「常に主を覚えて歩け」2019.4.28
 箴言 3章1~20節

 私たちのこの世での生活や人生は、それを過ごす、とか歩む、と言われます。歩むと言われるのは、それが常に進んでいる、動いているということが意識されているからでしょう。たとえある一つの場所に留まって、生涯その土地に住むとしても、それでもその人の人生を歩む、と言います。それはどんなにそこにじっと留まっているとしても、私たちは時間の流れの中に置かれているので、黙っていても変化してゆくからでしょう。自分ではそんなに意気込んでいなくても、世の中に流されているようでも、私たちはこの世を、自分の人生を歩んでいると言えます。世の中には勇ましい人もいて、自分の人生は自分で切り開いていく、と強い意志をもって生きている人がいるようです。しかし、私たちはそもそも自分が生きていること、今この時代にどこの国で、男か女か、どこの国に属する人であるか、ということを自分で決めたわけではありません。自分の意志ではないものによって自分の人生があてがわれていて、気がついたら自分の人生を歩んでいのが私たちです。そんな私たちは、自分がこの世を歩んでゆくことの根拠、或いは土台をどこに据えたら良いのでしょうか。箴言の語るところに耳を傾けたいと思います。

1.常に主を覚えよ
この礼拝に集っておられる方々の内、既に信仰によって歩んでおられるクリスチャンの方にとっては、それは何かという答えは、言葉としては簡単に出てくるものでしょう。求道者の方にとっても、今日の説教題を見れば、それは箴言3章6節にある言葉だ、ということに気がつかれると思います。常に主を覚える。それは具体的には何を意味するのでしょうか。ただ何となく、天地の創造者なる神がおられてすべてを造り、支配し、導いておられる。つまり全能者なる神がおられる、と信じることでしょうか。何となく、と言いましたが、もしこのことをちゃんと信じているなら、それはとても大事なことです。天地の創造者なる神がおられて、私をも生かしておられる。だから、自分の人生は、神によって与えられたものである。だから自分は神に従って生きようと思い、そう努める。それは確かに主を覚える、ということです。言い換えると、創造主であり、しかも摂理によってすべてを導く主なる神を覚えて、つまり心に留めていることです。心に留めているとは、単に忘れずにいる、というだけではなく、すべてのことに神の御手が及んでいるという事実を認めていることです。
しかし、覚えている、ということは記憶に留めて事実を認めているだけではなく、神とのつながりの中に生きていることです。そのためには生活の中にある仕掛けを作っておく必要があります。そうでないと私たちはすぐに日々の生活に必要な様々な仕事や務め、業務に集中して埋没していってしまうからです。イスラム教では、一日5回の礼拝の時間がそれぞれの地域で定められているそうです。日の出や日没の時間によっても違うそうで、イスラム教国の新聞には、毎日の礼拝時間が記されていることが多いそうです。それは、ある時間を定めることによって意識的に神に向かおうとするのであり、そういう手段や決まり事を作ることで自分をそこに置き、心を神に向けるようにするわけです。キリスト教の場合、一日の中ではそういう定めは特にありませんが、一週間の中では日曜日を礼拝の日とし、それぞれの教会で開始時間を定めているのは、公の礼拝で多くの人が集まるため、という理由はあるにしても、同じ理屈ではあります。主が、一週間の安息日を定められて主を覚えよ、と言われたところから来ているわけです(出エジプト記20章8~11節、創世記2章3節)。とにかく私たちはある決まり事などを作らないと、容易に生活に必要なことや仕事などをどうしても優先してしまう、という傾向があるからでしょう。ですから私たちは、恵みの手段である神の御言葉に親しみ、祈り、特に公的礼拝に与ることを努める必要があるのです。
そしてこの箴言自体が教えていることは、7節以下を見るとわかります。自分自身を知恵ある者と見ない(主に比べれば私たち人間の知恵はたかが知れている)。主を畏れて悪を避ける(主は悪を憎まれ、私たちが悪に手を染めることも当然喜ばれない)。与えられたものの中から主に献げて礼拝をする(すべては主からいただいたものと感謝して一部を献げてお返しする)。主の諭し、懲らしめを受け入れる(たとえ御言葉に従って裁きを受け、罰を受けたとしても)。それが主を覚えることです。その反対が自分の分別に頼ることです。しかし一般的に、人は大人になったらそれ相応の分別をもって生きてゆかねばならないと考えられています。確かにそうであり、クリスチャンはそういう分別を否定するわけではありません。自分の分別に頼るな、とは、自分よりも主の方がはるかに優れていて賢く、知恵があり、間違わないお方であると信じ、主の御言葉に聞きつつ遜って生きよ、という意味です。

