「神の前での罪状書き」2019.4.7
 マルコによる福音書 15章21~32節

 救い主イエスは、ローマの総督ピラトのもとで有罪とされ、ローマの死刑執行方法によって処刑されることとなりました。十字架で処刑される人は、自分が架けられることになる十字架の横木を背負って処刑場へと担いでゆかねばなりませんでした。ゴルゴタという所でイエスは十字架につけられたのでした。

1.十字架につけられる
一人の人が登場します。アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人です。キレネとは今日の北アフリカにあるトリポリのことです。紀元前4世紀の終わり頃から多くのユダヤ人が移住していました。彼は田舎から出て来て、とありますが、畑仕事から帰ってきて、とも訳されています。この人の二人の息子の名前が敢えて記されていることから、読者には、この名前がよく知られていたのではないか、とも言われます。実際、ローマの信徒への手紙の16章の挨拶の中に、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス」(13節)という記述があり、これがマルコ福音書で言われているルフォスではないかと言われています。ただ同じ名前に過ぎないとも言えるのですが、ルフォスという名は東方では珍しいそうです。マルコは使徒ペトロの通訳としてローマにいたことがあり、ローマの教会にどんな人がいたかをよく知っていたでしょうから、マルコがこのことを記したのではないか、と考えられるのです。
 主イエスが十字架で処刑される時に、イエスの代わりに自分の父親が十字架を担いだということは、クリスチャンになった者からすれば、決して忘れることのできない出来事となるはずです。ローマ書のルフォスが、マルコ福音書のルフォスであったとすれば、それを知っているマルコが、この記事を記すにあたって、シモンのことを敢えて書くということは十分考えられます。シモンの身になってみれば、彼は田舎から出て来たのか、あるいは畑仕事を終えて帰ろうとしていたのかいずれにしても、自分の意に反して処刑場へ向かう一人の犯罪人の十字架を担ぐことになったのですから、普通に考えればいい迷惑だったのかもしれない。しかし、イエスの様子を見ていた彼が、そこで何を思い、どんな気持ちで担いでいったかは、わかりません。ただ、ゴルゴタで十字架につけられたイエスを見て、彼がイエスを信じるようになったことも十分ありそうなことです。そして、イエスが担われた十字架を自分も担うことによって、後にイエスがシモン自身の罪を担ってくださっていたのだ、と悟ることができたのでしょう。そしてそれを息子たちに聞かせた。これはもはや想像にすぎませんが、そういうことでもあったからこそ、このシモンの名が敢えて人々に記憶されることにもなったのではないでしょうか。

2.イエスの罪状書き
 主イエスはこうしてゴルゴタに着き、兵士たちによって十字架につけられました。この一連のことは、詩編に書かれていることにいくつも重なります。兵士たちが、服をくじ引きにしたこと(22編19節)、人々が頭を振ってイエスを罵ったこと(22編8、9節)、人々が、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと(69編22節)、イエスが「わが神、わが神~」と言って叫ばれたこと(22編2節)。これらのことが、旧約聖書の詩編の中で、苦しみを受けるある人の姿を描き出すことにより、予め示されていました。そして、このイエスの十字架の出来事を中心にして、今度は時間を逆にして見れば、このずっと後の時代に生きている私たちは、先ほども使徒信条において、「主は~ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、~」と一緒に唱えました。全世界のキリスト教会がずっと唱え続けて来た信仰の告白を、今日この日に礼拝をしている私たちも唱えているのです。
 もう一つのことをここに見ることができます。私たちが神の御子、救い主であると信じ告白しているこの主イエスは、十字架の上で一つの罪状書きを付けられました。それは、ヨハネによる福音書によると、ピラトが自ら書いたもので、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました(19章19、20節)。多くのユダヤ人がそれを読んだのでした。また、これら三ヶ国語で書かれたので、ユダヤ人以外の人々も、大抵の人がそれを読めたと思われます。
 「イエスはユダヤ人の王である」という言葉は、どういう意味合いで言うかによって違ってきます。ユダヤ人の祭司長たちは「ユダヤ人の王と自称した」と書いてほしいとピラトに頼みますが、ピラトは受け付けず、書いたままにしておけ、と突っぱねています。こういう所は、ピラトはきっぱりしていました。ユダヤ人の王である、という言葉をどう解釈するかはともかく、それは決して間違いではありません。やがて世界中でイエスこそ我が主、我が王、我が救い主、と信じ告白する人々が次々と起こってきて、今日まで至っている、ということを私たちは覚えておきましょう。ユダヤ人の王どころか、世界中において主イエスを信じる者にとって、王であり、それだけではなく、目には見えなくともすべてのものの上におられる真の王であられます。
 しかし、それが罪状書きになっています。ユダヤ人の王であるがゆえに罪ありとされるのです。ピラトにとっては、イエスが政治的権力によって国を治め、ローマ帝国に対抗して国家を再興してローマ帝国の支配下から独立しようなどと企てる人ではないことが良く分かっていました。だから、「ユダヤ人の王」といっても何ら問題はない。ピラトにとってはこの罪状書きは便宜的なものであったかもしれません。ピラト自身はイエスに罪はない、と認めていたわけですから。ですから、ピラトがこのような罪状書きを敢えて書いて、「自称していた」と書くことを受けつけなかったのは、ユダや人に対する彼の皮肉であり、ユダヤ人の勢いに負けて有罪判決を下したが最後に自分の意地を見せたかったのでしょう。ですから、ピラトはそのことによって、イエスには罪がないということを証ししたのです。

