「罪を取り除く神の小羊」2019.9.29
 ヨハネによる福音書 1章29~34節

私たちは、今生きているこの世界のことを、「この世」ということがあります。それは「あの世」との対比で語るからでしょう。いずれにしても「世」というのは人がそこに住んでいる場所なり空間なりを言います。今日の朗読箇所で、洗礼者ヨハネが主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この場合の世とは、少なくともあの世のことではありません。ではこの世のことか、というと確かに「あの世」に対する「この世」には違いないのですが、私たちが普段使っている「この世」という意味合いと全く同じかというと、そうでもありません。少し説明が必要です。そしてここで言われている「世」にある「罪」とは何か、という問題も出てきます。そして「神の小羊」とは何か。これらのことを、今日の箇所は私たちに示しています。そしてこれらのことは、今、この世に生きている私たちにとって、とても大事なことを教えております。私たちは、神の小羊に相対するように招かれているのであり、私たちは今、ここにおいてその機会を与えられているのであります。

1.世の罪
先ほど、「この世」についてお話ししましたが、ここで洗礼者ヨハネが言っている「世」とは世間一般とか、この世界のことを言っているのではありません。「世の罪」と言われます。私たちのこの世の生活の中で、何か悪いことが起こったり、誰かが非常に悪質な罪が犯されたりしたとします。すると、罪を犯したその人自身の責任は問われなければなりませんが、同時に、世の中のせいにする、ということがあります。世の中が不公平で、貧富の格差があり、強い者と弱い者がいて、常に弱く貧しい立場の人たちがいます。世の中が悪いから、罪を犯してでも必要なものを手に入れねばならない人たちが出てくる。そういう不公平な、不条理がまかり通っているような世の中が悪いから、犯罪も起こるのだ、ということです。確かに人は、一人ではやらない、あるいはできないようなことを、大勢だとやってしまうということがあります。その最たるものが戦争ではないでしょうか。集団で誰かに暴行を働くというようなことも、大勢だから気が大きくなってやってしまうという面があるのでしょう。1対1なら戦わないのに、3対1なら強気に出て、相手を打ちのめそうとしてしまう。そういう心理が人間の内には確かに働くのだと思います。しかし先ほどの戦争のように、何か抽象的なものがあって、個々人はそんなに悪いわけではないのに、国という単位になると、軍隊を敵国に送り込んで大勢の人を殺してしまう、ということがあります。だから戦争が悪いのだ、ということです。
しかし、決してそこで終わらせることはできません。戦争は、やはり一人ひとりの人間が起こすものです。相手に勝ろうとする心。人よりも自分が良いものを、しかもたくさん手に入れたいとする願望。これが私たち人間の心の奥深い所に常に巣くっているのです。そして、自分の国の民を植えさせないために、国の繁栄のために、人の土地へ土足で入ってゆく。これを繰り返してきたのが人間の歴史でした。その根源にあると言えるもの、それが世の罪です。ここでいう「世」とは世間一般のことではなく、生まれながらの一人一人の人間のことであり、人間の内に生まれながらにある、悪しき性質のことです。一人一人の内に罪があり、そこから欲望が生じ、悪意が生じ、自分の欲望を満たそうとして実行に移します。そうするとそこに人を痛めつけたりする罪が目に見えて現れてきます。今日、一緒に読みましたウェストミンスター小教理問答の問13~15は、まさにそのことを述べている箇所です。
人の心の奥深い所にある罪によって、人の世にある様々な問題が起こってきています。決して一握りの悪事に手を染める人々だけが悪いのではありません。聖書は、人が心の中に思うことは、幼い時から悪い、と言っています(創世記8章21節)。それだから、神は二度と大洪水を起こして人を滅ぼすことはもうしない、と言われたのでした。つまり、人間の心の思いが悪いからと言って何か起こるたびに滅ぼしていたら、人は神の厳しい裁きを受けて、あっという間にこの世から消え去ってしまうことでしょう。しかし、この神のお考えは、人について諦めの気持ちを示しているものではありませんでした。神は遠い将来、このように悪い者である人間の罪を取り除く方法をお考えになっていました。そしてとても長い時間をかけて、それを実行に移されたのです。

