「何を求めているのか」2019.10.6
ヨハネによる福音書 1章35~42節
私たちは、この世に生きている限り何かを求めて生きていると言えるのではないでしょうか。今日の朗読箇所では、そのことについて私たちに問いかけておられる方がいます。イエス・キリストです。イエスが言われた、「何を求めているのか」という言葉には実に深い意味が含まれています。
1.何かを常に求めている人間
私たち人間は、この世に生きて生活していますが、何かを常に求めて生きているのだと言えるでしょう。まず、食べ物、飲み物を求めます。それは、生き続けることを求めているからです。それは私たちにもともと備わっている本能のようなものでしょう。生存本能、などと言われます。それはまた、生き物に「欲」が備わっているからだと言えます。自覚していてもいなくても、生き延びる方へと、生きているものは向かっていくように造られているということです。
そのように、生存本能に関わるようなことは、私たちは無意識の内にもそれを実行に移しています。しかし、動物とは違って、人間は本能だけで生きているわけではありません。なぜ、自分はここにいるのだろうか、とか、何のために生きているのだろうか、とか考えます。動物は、立ち止まって人生の意味を考えたりはしません。だから人間は昔から土地を耕したり、狩猟に出たりして食糧を得て、家を建てて生活していくだけでなく、文化を発達させ、学問研究をするようになってきたのでしょう。物を作るにしても、何にどう使うか、ということも考えてものを生産するようになってきたのだと思います。そして、あらゆる科学が発達してきましたが、同時に哲学のような学問も発達してきました。やはり人間は、ただ食べて飲んで、暮らしていればそれで満足できるようにはできていない、ということの現れでしょう。神がそのように私たち人間を造られたのでした。そうやって何かを常に探求してきた人類ですが、自分が何を求めているのかもよくわからない、ということもあるのではないでしょうか。あなたは何を求めて生まれてきたのですか、と聞かれても答えらえる人はいないでしょう。生まれる前に、自分はこの人生でこれを目的にして生まれるぞ、といって生まれてきた人は普通の人間の中にはいないからです。
何かを求めていることはわかるのだけれども、何を求めているのか、何を求めるべきなのか、どこの誰に求めればよいのか。そういうことすべてを私たちは自分では知らないでこの世に生まれてきています。だとしたら、私たちはそれを誰かから、自分以外のものから教えてもらわねばなりません。それは、神から聞かねばなりません。
2.来なさい、そうすれば分かる
今日の朗読箇所では、洗礼者ヨハネの二人の弟子が、歩いておられるイエスの後についていった、ということから話が始まります。もっとも、それは洗礼者ヨハネが、イエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったからでした。自分の先生であるヨハネがそう言ったものですから、それならばそのような方について行ってみようと思ったということでしょう。イエスは振り返り、「何を求めているのか」と言われました。このヨハネの二人の弟子たちとすれば、自分たちの先生であるヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたのですが、そのヨハネが、イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのですから、このイエスという人がただ者ではないということはわかっていたはずです。しかも、ヨハネは「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方」について語っていました。それはほかでもない神です。ヨハネの弟子たちもイスラエルの歴史の中で神がどんなことをされ、何を語ってこられたかをよく知っています。その神がヨハネを遣わされて、洗礼を人々に授けている、ということは信じていたはずです。ですから、ヨハネがイエスのことを「神の小羊」というのを聞けば、それは神によって保証されていることだ、と受け取ったはずです。ですから、弟子たちはイエスについていったのです。私たちも、何か興味を惹くものがあると、それに惹かれてそちらの方向へと動いていくものです。何かあるぞ、何か特別なものがあるのではないか、という期待感です。ヨハネの弟子たちも、このイエスの後について行ってみれば、きっと何かがある、と思ったはずです。
しかし、イエスに「何を求めているのか」と聞かれた二人は、それに直接答えませんでした。やはり、彼らも、自分の先生であるヨハネから言われたとはいうものの、自分たちが何を求めているか、ということをそれほどはっきりとはまだ言えなかったのではないでしょうか。それで、「どこに泊まっておられるのですか」という、一見するとどうでもいいようなことを聞くわけです。しかしイエスは「来なさい、そうすれば分かる」と言われます。この言葉は何を意味しているでしょうか。どこに泊まっているのか、聞いているわけですから、ついてくれば宿屋のようなところか何かわかりませんが、泊っている場所なら見ればわかるでしょう。しかし、イエスが言われたのはそういうことだったのでしょうか。むしろ、イエスは、ご自分が聞かれたこと「何を求めているのか」に対する答えが、来てみれば分かる、と言われたのだと思います。泊っている宿屋や、場所のことではない。自分たちが何を求めているのか、という問いにさえも答えが与えられるであろう、ということです。イエスのもとに来なさい、そうすれば分かるのです。