3.十字架につけられたもの
 こうして、救い主イエスは真の王であられるにも拘らず、十字架にかけられ、しかもその上でこれ以上ないほどの侮辱を受けました。自分を救って十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやろう、という言葉には人間の罪の不遜さ、傲慢さが、それを言い表す時の醜い姿とともにその実態を現しています。人が人をこんなふうに侮辱することは、本当に罪深いことです。しかも人であり神である神の御子に対する侮辱です。これが人間の内にある罪の汚れであり、醜い姿です。そのような人間の罪を神の前に償うには、罪がなく、聖なる神の子がこのように十字架にかかることしか道がありませんでした。これほど酷く罪深い者たちであっても、もし十字架で死なれたイエスの姿を見て、真に悔い改めるならばその罪を赦される。それがイエスの十字架の贖いです。
 では、今読者としてこの出来事を見ている私たちはどうか。私たちの罪は、聖なる神の御子、罪のないイエスに十字架にかかってもらうほどではない、と思うなら、私たちはもはやイエスと何の関わりもない者となってしまいます。イエスの十字架の贖いがなくても、自分の罪は自分で精算できると思うなら、それこそ神の前での自分の罪が分かっていないことになります。イエスは本当に罪のないお方でした。単に政治犯としてはローマに対する反逆罪には問えないと言うだけでなく、人の罪を正しく裁かれる神の御前で罪のないお方です。ですから、十字架上の罪状書きは、罪の内容を示すものになり得なかったのです。
 では私たちはどうか。私たちの頭上にはどんな罪状書きがあるでしょうか。たとえ言葉と行動に現れなくても、私たちの内には罪があります。心の中に思い浮かべたことも、すべてそれは私たちが現実に犯した罪です。生まれながらに持っている原罪と呼ばれるものがあるゆえ、心の思いと言葉と行いにおいて罪が生じてきます。マルコ七章には、イエスが挙げられた人の罪が列挙されています(21、22節)。心の中には「殺意」、「悪意」、「ねたみ」。言葉に出るのは「悪口」、「傲慢」。行動に出て来るものは「みだらな行い」、「盗み」、「詐欺」などが挙げられています。すべての人がこの一覧表にあることを全て行っているわけではないとは言えますが、どれ一つとして自分には当てはまらない、と言える人もまたいないはずです。全ての罪を正しく裁かれる神の前で罪状書きを挙げられたら、私たちは自分の頭上に、大きな札を掲げねばならないでしょう。それは神の前にある私たちの罪の証書であり、それがある限り神による有罪判決は決して免れることができません。しかし、憐れみ深い神は、私たちの罪をキリストの十字架の贖いのゆえに赦し、その罪の証書を破棄して十字架に釘付けにし、取り除いてくださいました(コロサイ2章14節)。
 私たちは十字架そのものを礼拝の対象にはしません。しかし主イエスの十字架を信仰において仰ぎます。その時、十字架につけられた神の御子イエスを見ると共に、自分の罪がそこに釘付けにされていることをも見るのです。罪なき神の御子の十字架の苦しみを通して、神の前にある私たちの罪状書きを破棄していただきました。そして、一度その罪状書きが破棄されたなら、それは二度と私たちの罪を神の前に訴えることはありません。それでもこの世ではなお、罪の誘惑があり、罪が絡みついてきますから、信仰の創始者であり、導き手であり、完成者でもある主イエスを一層仰ぎ見つつ走り抜こうではないか、と強く勧められているのです(ヘブライ12章1、2節)。

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