「死を恐れずに生きる」2019.11.24
ヨハネによる福音書 11章17~27節
「あなたは死ぬのが恐いですか」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。死を恐れることは、ある意味で自然なことなのかもしれません。恐れる、というだけでなく、不安である。つまり、死後どうなるのか、という心配です。私たち人間が死を恐れたり不安に思ったりするのは、一つには死が未知のものであること。二つには、死後、何かが待っているのではないか。天国に行けるのならいいが、地獄と呼ばれるようなところがもしあって、そこに投げ込まれるとしたら、恐ろしい。ということが言えると思います。それを信じないとしても、死んでしまったら、もう何も意識することもなくなって、自分という存在がなくなってしまうのではないか。それについての虚しさや侘しさを感じる、ということもあるかもしれません。自分という存在が消滅してしまう。その恐ろしさを感じる、ということもあるのかもしれません。今日は、この点について、神の言葉である聖書が教える所に耳を傾けたいと思います。
1.死を恐れ、それを避けようとする生き物
先ほど、私たち人間が死を恐れる、ということを言いましたが、他の動物でも、やはり死を恐れ、それを免れようとするのは同じだと思います。動物の場合は人間のように道徳的観念がありませんから、死後自分の行いを罰せられることを恐れる、ということはないにしても、生存本能というのでしょうか、それによって、何とか死の危険から逃れようとします。肉食動物につかまった草食動物は、何とか逃れようとしてもがきます。もちろん痛みを感じるからというのもあるでしょうが、生き延びようとする本能が働いているわけです。因みに類人猿は痛みに敏感だそうで、ネコ科の猛獣等と比べると命がけの戦いには弱いそうです。人間は最弱かもしれません。そして人間の場合、単に痛みから逃れようとするだけでなく、死後の世界まで想像し、予測し、思い巡らしますから、恐れは増幅するのかもしれません。
時々新聞の広告欄に週刊誌の見出しが載っていますが、先日、ある週刊誌の企画記事がありました。大きな文字で「死ぬのが怖い人に読んでほしい」という見出しがあり、その脇にいくつかのことが書かれていました。ちょうど今回の礼拝説教に関係するものでした。この世の一般の出版社が出している企画で、このテーマをどのように書いているのか興味がありますが、いろいろと社会的・医学的・精神的な面からの光が当たっているのかもしれません。余命宣告をされる、ということもあります。それに対してどのように対処するか、ということもあるでしょう。いずれにしてもこのテーマは、宗教の側からも、神などを信じない無宗教の立場からも語られるテーマであることがわかります。
2.死からも、この世からも救われる必要がある
しかし、私たちのこの世での生活は毎日いろいろなことがありますから、その日の生活のために仕事や学業など、やらねばならないことに追われていると、死について考えてばかりもいられない、ということになるでしょう。しかし、時々有名人などが突発的な病気や事故のために亡くなったというようなニュースに接すると、わが身を顧みるのです。先日も若い俳優さんが突発的な病気のために亡くなった、というニュースがありました。しかしそれもその時限りのものになりがちです。自分がそうなる確率は低いのではないだろうか、と無意識の内に思っているのかもしれません。そして、死ぬことを心配しているよりも、今日しなければならないことが目の前にありますから、そちらに心が向き、そして忙しく一日を過ごすことになるのです。
しかし、それでも自ら命を絶ってしまう方々が大変多いのは、実に悲しいことです。未知の死の世界に自分を投げ込んでしまいたいほどに、この世で生きていることがつらい、というのは、本当に大変なことでしょう。仮に未知の死に対して恐れを感じるとしても、それでも天秤にかけると、この世を去ってしまう方がよい、と決断してしまうのでしょうか。そう考えますと、私たちは単に死ぬことから救われるだけではなく、未知の死を選んでしまうほどにつらく厳しいこの世からも、救われる必要がある、と言えるのではないでしょうか。そしてどちらに対しても、安心して立ち向かうことができるなら、それが私たちの救いとなるはずです。
