「神の霊によって生まれる」2020.1.12
 ヨハネによる福音書 2章23節~3章15節

主イエス・キリストは、神殿で宮きよめをなさいまして、ユダヤ人の指導者たちの反感を買い、それがやがて十字架刑へとつながることとなったのでした。そして、このあと過越祭の間、イエスはエルサレムにおられたのですが、イエスのなさったしるし(奇跡)を見て多くの人が信じました。しかしヨハネは、人々を信用されなかった、と書いています。ということは、この時に信じた人々は、あくまでもしるしを見て、イエスの力を見てそれに圧倒されて信じたにすぎないということでした。イエスはそのような人々をあてにしたり、信頼したり、自分を任せたり、そういうことはしなかったということです。

1.イエスは人の心の中を知っておられる
なぜ主イエスが人に自分を任せなかったかというと、人間の心の中にあることをイエスは知っておられたからでした。このことは、単純に言うと、イエスはそこにいた人々が何を考えていたかを見抜いておられた、ということがまず考えられます。また、ここでは主イエスは、すべての人間の心の内に罪があって、それによって汚されているから、人々のことを当てにはしない、ということだ、とも考えられます。それも当然ありますが、ここでは、イエスは神の御子として、そこに居合わせてイエスのことを表面的に信じただけの人について、真に主イエスに従う者となったというわけではないことを見抜いておられた、という点が強調されているのだろうと思います。
 ですから、人間について、誰からも証ししてもらう必要がなかったのでした。つまり、この人の言うことは真実、あの人の言うことはそうではない、というようにいちいち人間の判断や証言を人から聞かせてもらわなくても、イエスは人の心の内を見ることができる、ということです。それに対して私たちは、人の言葉と行いを通してその人がどういう考えを持っているかを始めて知ります。人の心の内を見透かすことはできません。このことを心に留めつつ、次の第3章でのニコデモとのやりとりをよく見てゆきたいと思います。

  2.人は新しく生まれなければならない
 ファリサイ派に属するニコデモというユダヤ人の指導者が、夜、イエスのもとにやってきました。恐らく、あまり人目につかない時間帯を選んだのであろう、と言われています。ユダヤ人の中でも律法を守ることにおいて厳格な人たちであるファリサイ派に属していましたから、イエスの話を聞きに来た、というようなことをあまり人に知られたくなかったのでしょう。それでも彼は、イエスが神から来られた方に違いないと確信していました。そして神が共におられるはずだ、と考えたのでした。
 ところが、それを聞いた主イエスの言われたことは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というものでした(3節)。神の国を見る、とは神の国に入る、ということです。神の国とは、この世の諸々の国々とは違って、神自らが王となって治められる国ですから、それは、今は肉眼で見ることはできません。しかし、イエスはこの世にその神の国をもたらすために来られた方でした。つまりイエスにとっては、神の国を見る、ということはご自分の存在目的そのものに関わることでもあるのです。つまり主イエスは、わざわざ夜、暗くなってからやってきたユダヤ人の議員であるニコデモに対して、人間にとって最も大事な問題に目を向けさせたのです。そしてそれはイエスにとっても非常に大事な問題でありました。
 しかしニコデモは、新たに生まれる、ということを文字通りにしか考えることができません。年を取った者が再び母親の胎内に入って生まれること等できるはずがない、という考えです。ニコデモはイエスのことを神から来られた方に違いない、と見抜くことはできたのに、「新たに生まれる」という言葉を自由な発想で捕らえることができませんでした。このようなニコデモに対して、主イエスは三つのことを言われました。「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」、これが一つです。「霊」はもちろん神の霊であり、神によらねば誰も新しく生まれることも神の国に入ることもできません。しかしこの「水」については何を指しているのか、議論のあるところです。清めの水、についてはユダヤ人も知らないわけではありません。クリスチャンにとっては洗礼式の水が思い出されることでしょう。とにかく水は何かを洗い清めるためには欠かすことができません。そういう意味で、私たち人間の罪を洗い清めなければならない、ということを象徴的に言われたものではないかと考えられます。