3.誰に、何を求めるべきなのか
「来なさい、そうすれば分かる」。この御言葉は今日の私たちにも全く同じように語りかけられています。何を求めているのか、と聞かれても、自分が何を求めているのかも、実はわかっていない。何かを心の奥深い所で渇望しているように感じるのだが、それが何なのかがわからない。それをどこに求めたらよいのかわからない。だから毎日の生活の中で、あるいは一生の中でそれを尋ね求めているのが人間なのかもしれません。この世の中にはそれを教えようとしているものがたくさんあると思いますが、私たちは今、この聖書、神から与えられた神の御言葉である聖書からそれを聞こうとしています。そしてこの聖書において、今も私たちに語りかけているのがイエス・キリストのこの御言葉です。自分が何を求めているのかわからないとしても、私のもとに来なさい。そうすれば分かる、と言っておられます。
ヨハネの二人の弟子たちは、イエスの後についていって、話を聞いたはずです。そればかりか、初めてついて行って話を聞いた人の所に一緒に泊まりました。この時イエスが何を話されたのか、聞きたいところですが、二人の弟子たちは、イエスとたった一晩過ごしただけで、この方はメシア=油を注がれた者=キリストであるということを悟ったのでした。彼らイスラエルの人々にとっては、メシアとは聖書でずっと教えらえて、待ち望んでいた方、神が遣わされる救い主です。聖書に何が書かれているかも一通りは知っている人たちです。そういうイスラエルの人たちが、この人はメシアだ、というのはよほどのことです。しかし彼らにはそれがわかったのでした。しかしこの後の弟子たちの姿を福音書で見ていますと、彼らのイエスに対する知識はまだ不十分ではあります。神の子=メシアがこの世に来て何をなさるのか、を正しくすべて理解し把握していたわけではありません。それでも、この方はメシアだ、という確信が心の中心に据えられたのです。イエスに出会う、というのはそういう新たな発見を人にもたらします(41節)。 このイエスは、今日も私たちに出会ってくださいます。それは確かなことです。イエスを信じた人は、誰一人例外なく、イエスに出会っています。最初は、自分で神の子、メシア、救い主をイエスの内に認めてきたのではなかったでしょう。しかし、イエスに引き付けられて、その御言葉を聞き、教会の礼拝に来て祈るようになってきたのです。私たちの様々な歩みの中で、メシア=キリストなるイエスは私たちに出会ってくださいました。そして、私たちはこの方から永遠の命を与えていただけることを知らされたのです。
1.何かを常に求めている人間
私たち人間は、この世に生きて生活していますが、何かを常に求めて生きているのだと言えるでしょう。まず、食べ物、飲み物を求めます。それは、生き続けることを求めているからです。それは私たちにもともと備わっている本能のようなものでしょう。生存本能、などと言われます。それはまた、生き物に「欲」が備わっているからだと言えます。自覚していてもいなくても、生き延びる方へと、生きているものは向かっていくように造られているということです。
そのように、生存本能に関わるようなことは、私たちは無意識の内にもそれを実行に移しています。しかし、動物とは違って、人間は本能だけで生きているわけではありません。なぜ、自分はここにいるのだろうか、とか、何のために生きているのだろうか、とか考えます。動物は、立ち止まって人生の意味を考えたりはしません。だから人間は昔から土地を耕したり、狩猟に出たりして食糧を得て、家を建てて生活していくだけでなく、文化を発達させ、学問研究をするようになってきたのでしょう。物を作るにしても、何にどう使うか、ということも考えてものを生産するようになってきたのだと思います。そして、あらゆる科学が発達してきましたが、同時に哲学のような学問も発達してきました。やはり人間は、ただ食べて飲んで、暮らしていればそれで満足できるようにはできていない、ということの現れでしょう。神がそのように私たち人間を造られたのでした。そうやって何かを常に探求してきた人類ですが、自分が何を求めているのかもよくわからない、ということもあるのではないでしょうか。あなたは何を求めて生まれてきたのですか、と聞かれても答えらえる人はいないでしょう。生まれる前に、自分はこの人生でこれを目的にして生まれるぞ、といって生まれてきた人は普通の人間の中にはいないからです。
何かを求めていることはわかるのだけれども、何を求めているのか、何を求めるべきなのか、どこの誰に求めればよいのか。そういうことすべてを私たちは自分では知らないでこの世に生まれてきています。だとしたら、私たちはそれを誰かから、自分以外のものから教えてもらわねばなりません。それは、神から聞かねばなりません。
2.来なさい、そうすれば分かる