3.死を滅ぼしてしまう権威を持つキリスト
死を恐れずに生きる。そしてこの世においても前向きに生きてゆくことができる。そのようにしてもらえるのなら、それは私たちにとって実にありがたいことです。聖書は、神の御子、救い主と呼ばれるイエス・キリストがそれを与えてくれる、と宣言しているのであります。それが先ほど朗読したヨハネによる福音書11章のお話です。イエスは親しくしていたラザロという人が瀕死の病気になっていることを離れた場所で聞き、ラザロのもとに着きましたが、既にラザロが死んでから四日も経っていました。ラザロにはマルタとマリアという姉妹がおり、その一人であるマルタとイエスの交わした言葉が、17節以下に記されております。マルタはイエスが居合わせてくれたら、ラザロはきっと死なずに済んだのに、と言いました。イエスの力で、瀕死の病も直してもらえると信じていたからです。実際、イエスは神の子としての力によって多くの病人を癒しておりました。しかし、死んでしまったのであればもはやイエスでもどうしようもないとマルタは思っていたのでした。けれども、マルタはラザロも自分たちも、死ぬとはしてもこの世の終わりの時に復活をする、ということは信じていたのです。それだけでも大した信仰であります。
そのようなマルタに対して、「わたしは復活であり、命である」とイエスは 言われました。そして、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とも言われました。たとえ肉体の死を迎えたとしても、別の意味で生きる、というのです。ここでは明らかに「死」と「生きる」の意味が普通の意味とは異なっています。単に息が止まり、心臓が止まった、ということとは違うことが言われています。「死」とは心臓が止まり息をしていないということのほかに、意味があります。神との関係が絶たれていることを「霊的な死」と言います。生物としては生きていても、神とのつながりという意味では生きていない。霊的に死んでいる。しかし、神の御子イエスを信じるならば、肉体は死んでも神の前に、神と共に生きることができる。肉体の死は、実はもともと神に対して人間が犯した罪の報いとしての霊的な死によってもたらされました。それゆえ、霊的な死から解放され、霊的な命をいただくならば、たとえ肉体は死んでも生きるのです。そして、今この世で肉体をもって生きている人が、イエスを信じるならば、その人は決して霊的な死の内に留まっていることはない。このようにイエスは言われたのです。そして、この後、それが本当であることを示すために、イエスはラザロを生き返らせました。イエスを信じたなら命がある、霊的な命を与える権威を持っていることを示すために、イエスはラザロを生き返らせました。決して口先だけのことではないことを示すために、霊的な死の結果、肉体の死を迎えてしまったラザロを生き返らせ、イエスには人に命を与える権限があることを明らかにされたのです。ラザロも、この場合は、いずれ寿命が来れば世を去ったはずです。彼はあくまで息を吹き返しただけです。しかし、イエスには人に霊的な命を与える権威があることが証しされました。なぜなら、イエスはこの後十字架にかけられますが、3日目に復活されました。十字架で私たちの罪を担い、死なれましたが、罪のない方でしたので、死に打ち勝って復活されました。そして、もう決して死ぬことのない新しい体を獲得されたのです。
私たちもこのイエスを信じるならば、死に打ち勝つことができます。そして、死に打ち勝ったということは、この世でも前向きに生きられるということです。先ほど、たとえ未知の世界でも、この世がつらければ死を選択する人がいる、ということに触れました。しかし、命の主であるイエス・キリストを信じて、その力により頼むならば、死を恐れなくてよいと共に、この世を生きることに対しても恐れずに進むことができるのです。死に逃げ込まなくても良いこの世の命を生きることができます。それでも私たちは弱い者です。死ぬことにも、生きることにも恐れを感じる、ということがあるかもしれません。しかし、自分の弱さと恐れと不安をすべて認め、すべてイエスの足元に投げ出せばよいのです。自分は頼りなく、弱く、恐れているけれども、イエスが共におられるのですから、イエスに縋り付けばよいのです。イエスのもとに行く人をイエスは決して追い出すことがありません。なんと幸いな、ありがたいことでしょうか。生きることにつらさを覚え、死ぬことにも恐れを覚えている方は、何としてでも、イエス・キリストにより頼む道を見出していただきたいと願っています。イエスを信じて仰ぎ見る者はたとえ死んでも生きるのです。
