「本当にこの人は神の子だった」2019.4.14
マルコによる福音書 15章33~41節

 今年もイースターを前にして、受難週を迎えました。救い主イエス・キリストが、私たちの罪の贖いのために十字架に架けられ、死なれた時のことを私たちはまた思いめぐらし、御言葉に聞き、十字架の主を仰いでいます。主イエスは、十字架につけられ、人々からは嘲られ、激しい苦しみの中で、天の父なる神への叫びの声を上げられました。そのイエスの姿を見て、「神の子であった」と告白した人の信仰が私たちに示されています。

1.わが神、わが神、なぜわたしを
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」=「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。これは詩編22編の冒頭にある、苦しむ人の叫び声です。主イエスはその言葉を口にされました。主イエスは、ご自分が神の御子であられ、神のもとからこの世に、罪人の救いのために来られたことを自覚しておられました。そうであるのに、このような絶望的な叫び声を上げられたのはなぜでしょうか。
このことについては、いろいろな解釈がされているようですが、今はそういうものをいちいち上げようとは思いません。唯一つ言えることは、主イエスは、神の御子として、真の人となられた方として、そして多くの人の罪をその身に担われた方として、体と魂に最大限の苦しみを受けられたのであり、心底からの叫びを発せられたということ。そして、その言葉の通り、十字架の上で主イエスは確かに神に見捨てられた者、という苦しみを味わわれたということです。単に詩編22編にこのような言葉があるからという理由で、それがご自分において実現していることを示すためにこの言葉を口にした、というような簡単なものではなかったということ。これは確かなことです。
この叫び声を聞いた、周りにいた人々の内には、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいました。「エロイ」という言葉の発音が預言者「エリヤ」に似ているから、ということですが、これも本当にそう聞き違えたのか、それともわざとそのように言って揶揄しているのではないか、などと言われています。
また、海面に酸いぶどう酒を含ませてイエスに飲ませようとした者がいました。これも、いくらかでも痛みを和らげてやろうとしたようにも見えますが、ルカによる福音書によると、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱した兵士たちのことが描かれていますので、少しでも生きながらえさせて苦しませるためだったとも言えます。これも詩編69編22節で「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします」と言われている箇所を映し出しています。

2.神殿の垂れ幕が真っ二つに
 こうして最後の時を迎えられた主イエスは、大声を出して息を引き取られました。すると神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とあります。エルサレムの神殿には垂れ幕が二つありました。一つは聖所の入り口に、もう一つは至聖所の入り口にありました。聖所は通常祭司がそこで犠牲を献げる所です。第一の幕屋とも言われ、燭台、机、備えのパンが置かれていました(ヘブライ9章2節)。至聖所は、聖所の奥にある正方形の部屋で、年に一回だけ大祭司がすべての国民のために犠牲を献げて贖いの儀式をする場所です。そこには金の香壇、契約の箱が置かれていました(同4節)。
主イエスは、御自身を十字架で贖いの供え物として献げられました。それまでは大祭司が犠牲の供え物を携えて入っていった至聖所に、イエスはご自身の血を携えて入って行かれた、ということです。それによって、私たちの罪の贖いがなされました。ですから、イエスが息を引き取られた時に、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、至聖所に至る道をイエスが開いてくださって、私たちの罪の贖いを完全に成し遂げてくださったことのしるしとしての出来事だったと言えます。また、神殿の幕が裂けたということは、もはやそれまでの神殿の役目を果たせなくなるということですから、神殿はもう必要ないということのしるしでもあります。
 イエスの十字架の死は、このようにイスラエルでずっと行われてきた罪の贖いの儀式に終わりを来たらせたのでした。そして、イエスの十字架の贖いによって、イエスを信じる者は誰にでも罪の赦しが与えられる道が開かれました。

3.息を引き取られたのを見て
 このようにして、救い主イエスは死なれました。その様子を見ていた百人隊長が、「本当にこの人は神の子だった」という信仰告白をします。ローマの百人隊長は、日頃イスラエル人と接触する機会がいろいろあり、福音書と使徒言行録に時折登場します。イスラエルの宗教についてある程度の知識があった人もおりました。この百人隊長がどれほどの知識をもっていたかはわかりません。しかし、異邦人である百人隊長がイエスのことを「神の子だった」と言ったということは、ここではユダヤ人たちの言葉との対比で見ると、非常に鮮やかにその事実が浮かび上がって来るのです。15章32節にありますように、ユダヤの人たちは、イエスが十字架から降りてきたら信じてやろう、という侮辱の言葉をイエスに投げつけました。しかし、この百人隊長は、イエスの死なれる様子を見て、神の子であると信じ、告白したのでした。
また、ここに出て来る女性たちにも注目したいものです。彼女たちはガリラヤにイエスがおられた時にイエスに従って来て世話をしていた人々や、エルサレムに上ってきた婦人たちでした。逃げてしまっていた弟子たちがどこで何をしていたかは記されませんが、婦人たちは遠くからでありますがイエスを遠くから見守っていました。教会の中での婦人たちの立場は、男性の下に位置付けられていたと言えますが、今日、私たちの教会は婦人たちの務めの幅を広げました。イエスの死の様子を見守っていた婦人たちのことを私たちも改めて心に留めましょう。
 さて、このマルコによる福音書では、イエスのことを「神の子」として示していたのは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時(1章11節)、汚れた霊であるレギオンがイエスに懇願した時(5章7節)、山上でイエスの姿が変わった時に雲の中から神が呼びかけられた時(9章7節)、そして大祭司から尋問を受けられた時、お前はほむべき方の子かと問われてイエスご自身がそれを肯定された時(14章62節)です。それらは、天からの神ご自身の声か、イエスご自身の言葉か、悪霊の言葉でした。つまり、誰か人間の言葉としては、発せられていなかったのでした。
 人間の告白としては、ここが初めてということになります。これまでにもイエスは多くの奇跡をなされ、悪霊を追い出し、神の御子としての力を見せて来られました。しかし、そのようなことではなく、十字架で息を引き取られる姿を見て、百人隊長はイエスを神の子と認めたのです。十字架で死なれる、という出来事がこの百人隊長にイエスが神の子であることを証ししました。イエスは確かに多くの奇跡をなさり、それもまた神の子であることの証しであるには違いありません。しかし、神の御子であるイエスの本来の目的は、神の全能の力によって奇跡を行ない、それによって人々を驚かせ、圧倒して信じさせるということではなく、人間として捕らえられ、十字架に架けられることを通して、ご自分が神の子であることを知らしめることだったのです。それは、今日の私たちが、今のこの時代に奇跡を見せてもらえたら信じよう、という態度で主イエスを見るのではないことを表しています。それを求めるのは、十字架から降りてきたら信じてやろう、という態度と同じです。
 そして、神の子が神の力を発揮されるのは、私たちの中においてです。頑なな私たちの心を砕き、十字架のイエスを仰ぎ見て、その前にへりくだるようにしてくださる。それをしてくださるのが神の御子イエスです。だから私たちは、主イエスの十字架を仰ぐことによって、イエスを神の子であると信じる信仰者が生じるのだ、と信じてイエスを主と信じて従い、本当にこの方が神の御子であるのだ、という信仰を告げ知らせるのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1章18節)。

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