「初めに言があった」2019.8.4
 ヨハネによる福音書 1章1~18節

新約聖書の初めにおかれている4つの福音書の内、普通第四福音書とも呼ばれるヨハネによる福音書の御言葉に聞こうとしています。この福音書について、紀元2世紀のイレナエウスという、フランスのリヨンで教会の司教の務めについていた人が、2世紀の終わり近く(180年以後)に書いたある書物の中で書いています。「主の弟子で、またその胸に寄り掛かったヨハネもアシアのエフェソにいたとき、福音書を公にした」(異端駁論Ⅲ-1-1)。主イエスの12弟子の一人、使徒ヨハネが、一世紀後半の終わり近い時代に書いたものとされています。この福音書自体が、最後の所で著者の自己紹介をしており、それによると使徒ヨハネであることが明らかにされています(ヨハネ21章20~24節)。ほかの3つの福音書とは明らかに書き方が違っています。他の三つを共観福音書と呼びます。ある共通した観点から書かれているからです。イエスの語られた御言葉、なさったことをある程度の短いまとまりの中で語り、ガリラヤでの宣教、エルサレムでの出来事、と語ってゆきます。ヨハネによる福音書は、むしろイエスのなさったことを主題に沿ってまとめていくような書き方であり、イエスが人となられた神の御子、神ご自身であられることを読者に示そうとしています。イエスのなさった、「しるし」を順に示していく、という形もとっています。また、イエスが語られた説話が長い文章で書き記されている、という特徴もあります。日本語で普通に読んでいて、その違いがわかります。主イエスのそばにいつもいた弟子のヨハネが、その晩年になってから、イエスのなさったこと、語られた御言葉を深くかみしめながら書き記している、そういうものです。そして、今日この福音書を読み、特に教会でこの福音書から礼拝で語られる時に、私たちは今なお聞くべき神の御言葉が私たちに向かって語られている、ということをまずよく覚えておきたいと思います。決して難しい神学の問題を議論するために私たちはこの福音書を与えられているわけではありません。

1.神の言(=ロゴス)としてのキリスト
このヨハネによる福音書には、マタイやルカにある、イエスの誕生物語がありません。しかしヨハネは、イエスについて語り始めるにあたり、その人としての誕生からではなく、神としての存在について語り始めます。そして、ヨハネがイエスのことを語るにあたり、選んだ1つの言葉がありました。それが「言」と記されているものです。日本語訳でも、「言葉」ではなく、あえて一文字で「言」としています。読み方は「ことば」でも、その示している意味合いが単なる言語としての言葉とは違うからです。この福音書がもともと書かれたギリシア語では、「ロゴス」という単語です。この言葉には、日本語と同じように、言語として情報を伝達するための「言葉」という意味もありますが、とても広い意味を含む言葉です。ギリシア語において、ロゴスには理性という意味があり、ギリシアの哲学でも世のすべてのことを決めるのは神のロゴスである、と考えられていました。ヨハネは、このロゴスという言葉を用いて、イエスのことを人々に示そうとしたのでした。ギリシア哲学の思想の中に生きている人々にも通じるように、あえてこの言葉を用いたと考えられます。ユダヤ人の中で、旧約聖書が証ししているイエス、というだけではよくわからない人々にも、この宇宙や世界を成り立たせている神のロゴスとして存在しておられるイエス・キリストを示しているのです。