1.死を恐れ、それを避けようとする生き物
先ほど、私たち人間が死を恐れる、ということを言いましたが、他の動物でも、やはり死を恐れ、それを免れようとするのは同じだと思います。動物の場合は人間のように道徳的観念がありませんから、死後自分の行いを罰せられることを恐れる、ということはないにしても、生存本能というのでしょうか、それによって、何とか死の危険から逃れようとします。肉食動物につかまった草食動物は、何とか逃れようとしてもがきます。もちろん痛みを感じるからというのもあるでしょうが、生き延びようとする本能が働いているわけです。因みに類人猿は痛みに敏感だそうで、ネコ科の猛獣等と比べると命がけの戦いには弱いそうです。人間は最弱かもしれません。そして人間の場合、単に痛みから逃れようとするだけでなく、死後の世界まで想像し、予測し、思い巡らしますから、恐れは増幅するのかもしれません。
時々新聞の広告欄に週刊誌の見出しが載っていますが、先日、ある週刊誌の企画記事がありました。大きな文字で「死ぬのが怖い人に読んでほしい」という見出しがあり、その脇にいくつかのことが書かれていました。ちょうど今回の礼拝説教に関係するものでした。この世の一般の出版社が出している企画で、このテーマをどのように書いているのか興味がありますが、いろいろと社会的・医学的・精神的な面からの光が当たっているのかもしれません。余命宣告をされる、ということもあります。それに対してどのように対処するか、ということもあるでしょう。いずれにしてもこのテーマは、宗教の側からも、神などを信じない無宗教の立場からも語られるテーマであることがわかります。
2.死からも、この世からも救われる必要がある
しかし、私たちのこの世での生活は毎日いろいろなことがありますから、その日の生活のために仕事や学業など、やらねばならないことに追われていると、死について考えてばかりもいられない、ということになるでしょう。しかし、時々有名人などが突発的な病気や事故のために亡くなったというようなニュースに接すると、わが身を顧みるのです。先日も若い俳優さんが突発的な病気のために亡くなった、というニュースがありました。しかしそれもその時限りのものになりがちです。自分がそうなる確率は低いのではないだろうか、と無意識の内に思っているのかもしれません。そして、死ぬことを心配しているよりも、今日しなければならないことが目の前にありますから、そちらに心が向き、そして忙しく一日を過ごすことになるのです。
しかし、それでも自ら命を絶ってしまう方々が大変多いのは、実に悲しいことです。未知の死の世界に自分を投げ込んでしまいたいほどに、この世で生きていることがつらい、というのは、本当に大変なことでしょう。仮に未知の死に対して恐れを感じるとしても、それでも天秤にかけると、この世を去ってしまう方がよい、と決断してしまうのでしょうか。そう考えますと、私たちは単に死ぬことから救われるだけではなく、未知の死を選んでしまうほどにつらく厳しいこの世からも、救われる必要がある、と言えるのではないでしょうか。そしてどちらに対しても、安心して立ち向かうことができるなら、それが私たちの救いとなるはずです。
3.死を滅ぼしてしまう権威を持つキリスト
