「神に育てられて成長する」2019.3.31
 コロサイの信徒への手紙 2章6~19節

 今日は、今年の年間標語である、「神の家族として生きる」に関連してお話をします。標語聖句はエフェソの信徒への手紙2章19、20節です。私たちが聖なる民に属する者であり、神の家族である、という教えです。土台は使徒や預言者であり、かなめ石はキリストイエス・キリストご自身である、と続いています。そしてその建物全体は組み合わされて成長する、と言われています。それで、神の家族として集められている私たちが、キリストにおいて組み合わされて成長する、という点に焦点をあて、別の手紙であるこのコロサイ書において同様のことが教えられている箇所から、神の御心を学びたいと願っています。

1.教会の頭であるキリストに結ばれて歩む
クリスチャンとされた者、キリストによる救いを信じて信仰を告白して洗礼を受けた者は、キリストに結ばれた者です。この六節以下には、私たちとキリストとの関係が、実にいろいろに表現されています。「キリストを受け入れた」(6節)、「キリストに結ばれて」(同)、「キリストに根を下ろして」(7節)、「キリストに従う」(8節)、「キリストにおいて満たされている」(10節)、「キリストの割礼を受け」(11節)、「キリストと共に葬られ」(12節)、「キリストと共に復活させられた」(同)、「キリストと共に生かしてくださった」(13節)、「キリストの勝利の列に従えて」(15節)、「頭であるキリストにしっかりと付いて」(19節)、など、じつに11種類の言い方がされています。それだけ、キリストと私たちの関係は豊かなものであり、簡単に一言だけでは表現し切れないものがある、ということです。それがキリストを信じた者に与えられているキリストとの関係なのだとまず覚えておきましょう。
そして、今列挙した事柄の中には、実に大きなことが特に二つ挙げられています。「キリストにおいて満たされている」(10節)ことと、「キリスト共に復活させられた」(12節)ことです。この二つは、私たちのいわゆる五感で感じられるかどうか、というものでありません。キリストにおいて満たされている、とか、キリスト共に復活させられた、ということは感覚的に分かるものではありません。それは唯信仰によって受け取るものです。キリストと共に復活させられた、と言うからには、キリストが十字架で死なれたように、私たちも既に一度死んだ者であるはすです。「罪の中に死んでいたあなたがた」(13節)とある通りです。もちろん文字通りに肉体が死んだわけではありません。そうではなく、それまで神に向かうことをせず、知らず知らず自分の思うままに生きていたこと、そして神を主と知らず、認めずに生きていたこと、そのように生きていることを聖書では、罪の内に死んでいる、と言うのです。
そういう状態からキリストの恵みによって救い出されて神を信じる者として生きるようになったのは、神がキリストによってその人に新しい命を注ぎ込んでくださったからで、それは、古い人が死んで新しい人に復活したということです。それはただ抽象的に言われているのではなく、本当に神によって内側から新しくされています。ただ気分が変わったとか、気持ちを新たにして人生に取り組み始めたという程度のものではありません。自分の思いや努力や希望などによっているのではなく、自分の力や思いを超えた所で神の力強い働きに与っている、ということなのです。

2.キリストのお働きに信頼しゆだねる
 そのようにキリストに結び付けられて新しい歩みを始めた者は、信じる者たちすべての頭と言われるキリストのお働きに信頼した歩みを始めます。キリストはすべての支配や権威の頭であると言われています(10節)。ここでは言われていませんが、キリストは教会の頭であられ、すべてのものの上におられるお方です(エフェソ1章22節)。キリストを信じた者は、キリストがその人の頭となってくださり、その人をキリストの体の一部分としてくださいます。頭は全てのことを見ておられ、考えておられ、支配しておられ、その頭につながるものを生かし、用い、他の部分とも連携させて働いてくださいます。この頭であるキリストにしっかり付いていることが、この世で私たちが生きるに当たって、非常に大事なことです。そうでないと、この世にある様々な事によって惑わされてしまうからです。
 8節に、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」とあります。これは一見すると、この世にある「哲学」というものすべてがみなだまし事であるかのように誤解されやすいかもしれませんが、そういうわけではなく、それが人間の言い伝えにすぎず、人をだまし惑わすだけで、人をとりこにするだけのもの、そういうもののことを言っています。人々の言い伝えに過ぎず、世俗的であり、人間から出たものであり、特にこの世界を成り立たせている諸元素についてのものだったと言われています。
確かにこの世には実に多くの思想や哲学、人生観・人生論などがあります。この世の生活をよりよく行なってゆくために必要な知恵というものはありますが、私たちの存在とか、命、正義、真理、といった問題になってくると、その教えがどのような土台に立っているかということは、私たちがそれにより頼んで、それに沿って生きてゆくかどうか、という問題になってきますので、やはりここで言われているように、人のとりこにされないように気を付けねばなりません。この2章8節にありますように、世を支配する霊、と言われるものがあり、結局のところそれらは神による真理から目を逸らせてしまうことになります。常にキリストに根を下ろしているように、教えられた信仰をしっかり守るということ。私たちもこれに聞かねばなりません。

