「愛は死のように強い」2019.7.28
 雅歌 8章4~7節

 愛とは何か。この問いは古今東西、多くの文学、芸術、哲学、宗教などのテーマとなってきたものです。愛とは何か、という答えが出るかどうかはともかく、今日朗読した雅歌の一節のように、愛はどのようなものか、ということもまた数限りなく問われ、語られてきたことではないでしょうか。今日は、旧約聖書の中でも特に異彩を放つと言ってもいいくらいの、この「雅歌」という書物の一節を通して、私たちは神の御心を聞こうとしています。

1.雅歌という書物
この雅歌という書物は、愛について歌っていることは明らかです。しかし、どのような愛について語っているのか、ということは古来いろいろに解釈されてきました。雅歌は文字通りの男女の愛について歌っているのだ、という理解もあれば、これは神と人との愛を比喩的に歌っているのだ、という理解もあります。もう少しひねった解釈もあるようですが、古来、おもにこの二つの解釈がなされてきました。一つ言えることは、この雅歌も聖書に入れられていることです。それは、神の権威ある御言葉として教会が受け入れてきたことを示します。男女の愛の歌か、神と人との愛の歌か、という解釈の違いはあるとしても、この雅歌という書物が、神の権威ある御言葉として私たちが聞くべきものとして与えられている、ということです。
なぜ神と人との愛を比喩的に歌ったものだと理解するかというと、ここで描き出されている肉体的、性的な描写を払拭して、それらを賛美するのではなく、あくまで神と人との愛の素晴しさを歌っているのだ、と考えたからです。聖書の預言書の中にも、神と人との愛を、夫婦の間に譬えて語っているホセア書などがあり、そこではイスラエルを花嫁に、神をその夫に譬えています。キリスト教会では、神を花婿、教会を花嫁にたとえるということになります。それだからこそこの書物も聖書の中に入れられている、ということに根拠を求めるのです。
しかし、そうではなく、あくまでも人間の男と女の愛を歌っている、という理解が一方にあります。男女の愛ももとは神から来ているのであり、創世記の人間の創造の記事に立ち戻れば、神は、男は父母を離れて女と一体になる、と言われているのですから(2章24節)、男女の夫、妻としての関係は神がお定めになった秩序の下にあり、産めよ、増えよ、地に満ちよ(同1章28節)、と言われた神の御心に適うことであり、そのもとになる男女の愛は神から来ているものとして受け止めるべきです。だとすれば何か恥ずべきもの、語るべからざるものであるというわけではないからです。もちろん、堕落した人間は、神の造られた善きものを歪めてしまう、という罪の結果がありますから、何でもかんでも手放しでほめそやす、ということとは違います。その点は忘れてはなりません。

2.愛は死のように強い
今日の朗読箇所は、8章途中からですが、最初に読んだ4節には「愛がそれを望むまでは愛を呼び覚ますな」という趣旨のことが言われています。愛が目覚める時があるのだから、それを無理やり人の都合や力で呼び覚ますことはするな、ということです。人為的に呼び起こすのではなく、目覚める時がある、ということは、人と人とが出会って愛し合うことにおいては、人間の思いや計画を越えた面があるわけです。箴言の中に、驚くべきこと、知りえぬこととして挙げている四つのことのうち、その最後に「男がおとめに向かう道」という一句が挙げられています(8節)。愛は人から強制されて生じるものではないのです。実際、人が人を愛するということは、ある面とても不思議な面を持っていると言えます。世の中にいる多くの夫婦を見れば分かるように、みなそれぞれにいろいろな出会いの中で結ばれるわけで、これはたとえ強大な国家権力であろうと手を出すわけにはいきません。時に政略結婚のようなものが世にはありますが、そういう仕方で一組の夫婦ができるようにはなっていないのです。 さらに、今日の朗読箇所の6節では、今日の題にも取り上げています、愛は死のように強い、と言われています。死はどのように強いのでしょうか。死の強さは、この世に生きている人間がどうやっても自力でそれに打ち勝つことができないという点にあります。誰も死を免れることはできません。それは、人の意志の力でどうにもすることができません。もちろん、気力のあるなしで病気の治り方も違う、という面はありますが、どれだけ寿命を延ばすことができたとしても、ついには死の前に屈服するしかありません。そのような意味で死は強い。そして、死は一度誰かに訪れたならば、その人を愛する人たちから引き離し、人の力ではどうしようもない隔たりを生じさせます。
愛はそういう死のように強い。その強さは、物理的な力で動かそうとしてもできるものではありません。それは七節で言われているとおりです。愛を支配しようとして財産を差し出す人は必ず蔑まれます。愛を、金で手に入れられると思っているなど、なんと愚かな人よ、と人に蔑まれます。死は人を引き離してしまうと言いましたが、愛は逆に人と人を惹きつけます。それはどんな力でその愛を妨げようとしても阻むことができません。誰かの愛が誰かに向かっているとしたら人はそれを妨げることはできないのです。この世の生活において私たちがそのような互いの愛を育むことができるとしたら、素晴らしいことではないでしょうか。しかしそれがなかなか現実のものではない、ということを私たちは認めざるを得ない、というのもまた事実です。

