「新しい命に生きる」2019.4.21
 マルコによる福音書 15章42~16章8節

救い主イエス・キリストの復活を祝い記念するイースターの日を迎えました。こうして主の教会において、ともに礼拝を献げられる幸いを感謝します。福音書が私たちに告げ示していることを、改めてよく聞きましょう。

1.イエスの埋葬
イエスが十字架上で息を引き取られたのは、ユダヤ人たちが神の律法に従って守っている安息日の前日のことでした。時は既に夕方です。ユダヤでは、安息日は日没とともに始まります。旧約聖書の律法には、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日の内に埋めねばならない」と命じられています(申命記21章23節)。安息日には死体をきれいにしたりすることができませんから、日没で安息日が始まる前に、アリマタヤ出身のヨセフは死体を十字架から降ろしたかったのです。ローマの慣習では、十字架に架けられた罪人の死体は、要請があれば引き渡されましたので、ヨセフはそうしたのでした。ヨセフは「勇気を出して」ピラトの所に行きました。彼はユダヤ人悪中で身分の高い人でしたから、ユダヤの最高議会が死刑であると判定したこのイエスの死体を引き取ることには勇気がいったわけです。彼は同僚の決議や行動には同意しなかった、とルカは書いています(23章51節)。彼は神の国を待ち望んでいました。マルコがこう記しているということは、このヨセフは、イエスが神の国を来たらせてくださる方だという期待を抱いていたからです。
この申し出を受けたピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思ったとあります。それは、十字架に架けられた人が何日間も生きながらえることがあるためで、それに比べるとイエスが息を引き取られたのは早いと思ったからでしょう。しかし、イエスがこの過越しの祭りにおいて十字架につけられ、死なれたことは、大いなる神の摂理のもとにあることでした。罪を贖う犠牲の小羊として主イエスは十字架で死なれたのでした。こうして主イエスは死んだ人として墓に葬られました。墓に葬られたことは、イエスが確かに死なれたことを証ししています。だからこそ復活されたのです。