3.全体が神に育てられて成長する
こうして使徒パウロは、コロサイの教会の信徒たちにこと細かく忠告を与え、指示をします。懇切丁寧に教えていることがわかります。それは、せっかくキリストに結ばれた者が、キリストに根を下ろさずに、人のとりこにされて騙されることがないようにと願っているからです。
今年の標語聖句にあったように、私たちはキリストを信じてキリストに結ばれたなら、神の家族とされたのです。神の家族とされた者は、神の住まいとされたのであり、神がその家を治めておられます。そうである以上、神はその住まいである私たち一人一人を育てて成長させてくださいます。神は優れた教育者であられます。私たちを造られた方ですから、私たちのことを私たちよりもよく知っておられます。その方が私たちを育ててくださる。しかし私たちは神様ほどには賢くありませんので、神のなさるやり方が時に理解できないことがあります。また、それだけでなく、私たちには、神の住まいとされて神の家族の一員とされてからも、この世ではなお罪があります。すると、人間の罪と弱さのゆえに、神が育ててくださっている道筋の中で、それを妨げているのではないか、ということすら起こってくるわけです。神が良い方へと育てようとしているのに、それを邪魔したり、妨げたりしているようにさえ見える。
しかし、たとえそのようなことがあるとしても、それで神はご自身の家族である者を育てそこなったと言えるのでしょうか。神は、ご自身の家族である者を様々な手段で育て、最終目的地である、完成した神の国へと導いておられます。そこに至るまでは、本当に産みの苦労がついて回ります。もちろん神は人間のように苦しむわけではありませんが、人間的な言い方をすれば、神は私たちを育てるのに苦労しておられる。時にはてこずっておられるかもしれない。しかしそれでも、神は私たちの思いをはるかに超えた知恵と力と忍耐と愛に満ちたお方です。その神様は、種々の方法によって私たちを育てなさいます。その神様の育て方に身をゆだねるべきです。そのためには私たちもまた今日の聖書箇所が教えている通りに、御言葉の教える所に常に耳を傾けている必要はあります。そして祈ることが欠かせません。そして公同の礼拝に特に与ることが必要です。
しかし、人間の罪と弱さのゆえに、また様々な事情のゆえに、それがなかなか適わない状況にある人がいることもまた事実です。そのような人のためにも私たちは、すべての支配や権威の頭であるキリストに一層より頼まねばなりません。もし、私たちが恵みの手段をよりよく用いることにすべてがかかっているとしたら非常に大変です。しかし、手段を神は自由に、御心のままに用いてくださいます。私たちの内に信仰と愛と熱心をも与えておられるのは神です。そのことを思い出しましょう。
また、成長ということも、目に見えて分からない場合もあります。年を取っていても、主にあっては人には見えない部分で成長していることがあるはずです。人間的に見れば衰えていくばかりですが、信仰においては成長している。神がそのように育ててくださるからです。
信仰に至ったのも、今、この世で今の状況で生きているのも、神の恵みです。神とその恵みの御言葉にゆだねられたのが私たちです。神の家族として自分自身が、そしてともに家族とされた者が、神に一層育てられてゆくように、神の恵み深い御業と助けと導きを祈り求めましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節