2.あなたの道を歩け
常に主を覚えることは、主から「あなたの道」として与えられている道です。他の誰でもない、「わたし」が主からいただいている道です。生まれてからの環境、育ち、家庭、職業、賜物等、その組み合わせで生きているのは、世界広しと言えども「わたし」という一人だけです。そして、主を信じて生きる者は、その道を主に導かれていることを信じて歩みます。だから、その歩む道に主が伴ってくださって、良きに計らってくださることを信じるのです。ところが人は不完全なもので、罪深いものです。それゆえ、自分の思いが先走って、主の御心を十分に訪ね求めることをしなかったり、自分の判断だけで突き進んだりしてしまうことがあるのです。そればかりか、明らかに過ちを犯してしまうことすらあります。だからこそ、この箴言のように私たちは常に神のみ言葉によって警告され、忠告され、勧告されている必要があるのです。「私の道」を、主なる神が与えてくださった道と信じ、受け入れて生きるならば、それは主を覚えて歩むことであり、神の確かなお計らいの中に置かれていると信じてよいのです。
一つ指摘しておきます。3章冒頭に「父の諭し」(3節)とあるように、父親が子供に対して、これから自分の人生を歩んで行く上で、心しておくべきことを教える形です。父親が子に、世に出ていくに当たっての心構えを語っています。その中で、この教えを守れば、「神と人の目に好意を得、成功するであろう」という箇所があります(4節)。成功云々というと、何となく世の中でうまくやっていくことを求める功利主義的な印象を受けてしまいますが、「好意と良い成果を得る」という訳もあります。主を畏れる民も、この世で様々な働きや仕事をなすわけで、それにおいても良い結果を主がもたらしてくださる、という意味です。主なる神を信じ、神を畏れ、常に主を覚えて生きることによって神と人から好意を得ることは何も悪いことではありません。

3.主が道をまっすぐにしてくださる
常に主を覚えて歩むならば「あなたの道」、つまり「私の道」を神自らまっすぐにしてくださると約束されています。まっすぐに、とは、神に従う道を進み続けることが出来るという意味です。主にゆだねていないと、私たちの道は、確信の持てないものとなり、頼りないものになってしまいます。自分の分別、人の分別、人間の知恵と判断、経験、そういったものに頼っていて、うまくいっていると思える時もあるかもしれません。しかしそこに、主に信頼する信仰がないと、まっすぐにはなっていきません。先を完全に見通すことのできない人間の分別と判断には限界があります。そこに突き当たれば、道がふさがってしまう。しかし、主に信頼して歩むなら、そうではないというのです。いや、主に信頼して歩む人も、何らかの壁に突き当たったり、過ちを犯してしまうことすらあるではないか、と思うでしょうか。確かにそうです。信仰者も過ちを犯します。しかし、それでも主に信頼し、罪の赦しを求め、主に寄り縋って歩む人を、主は、主が常にそこにおられる道へと導いてくださいます。
私たちの主は、人としてこの世に来てくださいました。そして、「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言されました(ヨハネによる福音書14章6節)。この方、神の御子、救い主イエス・キリストが私たちのために主となり、歩く道の導き手となってくださっています。この方以上に頼りになる存在はありません。地の基を据え、天を設けられた主の知恵と英知と知識は驚くべきものです(箴言3章19、20節)。我々人間の知恵と知識をはるかに超えています。その主に導かれて歩む時、時に私たちの足が弱り、時にはつまずき、よろめくことさえあるかもしれません。
しかし、倒れることがない。厳しい試練の道を歩み、自らの弱さと過ちと罪によって主の懲らしめを受けることすらあります。しかし、それでも見捨てられない(Ⅱコリント4章9節参照)。私たちが主を覚えて歩むということは、実は主に覚えられている、ということの裏返しです。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」(Ⅰコリント8章3節)と言われている通りです。常に主を覚えて歩む人は、常に主に覚えられていることを、身をもって現しています。それを周りの人は見ています。主イエスが導いてくださる真理と命の道を共に歩みましょう。

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