今日の朗読箇所では、洗礼者ヨハネの二人の弟子が、歩いておられるイエスの後についていった、ということから話が始まります。もっとも、それは洗礼者ヨハネが、イエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったからでした。自分の先生であるヨハネがそう言ったものですから、それならばそのような方について行ってみようと思ったということでしょう。イエスは振り返り、「何を求めているのか」と言われました。このヨハネの二人の弟子たちとすれば、自分たちの先生であるヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたのですが、そのヨハネが、イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのですから、このイエスという人がただ者ではないということはわかっていたはずです。しかも、ヨハネは「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方」について語っていました。それはほかでもない神です。ヨハネの弟子たちもイスラエルの歴史の中で神がどんなことをされ、何を語ってこられたかをよく知っています。その神がヨハネを遣わされて、洗礼を人々に授けている、ということは信じていたはずです。ですから、ヨハネがイエスのことを「神の小羊」というのを聞けば、それは神によって保証されていることだ、と受け取ったはずです。ですから、弟子たちはイエスについていったのです。私たちも、何か興味を惹くものがあると、それに惹かれてそちらの方向へと動いていくものです。何かあるぞ、何か特別なものがあるのではないか、という期待感です。ヨハネの弟子たちも、このイエスの後について行ってみれば、きっと何かがある、と思ったはずです。
しかし、イエスに「何を求めているのか」と聞かれた二人は、それに直接答えませんでした。やはり、彼らも、自分の先生であるヨハネから言われたとはいうものの、自分たちが何を求めているか、ということをそれほどはっきりとはまだ言えなかったのではないでしょうか。それで、「どこに泊まっておられるのですか」という、一見するとどうでもいいようなことを聞くわけです。しかしイエスは「来なさい、そうすれば分かる」と言われます。この言葉は何を意味しているでしょうか。どこに泊まっているのか、聞いているわけですから、ついてくれば宿屋のようなところか何かわかりませんが、泊っている場所なら見ればわかるでしょう。しかし、イエスが言われたのはそういうことだったのでしょうか。むしろ、イエスは、ご自分が聞かれたこと「何を求めているのか」に対する答えが、来てみれば分かる、と言われたのだと思います。泊っている宿屋や、場所のことではない。自分たちが何を求めているのか、という問いにさえも答えが与えられるであろう、ということです。イエスのもとに来なさい、そうすれば分かるのです。
3.誰に、何を求めるべきなのか
「来なさい、そうすれば分かる」。この御言葉は今日の私たちにも全く同じように語りかけられています。何を求めているのか、と聞かれても、自分が何を求めているのかも、実はわかっていない。何かを心の奥深い所で渇望しているように感じるのだが、それが何なのかがわからない。それをどこに求めたらよいのかわからない。だから毎日の生活の中で、あるいは一生の中でそれを尋ね求めているのが人間なのかもしれません。この世の中にはそれを教えようとしているものがたくさんあると思いますが、私たちは今、この聖書、神から与えられた神の御言葉である聖書からそれを聞こうとしています。そしてこの聖書において、今も私たちに語りかけているのがイエス・キリストのこの御言葉です。自分が何を求めているのかわからないとしても、私のもとに来なさい。そうすれば分かる、と言っておられます。
ヨハネの二人の弟子たちは、イエスの後についていって、話を聞いたはずです。そればかりか、初めてついて行って話を聞いた人の所に一緒に泊まりました。この時イエスが何を話されたのか、聞きたいところですが、二人の弟子たちは、イエスとたった一晩過ごしただけで、この方はメシア=油を注がれた者=キリストであるということを悟ったのでした。彼らイスラエルの人々にとっては、メシアとは聖書でずっと教えらえて、待ち望んでいた方、神が遣わされる救い主です。聖書に何が書かれているかも一通りは知っている人たちです。そういうイスラエルの人たちが、この人はメシアだ、というのはよほどのことです。しかし彼らにはそれがわかったのでした。しかしこの後の弟子たちの姿を福音書で見ていますと、彼らのイエスに対する知識はまだ不十分ではあります。神の子=メシアがこの世に来て何をなさるのか、を正しくすべて理解し把握していたわけではありません。それでも、この方はメシアだ、という確信が心の中心に据えられたのです。イエスに出会う、というのはそういう新たな発見を人にもたらします(41節)。 このイエスは、今日も私たちに出会ってくださいます。それは確かなことです。イエスを信じた人は、誰一人例外なく、イエスに出会っています。最初は、自分で神の子、メシア、救い主をイエスの内に認めてきたのではなかったでしょう。しかし、イエスに引き付けられて、その御言葉を聞き、教会の礼拝に来て祈るようになってきたのです。私たちの様々な歩みの中で、メシア=キリストなるイエスは私たちに出会ってくださいました。そして、私たちはこの方から永遠の命を与えていただけることを知らされたのです。
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