「神の摂理の中で生きる幸い」2019.7.7
 マタイによる福音書 10章26~31節

 私たちがこうして日々生活し、生きていられるのは、生ける本当の神がおられるからであります。私たちが毎日目覚めてそれぞれの一日を始められることを、私たちはつい当たり前のように考えてしまいます。確かに、今日もいつもと同じように一日が始まりました。しかし、私たちは自分の体も心も、全て自分の思い通りにしているわけではない、このこともまた知っています。ある日突然昨日までとは違う健康状態になってしまった、ということも人にはあり得るわけです。そういうことを少し悲観的に考え始めると、それこそ一寸先は闇、ということわざに捕らえられてしまい、いつもある不安を抱きながら生活することになってしまいます。私たちのこの世での生活、そして命そのものはなんと頼りないものなのだろうとさえ思うようになります。しかし、私たちは決して頼りにならない自分次第、というような、あるいは運任せ、偶然まかせのような人生を送るためにこの世に生かされているのではない、ということを知らねばなりません。今日は、題にもあるように、神の摂理の中に生きる者の幸いを教えている神の御言葉に聞きたく願っております。すべてのものを造られ、すべてを見ておられ、すべてを御心のままに納めることのできるお方のもとに生きていることを知る。これは本当に幸いなことです。

1.人々を恐れてはならない
このマタイによる福音書が書かれた頃には、イエス・キリストを信じるクリスチャンたちがローマ帝国の中に増えてきていて、同時に迫害の脅威も見えてきている時代です。そういう状況の中で、この主イエスの御言葉は、信徒たちを励まし、しっかりと信仰に立つことを教える力強い言葉であったはずです。主イエスは、ご自分が十字架にかかり、死んで復活し、天に昇ることをご存じでした。そして、聖霊が降られることによって各地への宣教が始まり、信徒たちが各地に増え広がってゆくけれども同時に迫害も起こって来ることも知っておられました。それゆえ、このように将来の迫害を見越したうえで弟子たちを力づけ励ます御言葉を語っておられるのです。この時、イエスと共にいた弟子たちには、まだ迫害が起こって来ることが実感としては抱くことができなかったのではないかと思います。それに対して、イエスの昇天と聖霊降臨後、何十年か経った時代に生きている信徒たちは、この主イエスの御言葉をより切実に感じたことでしょう。迫害が他人ごとではなくなってきていることを実感し、キリストを信じてクリスチャンとして生きることは命がけのことだ、という思いが強くあったと思われます。
それでも、主イエスは、迫害を恐れて福音宣教をしないで隠しておくようなことをせずに、主イエスの御言葉を言い広めなさいと言われます。主イエスが恐れるな、と言われるのは、信徒たちが迫害を恐れてしまいがちであることをよくご存じだからです。どうしても実際に捕らえられるかもしれないとなれば、そして捕まれば殺されるかもしれない、となれば誰でも怯むのではないでしょうか。だからこそ、主イエスは恐れるなと命じられるのです。そして、主イエスが恐れるな、と言われるからには、確かにその恐れは私たちを決定的に打ち倒すことはできない、ということなのです。

2.体も魂も滅ぼす権威を持つ神
なぜかと言えば、たとえ迫害によって捕まえられて命を奪われることがあるとしても、迫害してくる者たちは魂までも殺すことはできないからです。体は切りつけられて心臓が止まってしまえば死んでしまいます。しかし、人はそれ以上のことはできません。しかし神は違います。体も魂もどちらも滅ぼすことがお出来になります。恐れるべき方は誰であるか。人を基準にしている以上はその答えを見いだすことはできません。
たとえ迫害によって捕まえられて命を奪われることがあるとしても、その者たちは魂までも殺すことはできないからです。体は切りつけられて心臓が止まってしまえば死んでしまいます。しかし、人はそれ以上のことはできません。しかし神は違います。体も魂もどちらも滅ぼすことがお出来になります。この方こそ私たちが真に恐れるべき御方です。恐れるべき方は誰であるかは、人を基準にしている限りその答えを見いだすことはできません。
しかし、神は恐れるべき方であるということは、私たちがいつも神を恐がっているということとは違います。体も魂も地獄で滅ぼすことができる、という人間にはない力と権威を持っている方であるから恐れるべきなのですが、その方は恐ろしい審判者ではなくて、神を仰ぎ、信じ、信頼する者に対しては父である方として臨んでくださるのです。

