んでゆくような余裕はないのではないでしょうか。このように技巧が施されているということは、確かに作者の詩作の才能を示すものでもありますが、後の人が覚えやすい、という面もあります。ですから、この3章でも、66節が思想的に順に流れを追っていくようなものにはなっていないようです。作者は精神的にも肉体的にも大きな苦しみを味わったことがわかります。魂は平和を失い、幸福を忘れたと言い、苦渋と欠乏の中で貧しくさすらったのでした。そして明らかに過去を振り返っているからこそ、このようにいろは歌にすることもできたのでしょう。
作者は、主の慈しみにあくまでも望みを置きます。なぜなら、主がご自分の民を苦しみの中に置き、悩ますことがあっても、それが御心なのではない、と言われているからです(33節)。これは実に大いなる慰めを私たちにもたらすものです。そして、忘れてならないのは、この作者の心の持ち方です。神を知らず、信じず、より頼んでいない人の場合、神のなさることに納得がいなかいと文句を言い、不平を言い、ついには神がそのようなことをなさる、あるいは赦しておられるのはおかしい、そういう神には従いたくない、という態度に陥りやすいのです。しかし、一度主なる神の慈しみ深さを知った者は、今どれだけ困難な状況にあったとしても、その魂の奥深い所において、「主こそ私の神である」という信仰にあくまでも立とうとします。それは神のなさることがすべて納得がいくとか、全てのことの理由がわかるからではありません。ただ、信頼して待ち続ける者に、必ず救いを賜る方であると信じているのです(25~27節)。災いも幸いも、全ては神の御命令のもとでなければ起こりえないからです(38節)。
災いが降りかかることもあり、懲らしめを受けることすらある。しかしそこから救うことを考えておられ、それを実行してくださいます。その時、当座は苦しいかもしれませんが、それを避けて立ち去るのではなく、くびきや懲らしめを味わえ、と言われています(30節)。これは使徒パウロが言っていることと食い違うのでしょうか。神は試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださる、と言われています(Ⅰコリント10章13節)。これは実は同じことを言っています。神は試練を来させないようにするとは言われていません。試練は来ます。来ますがそれに耐えられるようにしてくださる。試練と見たらすぐにそこからの逃げ道があるというわけではないのです。どれだけの期間か、どれだけの重さかはわからないけれども、耐えて逃れることができるのです。しばしそこに留まっていなければならないとしても、主の慈しみは必ず注がれる。もうそこで慈しみを施すのは御仕舞い、ということはないでのす。
確かに聖書では、神の怒りが示されます。しかしそれは、神がいかに私たちを愛し、私たちが罪から救われることをどれだけ望んでいるか、ということの裏返しです。そしてもはや、神の怒りは神の御子キリストの十字架の上に注がれました。キリストが神の怒りを受けてくださいました。私たちは、キリストに寄り縋るなら神の怒りを免れています。そして主の慈しみが絶えないこと、憐れみは尽きないことは、もはやキリストの十字架と復活によって証しされました。「主よ、生死にかかわるこの争いを わたしに代わって争い、命を贖ってください」(58節)という悲痛な願いは、キリストによって実現されました。私たちはただキリストにより頼めばよいのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節