2.世の罪を取り除く神の小羊
 その長い時間の中で、神はまず人が罪を犯し、過ちを犯すたびに、神の前に罪を赦す道を備えてくださいました。それが旧約聖書に記されている様々な儀式です。罪の種類によってどのような献げ物をしたら赦しが得られる、ということを大変細かく教えているのが、儀式律法と普通言われているものです。そこで献げられるのは、傷のない動物でした。ここで洗礼者ヨハネが言っているように、小羊や牛が献げられました。しかし、いくら傷のないものとはいうものの、それらは人の罪を完全に償うことができません。ですから、人が罪を犯すたびに動物の犠牲を献げなければなりませんでした。その時代には、それで神の前に赦しが与えられたのですが、罪が犯されるたびに、そしてイスラエル全国民のためには毎年、大祭司が犠牲を献げる必要がありました。
 そうして長い時が経過しましたが、神はついに全く傷のない完全に清い神の小羊を世の罪のために備えてくださって、この世にお送りくださったのです。それが神の御子イエス・キリストです。ヨハネがイエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのは、それを神から知らされていたからです。しかし、この神の小羊は、まず言葉による宣教活動をされました。神は私たちの天の父であり、全てのことをご存じであり、私たちを愛し、生かしてくださっている方として示されました。しかし、旧約聖書の時代、小羊や牛が献げられたように、神の御子も献げられなければなりませんでした。それがイエスの十字架の死でありました。
 ヨハネは、具体的にどこまで知らされていたかはともかく、イエスが罪なき神の子として、十字架にかけられ、多くの人の罪の贖いのために死なれることになる、と知らされていたのでした。しかし彼は、何でもすべて知っていたわけではなく、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って留まるのを見て、この方こそ神の御子であると知ったのでした。洗礼者ヨハネは水で人々に洗礼を施しましたが、イエスは聖霊によって洗礼を授けるお方です。ヨハネは神に命じられて水で洗礼を授けましたが、それは、洗礼を授けられた人を新しく造り変えてしまうほどのことはできませんでした。あくまでも、本人の悔い改めが肝心であり、自分の罪を認めて告白した人に罪の赦しのしるしとして授けられたものでした。しかし、ヨハネの後に来た神の御子イエス・キリストは、聖霊を授けてその人を新しく生まれさせることのできるお方です。後に福音書記者ヨハネはそのことを記しています(14章16、26節)。
 今、私たちはキリスト教会の礼拝に出席して、キリストの御名を信じ、キリストの父なる神を礼拝しています。それは、私の内にある罪を、ご自身の十字架の死と復活によって打ち滅ぼしてしまわれたイエス・キリストが、神の小羊として、私の罪を取り除いてくださったからです。私たちは、ただ一つ、イエスが私のために十字架についてくださった、と信じ受け入れるだけでその恵みをいただけます。どうしてそれを信じることができるのでしょう。それは、先ほど言いました聖霊が、イエスの約束通り私たちのもとに来てくださって、私たちの内に住んでくださり、私たちの心の中で、真理を証ししてくださっているからです。聖書による証し、それは預言者や使徒たちによります。そして、多くの弟子たちの証しがあります。今、私たちの周りにいる多くの信者たちの証しがあります。それらは、みな私の外からやってくる証し、つまり外からの証言です。しかし、聖霊は、それらの証言に加えて、私たちの心の奥深くに入ってこられ、信仰へと導き、イエスこそ神の御子であると証ししてくださるのです。
そのような確かな証言がほしい、イエスについて確信したい、と願い、聖霊を求めるならその人には必ず聖霊が与えられる、とイエスは約束してくださいました(ルカによる福音書11章13節)。罪は人に絡みついています。私たちは、それを自分で取り除いて、滅ぼすことができません。しかし神の御子にはそれができます。なぜならイエスには罪がなく、神の御子として、罪を取り除いて滅ぼす権威と力があるからです。
だからこそ、この神の御子イエス・キリストを心から信じ受け入れる者としていただけます。神の聖霊により頼む者には確かにそれが与えられます。このイエス・キリストを信じより頼む人は幸いです。なぜなら、罪のない神の御子、神の小羊が、十字架でその罪を贖い、取り除いてくださったことを、自分のものにさせていただいているからです。そしてイエス・キリストがそのようにしてくださったのなら人はそれを覆すことなどできないからです。

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