2.初めに言があった
 このようにして神の御子イエスのことを冒頭から書いているこの福音書は、私たちにとても大事なことを教えてくれています。ナザレのイエスと呼ばれる救い主イエスは、新約聖書を知らない人にとっては、非常に信仰深い人、神を深く信じていた宗教的偉人の一人に数えられてしまうことでしょう。しかし、このイエス・キリストというお方は、もともと神として存在しておられた方であり、私たちの思いをはるかに超えて、永遠から存在しておられる方なのだ、ということをヨハネは教えているのです。
 ここで言われていることは、人間の創作で言えるようなことではありません。人は作り話をします。あるいは劇や芝居といったものを作ります。映画や小説の世界でならば、いくらでも想像力を広げて創作した作品を作ることができます。では、ここでヨハネが書いているこのことはどういうものになるでしょうか。ヨハネは確かにイエスのことを書こうとしています。当時の人々、この福音書を読んだ人々の中には、イエスを直接知っていた人たちもいました。多くの信者が誕生して、イエスを神の御子、救い主として信じておりました。そのような中、イエスについてこのように書くということは、もしそれがヨハネの勝手な作り事だとしたら、決してこのように後の時代にまで伝えられてくることはなかったでしょう。イエスのことを知っている人たちがたくさんいたのですから。
 ヨハネは、このロゴスという言葉によって、人となられた神の御子を世の人々に示すことができると考えたのでした。そしてそれは、神の御子キリストを示すのに相応しい仕方でした。このロゴス=言である神の御子キリストは、初めから存在しているお方です。初めに言があったが、その言が存在していない時があって、ある時から言が存在し始めたということを言っているわけではありません。なぜなら、この言は神と共にあり、神であった、と言われているからです。そして、初めに神と共におられました。つまり、神がおられたなら、そこに、言=ロゴスであられる方は共におられました。神がおられるのに、言なる方は存在していない、などということがなかったのです。もしも神が初めにおられ、その後で言=ロゴスなる方が造られて存在するようになったとしたら、言は神であった、とは言うことができません。言と共にいることがなかった神、というのはあり得ないのです。万物を造られたのは神です。ところがここでは、万物は言によって成った、と言われています。ですから、言は神であった、ということになります。神と言=ロゴスとを別々のものとして切り離してしまうことはできません。

3.言は神であった
 そしてこの言、とは神の御子キリストのことであるということが、14節において明らかにされます。肉となって、つまり人としてこの世に生まれたということです。その、言と呼ばれるキリストは神と共にあり、神であり、初めに神と共にあったお方なのです。神と共にあると言われ、しかも神である。これは私たちの普通の考えでは成り立たないことです。しかしあえてヨハネはそう書いています。神であり、しかもある区別をもって現わされるお方。神を私たちに対して示しておられるお方。それが言と呼ばれる神の御子キリストなのです。
 私たちは、ここにイエス・キリストというお方が、神そのものであられること、ほかのすべての人間とは違って、初めから神として存在しておられたこと。それを知らされております。私たちは、このヨハネによる福音書の冒頭のこの記述によって、イエス・キリストというお方が、初めから神と共にあり、神であり、万物を造られたお方であることを知りました。ここにこそ、実は私たちの信仰の確かなよりどころがあります。キリストは確かに、人間としてマリアから生まれたお方ですが、神として神の言=ロゴス、として存在しておられる方が人としてこの世に生まれたのです。だから私たちのことを罪から救うことができます。ヨハネがこの福音書を書いた頃には、各地に教会がありました。おそらくヨハネはエフェソでこれを書いたのだろうと言われております。ヨハネは、既にあちらこちらに増え広がっているクリスチャンたちに、「あなたがたが聞いている福音において告げ知らされているイエスというお方は、十字架にかかって死なれた。そして復活されたイエスは、初めから神としておられた方で、万物を造られた神なのだ」と教えているのです。これは、ヨハネがイエスを神として祭り上げてしまったということではありません。イエスはもともと神として初めから存在しておられた神の御子であり、神の言と言われる方なのです。その方がこの地上に人としてお生まれになり、私たちを救うために必要なことを成し遂げてくださいました。それが良き知らせ、福音なのです。私たちも今、この福音書の読者となっています。それは神のこの世に対する宣言を聞くことです。既に3つある福音書において書き記されたイエスのことについて、第4番目の福音書として、特にイエスの神としての姿を明らかにしているのです。この言として示されている方こそ、私たちを照らす光です。そのことを私たちはこれから教えられていきます。この福音書は、私たちがこれまで過ごしてきた世界の中で起こった、神からの最も素晴らしい働きかけのことを教えています。それこそ、イエス・キリストにおいて起こったことでした。そしてヨハネは、イエスがなさった十字架と復活の御業を信じているならば、イエスというお方を正しく知ることが、第一に必要なことだと教えています。そして、イエス・キリストを神であり、神のロゴスであり、私たちを照らす光だと知ること、それこそ福音を信じることにおいて、絶対に外すことのできない真理だと、私たちに教えているのです。  

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