  3.霊から生まれた者
そして二つ目は、「肉から生まれた者は肉、霊から生まれた者は霊」ということです。これは、肉と霊、この二つは非常に対照的なものであり、性質の違う相容れないものであることを指しています。肉とは生まれながらの人間を指し、霊とは神の霊、つまり聖霊です。そしてその神の霊から生まれた者も霊だ、と言われます。二番目の霊は、霊的な存在となること、つまり神とのつながりを持つことのできる者となる、という意味です。それは、母親の胎内に再び入って生まれ直すというようなことで実現するのではない。神が、私たちを新しく生まれさせてくださることによってしかなし得ないことです。人が懸命に修行を積み、善行もたくさん行って、修練を繰り返し、努力と研鑽を積むことで勝ち取れるというようなものではないのです。人間の力の及ばないことである、と認めねばなりません。しかし、霊から生まれる者は必ずいる。それは、風は目には見えないけれども確かにそこに吹いているのがわかるように、霊から生まれる者も、確かにそこにいることは分かる、というのです。これはこの世の科学で実証できるようなものではないと言えましょう。イエスを神の御子、救い主と信じ、イエスによって神と親しい交わりを与えられ神の子どもとされる人が霊から生まれた者です。そういう人の血圧や、血中濃度を測り、脳波を測ったら、信じていない人と数値が違う、とか体の中に新しい成分が生じる、ということではないでしょう。それでもその人の内に神の霊が働いているのはわかるのです。
三つめは、イエスは天から下ってきて天のことを語っている、ということでした。ここで言う「天から」とは神のもとから、というのと同じです。人の住むこの世、地上の世界とは違う、神のおられるところです。それに対してイエスが地上のことを話している、とは、イエスが話されることは日常人々が使う言語で、人々にわかる題材で話されるということです。普段からイエスはそのような話をされたからです。羊飼いの譬えとか、御自身を命のパンであるということ等もそうですが、つまりこの世で人が普通に使う言葉と題材で神の国のことを話している、ということです。そうでなければ人は理解できません。ところがそれすらも信じないのならどうして天のこと、すなわち神を理解できようか、というのです。 そして天に昇った者は、イエスしかいないとまで言われます。天に上るというと私たちは上に向かって、雲の上にでも上がっていくような印象を抱きます。しかしここでイエスが言われるのは、天におられる神との親しい交わりの内にいた者は、御自身しかいない、という非常に大胆なことを言っているのです。この地上に人として生活していきているけれども、イエスただお一人が神との親しい交わりの内に生きておられるのです。もちろん、イエスが神の御子であられるからです。こういう方はほかには誰一人おりません。そしてこの方が、上げられなければならない。それは十字架にかけられることを指しています。民数記21章に、モーセが荒れ野で蛇を上げた、という話があります。神が人々の罪を厳しく裁かれた際、炎の蛇を神が送り、人々の中から多くの死者が出ました。そこでモーセが神に祈ると、炎の蛇を青銅で造るように神は命じられ、モーセがその通りに造って竿の上に掲げ、その蛇を人々が仰ぐと命が助かった、という出来事です。それと同じように、イエスも高く上げられることになるのです。そのイエスを人々が仰ぎ、イエスを信じるなら永遠の命を得られるというのです。永遠の命を得られるのは、神の霊によって新しく生まれた人です。新しく生まれた人はイエスを仰ぎ見て信じた人で、永遠の命をいただける人です。
新しく生まれるにはどうしたらよいのか、と考える人、それをいただきたいと願う人は神の国にすでに近づいています。イエスに近づく人は、神の国に近づいています。イエスの言われることをすべて算数の答えがわかったようにわかる、というのでなくても、イエスにより頼んで永遠の命をもらいたい、神の国に入りたい、神に近づきたい、天に行きたい、天国に入れていただきたい、と願う人はもう神の国の入り口に来ています。天上のことを話し、私たちを新しく生まれさせてくださるイエスを信じることは難しいことではありません。天から降ってきた方、天に上った唯一の方であるイエス・キリストにより頼めば、誰でも新しく生まれ、神の国の一員としていただけて、神の子どもとしていただけるのです。なぜなら、救い主イエスは、御自身で私たちの罪をその身に担って十字架につけられ、罪を償って取り除いてくださったからです。その罪の赦しをいただいて生きて行けることは、私たちにとって最も幸いなことなのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節