3.天の父である神の恵みのもとにある
神は全てのものを造られた方ですが、同時にそれを御心のままに支配し、治め、用い、導かれます。神は、はるか昔に天地を創造されましたが、その後は造られたものがどうなってゆくかを、時間の経過に任せておられるわけではありません。天地創造の時に全能の大いなる御力を発揮されただけではなく、その後も、万物を保っておられ、現実に力を発揮してこの世界を保っておられます。そして今のこの時代に生きる私たちに対しても、現実にその御力を発揮しておられるのです。そしてこの神のお働きのことをキリスト教の用語では「摂理」と言います。摂理という言葉自体は聖書にはないのですが、予め見る、という意味の言葉を教理用語として用いるようになり、それが日本語では摂理という言葉で訳されています。神が未来を予見して、予め備えておられる、という意味があります。ですから、これは創造の御業と切り離しては考えられず、一切のものを造られた神だからこそ、すべてのものを御心のままに治めて、あるご計画なり目的なりを実現に導かれるのです。例えば旧約聖書のお話の中で、ヤコブの息子のヨセフは、兄たちに嫌われた末、遠いエジプトの国へ売られてしまったのですが、13年ほど経って、大人になったヨセフは奴隷として良い働きをしていたにも拘わらず、主人の妻のふしだらな誘いに乗らなかったゆえに、その妻の悪巧みによって濡れ衣を着せられ、獄中生活を送ります。しかし他の囚人の夢を解いたことをきっかけにして、王が見た不思議な夢を見事に説き明かし、王に継ぐ位(総理大臣のような地位)に取り立てられました。その夢は七年の大豊作の後に7年の大飢饉が来るというもので、ヨセフは穀物を十分に蓄えて飢饉に備えました。そして飢饉の最中、カナン地方にいたヨセフの兄弟たちが穀物を買いにエジプトへやってきて、兄弟たちが再会を果たします。そして彼らは和解するのですが、ヨセフの怒りを恐れた兄たちに対して、ヨセフは言います。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世記45章5節)。それは、大いなる救いに至らせるためだ、とヨセフは続けて語っています(同7節)。このお話の中に、神の摂理が実によく現わされています。
これはとても壮大な物語の中に、紆余曲折を経て、多くの困難な状況を味わいながらも、最後には祝福された幸いな結末に至る、ということが示されています。そういう大変壮大なお話ばかりでなく、ここで主イエスが言っておられるように、空を飛ぶ小さな雀でさえも、天の父なる神の御手によって守られており、神が良しとされる限りは地に落ちることはない。これもまた神の摂理の御業です。すべてをお造りになった神が保ち、守っておられるということです。小さな雀でさえそうなのだから、雀にはるかにまさるあなたがた人間を、神はお守りくださるのだ、だから恐れるな、とイエスは言われました。髪の毛までも一本残らず数えられている。神の前では私たちの体も魂もすべて明らかであって、神が関知しておられないことなど何一つないのです。その神が守ってくださること、保ってくださること、導いてくださることは、この世の中だけのことではありません。たとえ体は死んだとしても、魂を救ってくださり、やがては体も魂も完全に清くして、新しく復活した体によって生かしてくださるのです。
そして、神の摂理は、いつも私たちにとって都合よくすべてが運ばれる、ということではありません。先ほどのヨセフの物語を見ればわかります。孤独や試練を味わわねばならないこともあるのです。しかし、すべては神が見ておられ、神が命の救いのために取り計らっていてくださるのです。
人々が命を狙って迫害してくることもあるかもしれない。しかし、魂までは殺せない人間ではなく、神を恐れなさい。神は私たちにとっての最善をなしてくださるからだ、と。そしてここでは、体が殺されることも暗示していると思われますが、それですらも、神の前では恐れるに足りない、ということです。神は、魂をも殺すことができる、と言われておりますが、魂をも殺せるということは、裏返せば魂を救うこともできるということです。それは、このお話を語っておられる神の御子イエス・キリストによって、与えられるものです。そのことを知ると、神は決して、私たちの体も魂も滅ぼすことのできる恐ろしい方ではなく、愛すべきお方、信頼すべきお方、私たちの体も魂もどちらも救うことができるお方であると知るようになります。神を信じない人の中には、自分は神など信じなくても、自分の力でやってきたし、困難も試練も何とか切り抜けてきた。そして今日まで至っている。だから大丈夫だ、と言われるかもしれません。しかし、そうやって切り抜けてきたのは、神の摂理によって守られていたからだ、と言えるのです。神は信じていない者にも憐れみを注いでいてくださいます。しかし、神を信じ敬い、愛し従う者に対しては、特別に祝福をくださり、永遠の命へと導いてお救いくださいます。そういうイエス・キリストの父なる神、摂理によってお守りくださる神を信じてこの世を生き、自分の死んだ後さえもゆだねて生きられるのは真に幸いであります。

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