死を恐れずに生きる。そしてこの世においても前向きに生きてゆくことができる。そのようにしてもらえるのなら、それは私たちにとって実にありがたいことです。聖書は、神の御子、救い主と呼ばれるイエス・キリストがそれを与えてくれる、と宣言しているのであります。それが先ほど朗読したヨハネによる福音書11章のお話です。イエスは親しくしていたラザロという人が瀕死の病気になっていることを離れた場所で聞き、ラザロのもとに着きましたが、既にラザロが死んでから四日も経っていました。ラザロにはマルタとマリアという姉妹がおり、その一人であるマルタとイエスの交わした言葉が、17節以下に記されております。マルタはイエスが居合わせてくれたら、ラザロはきっと死なずに済んだのに、と言いました。イエスの力で、瀕死の病も直してもらえると信じていたからです。実際、イエスは神の子としての力によって多くの病人を癒しておりました。しかし、死んでしまったのであればもはやイエスでもどうしようもないとマルタは思っていたのでした。けれども、マルタはラザロも自分たちも、死ぬとはしてもこの世の終わりの時に復活をする、ということは信じていたのです。それだけでも大した信仰であります。
そのようなマルタに対して、「わたしは復活であり、命である」とイエスは 言われました。そして、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とも言われました。たとえ肉体の死を迎えたとしても、別の意味で生きる、というのです。ここでは明らかに「死」と「生きる」の意味が普通の意味とは異なっています。単に息が止まり、心臓が止まった、ということとは違うことが言われています。「死」とは心臓が止まり息をしていないということのほかに、意味があります。神との関係が絶たれていることを「霊的な死」と言います。生物としては生きていても、神とのつながりという意味では生きていない。霊的に死んでいる。しかし、神の御子イエスを信じるならば、肉体は死んでも神の前に、神と共に生きることができる。肉体の死は、実はもともと神に対して人間が犯した罪の報いとしての霊的な死によってもたらされました。それゆえ、霊的な死から解放され、霊的な命をいただくならば、たとえ肉体は死んでも生きるのです。そして、今この世で肉体をもって生きている人が、イエスを信じるならば、その人は決して霊的な死の内に留まっていることはない。このようにイエスは言われたのです。そして、この後、それが本当であることを示すために、イエスはラザロを生き返らせました。イエスを信じたなら命がある、霊的な命を与える権威を持っていることを示すために、イエスはラザロを生き返らせました。決して口先だけのことではないことを示すために、霊的な死の結果、肉体の死を迎えてしまったラザロを生き返らせ、イエスには人に命を与える権限があることを明らかにされたのです。ラザロも、この場合は、いずれ寿命が来れば世を去ったはずです。彼はあくまで息を吹き返しただけです。しかし、イエスには人に霊的な命を与える権威があることが証しされました。なぜなら、イエスはこの後十字架にかけられますが、3日目に復活されました。十字架で私たちの罪を担い、死なれましたが、罪のない方でしたので、死に打ち勝って復活されました。そして、もう決して死ぬことのない新しい体を獲得されたのです。
私たちもこのイエスを信じるならば、死に打ち勝つことができます。そして、死に打ち勝ったということは、この世でも前向きに生きられるということです。先ほど、たとえ未知の世界でも、この世がつらければ死を選択する人がいる、ということに触れました。しかし、命の主であるイエス・キリストを信じて、その力により頼むならば、死を恐れなくてよいと共に、この世を生きることに対しても恐れずに進むことができるのです。死に逃げ込まなくても良いこの世の命を生きることができます。それでも私たちは弱い者です。死ぬことにも、生きることにも恐れを感じる、ということがあるかもしれません。しかし、自分の弱さと恐れと不安をすべて認め、すべてイエスの足元に投げ出せばよいのです。自分は頼りなく、弱く、恐れているけれども、イエスが共におられるのですから、イエスに縋り付けばよいのです。イエスのもとに行く人をイエスは決して追い出すことがありません。なんと幸いな、ありがたいことでしょうか。生きることにつらさを覚え、死ぬことにも恐れを覚えている方は、何としてでも、イエス・キリストにより頼む道を見出していただきたいと願っています。イエスを信じて仰ぎ見る者はたとえ死んでも生きるのです。
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