3.真の愛に生きる道
「愛は死のように強い」というたとえは、あくまでも人が財産や権力などをもって愛を支配することなどできない、ということ。そして死が人を引き離してしまうのとは逆に、人を強く引きつけ結びつけるものであること。その強さを語っているわけではありますが、しかしその愛も、やはり人間の愛はどこか頼りなく、弱くなってしまったり、冷めてしまったりするものでもあると言わざるを得ません。確かに、愛によって結び付けられた二人の人は、誰もそれを妨げることができない強いつながりを持っていると言えるでしょう。しかし死のように強くとも、人の愛は死に勝つことまではできないのではないでしょうか。結婚式の誓いにおいても、「~死が二人を分かつまで、~節操を守ることを誓約しますか」と問われます。死によって引き裂かれてしまう、ということを認めざるを得ないのが人間の現実です。

しかし、完全な愛というものがあります。それは神の愛です。聖書には、愛することのない者は神を知らない、なぜなら「神は愛だからです」と言われています(Ⅰヨハネ4章8節)。愛は神から出ているのですから、人と人との愛も、神を無視して、神を度外視して愛を語ることはできません。神が私たちを愛してくださっている、ということを知らずに愛を語れない、というのが聖書の教えです。人の愛は死のように強い、と言えるでしょう。しかし、死よりも強いかというとどうでしょうか。しかし神の愛は、死よりも強い。死すらも、神の愛を妨げたり、終わらせたりすることはできないし、神の愛によって生き、互いに愛する者同士の間を分かつことはできないのです。なぜなら神は、なぜ死が人を引き離してしまうのか、ご存じであり、死を無力なものにすることができるからです。そもそも神は永遠に生きておられる方で、死の力は神には全く及びません。人が死なねばならなくなったのは、神の愛の内に留まらなかったからでした。神の愛にそっぽを向いたからです。これを聖書では罪、と呼びます。これを取り除くために神は、ご自身の独り子である、御子イエス・キリストを人のために遣わしてくださいました。神の愛にそっぽを向いた人間の罪を赦し、神に愛され、神を愛して生きる道へと招き入れてくださるためです。神の御子キリストは、ご自分が十字架で死ぬことで、ご自分の民を救うことができます。神の御子には罪がないからです。普通は死んだらおしまい、となるはずなのに、キリストの場合は違いました。ご自分が死ぬことによって死に負けてしまったのではなくて、死を滅ぼしてしまいました。それがキリストの復活です。一度は確かに死なれましたが死の力を滅ぼして復活されたからには、もはや死の力はキリストに勝てません。
そしてキリストを信じる私たちにも、同じように永遠の命に生きることができるようにしてくださるのです。キリストによって示された神の愛は、死よりも強いのです。人の愛は確かに不完全です。人の愛は死のように強いかも知れませんが、死よりは強くないかもしれない。それでも、私たちが愛するのは、神が愛であるからで、神の愛を映し出しているのです。人の愛は、呼び覚ますまで起こすな、と言われます。しかし神は強い御意志をもって私たち罪人を愛してくださいます。そして人の愛すらも飲み込んでしまう死の力に打ち勝ってくださった。その神の愛の内に生きるなら、私たちのこの地上での愛も決して空しいものとはなりません。
この世において、二人の愛し合う者が夫婦とされているとしたら、それは神によって結びつけられているからです。ですから、そこにはすでに神の愛が及んでいることを知る必要があります。二人の人間がいつも互いを見つめ合っているだけで、お互いの好きな所を褒め合っているだけなら、すぐにそのような時間は過ぎ去り、欠点が浮き上がってきて、嫌な面が見えて来てしまうことでしょう。しかし、神が私たち人間を造り、一組の夫婦としておられることを知るなら、互いに欠けのある者でありながら神のもとに立つことができます。そしてそこには常に愛そのものであられる神への祈りがあります。しかし夫婦の片方が神を信じる者ではない、という場合もあります。その状況は十把一絡げに言うことはできません。しかし片方が神への祈りを献げることができるなら、そこには完全な愛である神の祝福があるのです。

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