2.墓は空であった
 安息日が終わって、日曜日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の婦人は、イエスに油を塗るために香料を買って、墓へ行きました。イエスはおそらく血まみれのまま急いで墓に収められたことと思われます。それゆえ、婦人たちはイエスの体をきれいにするためにやってきたのです。ところが既に墓の入り口からは石が脇へ転がしてあり、中に入るとそこには白い衣を着た若者がおりました。ルカはこの人のことを主の天使とはっきり言っております。マルコはそういうことを書きません。彼は、福音書記者たちの中で最初に福音書を書いた人です。彼は十二弟子の一人ではなく、後に使徒言行録に登場するマルコと思われますが、復活したイエスの目撃者ではなく、ペトロから詳しく話を聞いて書いたものと思われます。マルコはペトロの手伝いをしたことがあり、ローマではペトロの通訳をしたと伝えられています。このマルコは、簡潔にこの福音書を記し、いろいろと解説をつけるよりも、出来事を生き生きと描き出すことにおいて力量を発揮した人でした。簡潔でありながら、出来事の描写になると他の福音書よりも真に迫っている、と見えることすらあります。他の福音書は、マルコを参考にしながら、さらに知られていることを追加してイエスについての出来事を書き加え、そしてそれぞれの意図によってまとめていった、と言えます。
 そういうマルコは、ただ「若者」としか書いていませんが、それでもこの若者の言った言葉は、イエスが復活されたことを確かに把握している人の発言で、こういう言い方はやはり主の天使であることの証しであり、人間ではなく、すべてを見ている神の側の知識に基づいて語っていることは明らかです。また、これは福音書に共通ですが、イエスの復活の場面などは記さないのです。墓が空であること、事情を知っている若者の言葉、そしてイエスご自身の約束。これらが指し示すことによって、私たちがイエスの復活を知り、イエスを信じてその復活をも信じるようにと神は招いておられるのです。  そしてこの若者は、イエスが先に弟子たちに予告なさったように、ガリラヤで再びお目にかかれることを弟子たちとペトロに伝えるようにと婦人たちに告げました。しかし、このあと婦人たちは墓から逃げ去り、震え上がり、正気を失っていた、と言われています。しかも、誰にも何も言わなかった。その理由は恐ろしかったからであると。そうしてこの福音書は唐突に終わります。結びが二つありますが、これは後代の付加とされていますが、年代的に古いので〔 〕入りになっています。  ここで分かることは、この後婦人たちが誰にも話さなかったとしたら、イエスの復活の事実は誰にも伝わらなかったはずですが、実際、イエスの復活は、この福音書自体が伝えているように、婦人たちが主の天使から伝えられたことを弟子たちに告げることによって知られるようになったわけですし、ガリラヤに行った弟子たちは復活された主イエスに出会いました。ですから、あくまでも婦人たちが話さなかったのはある時点までです。もう一つは、婦人たちの恐がり方は、並大抵ではありませんでした。震え上がり、正気を失い、恐れていた。この恐れは、これまで誰も経験したことのない恐れでした。死んでしまったイエスが墓から復活して生きていてガリラヤでまた会える。一体どういうことか。正気を失っていたという表現は、ひどく衝撃的なことを受けて自分を制御できない状態です。茫然自失とでもいう状態です。でも、そういう状態が永久に続くわけでもありません。落ち着いてから、やはり彼女たちは伝えるべき弟子たちとペトロとに話したわけです。だからこそ、マルコもこのように記しているのです。一番初めに主イエスの復活の知らせを聞いたのは婦人たちであり、最初は怖くて何も話さなかったものの、弟子たちとペトロにそれを伝えるという大事な役目を与えられました。そして彼女たちの怖れは、大いなる喜びへと変えられました。それは、復活された主イエスと出会うことによってもたらされたのです。 3.新しい命への道  この福音書を書いたマルコは、救い主イエスの復活について簡潔に、淡々と描いています。婦人たちについては、驚きと恐れと沈黙が強調されています。しかしそのような婦人たちも復活された主イエスにお目にかかれる。そして驚きと恐れと沈黙は、感謝と喜びと伝達へと変えられました。それは全てイエスにお目にかかれた、という一点によっています。  では、私たちはどうでしょうか。この福音書を通して、私たちは、婦人たちの怖れる様子を見て、いぶかしく思うかも知れません。最初に復活の知らせを聞いた人について一番強調されているのが驚きと怖れであるとは。しかし、復活して婦人たちに出会われた主イエスは、彼女たちを新たなしい命の道へと導かれました。それまでは全く知らなかった、復活された主イエスを信じて生きてゆくというこの世での新しい歩みを与えられたのです。そして今こうしてこの世の福音書を読み、主イエスの復活の知らせをここで聞いている私たちも、じつは同じであります。もうすでに何度もイエスの復活の出来事について聞いてきた方が、ここには大勢おられます。皆さんは最初にイエスの復活について聞いた時のことを覚えておられるでしょうか。そして、イエスの復活を聞いて信じた人にとっては、それは新しい命への始まりであったことを知るべきです。  今、こうしてキリスト教会に集まってイエスの復活を記念し祝うイースター礼拝を行なっている。しかもこれは世界中でなされていることです。それは、復活された主イエスにお目にかかったからです。たとえ肉眼で見てはいなくとも、信仰において、私たちもまたイエスにお目にかかっているのです。私たちがイエス・キリストを信じるというのは、単に過去の人物として十字架にかかられたナザレのイエスという人がいた、という事実を認めるだけのものではありません。それ以上のことです。復活された主イエスが今、私たちに御自身を現してくださっています。自分の心の中だけを見て、自分の信仰はそういうものだろうか、と考え込んでしまうとよくわからなくなってしまう場合があります。しかしそういう時には、このイースター礼拝に集って、復活されたイエス・キリストを信じて礼拝している人たちのことを目に焼き付けましょう。しかも世界中でそのように礼拝が行われている。それを見ましょう。イエスが過去に生きてはいたけれども、既に死んだ人である、というだけならこんなふうに礼拝など捧げることはありません。イエス・キリストを信じて生きるとは、イエスの語られた教え=神と隣人を愛すること、を聞いて、それを行なって生きるだけではありません。新しい復活の体を得て生きておられ、私たちに働きかけておられるイエス・キリストを信じて生きることです。
主イエスは、生きておられるから私たちの祈りを聞いて執り成してくださいます。そして、アリマタヤのヨセフが待ち望んでいたように、神の国を待ち望む者としていただけます。そして実際、神の国の一員、民として神の国を目指して生きる者へと変えてくださるのです。この世に生きながら、同時に神の国の民として、栄光に満ちた神の国を目指す者へと造り変えられたのが、キリスト者です。死んだ人が復活したことを信じるなど、それは正気を失っている、ということでしょうか。使徒パウロは、あまりに熱心に復活のキリストを宣べ伝えるのでそう見られたことすらありました(使徒言行録26章24節)。しかし、パウロは言いました。私は真実で理に適ったことを話していると。人間にはおかしいと見えても、それは神の真理を理解できないからです。神は私たちに対して、私たちの罪を赦し、罪と死と滅びから救うために必要なことを、イエスの十字架と復活によって成し遂げてくださいました。愛と正義の神にとって、まことに理に適ったことをしてくださったのです。罪は罪として正しく裁く。それがイエスの十字架の死です。しかし愛と憐れみに満ちた神は、イエスを復活させ、罪に対する勝利を宣言され、罪人である私たちを神の国の民、神の子ども、神の国をこの世で目指す者へと造り変えてくださる。それがイエスの復活による恵みです。そういう新しい命に生きる者へと変えてくださいます。その恵みを信じる者は誰でもいただくことができるのです。

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