「ほむべき神の子、キリスト」2019.3.3
 マルコによる福音書 14章53~65節

救い主イエスは、その使命を果たすべく、ゲツセマネでの苦闘のような祈りから立ち上がられ、ユダを先頭にご自分を捕まえに来た者たちに身をゆだね、大祭司の所へ連れて行かれました。今日は、イエスに対してユダヤの最高法院が死刑の決議したことが示されます。そしてそこでイエスがどのようなお方であるかが明らかにされているのです。

1.最高法院でイエスを裁こうとする人々
祭司長、長老、律法学者という人たちは、ユダヤの公的な指導者たちで、ユダヤの最高法院の全員が集まりました。ユダヤの最高法院は、最高の議決機関ですが、宗教的な権威を持つものです。ユダヤにおいては神の律法が社会全体を律していましたから、社会の営み全体に関わることも宗教的なことも、民族全体に関わることも、神の律法がその基準となっていました。私たちが手にしている旧約聖書の特に創世記から申命記までの五書に記されているものですが、特に出エジプト記から申命記までに、道徳律法、儀式律法、司法律法が書かれています。
イエスを捕らえた人々は、律法に照らしてイエスを裁こうとするのですが、この集まりが正式な裁判であったかどうかは疑わしいものです。一つには、はじめからイエスを死刑にしようとすることを目的としてしかも不利な証言を求めようとしていたこと、もう一つは、出て来た証言は皆食い違っており、証言として役に立たなかったにも拘らず、イエスの言葉だけを捉えて死刑にすることに決定した、という点です。最も当時、ユダヤでは人を死刑にする権限がローマ帝国によって奪われていましたので、彼らは15章にあるように、後でローマ総督の所にイエスを引いて行きます。彼らがその前に最高法院を招集してイエスを死刑にする決議をしたのは、神の律法に照らしてイエスは死刑に値することを確認しておきたかったからです。たとえ正式に死刑にする判決をローマ帝国に求めなければならないとしても、自分たちに与えられている律法によってイエスは死刑にすべきである、と決議したかったのです。
彼らにとっては、イエスがどういう方であるかを本気で調べるつもりはなく、とにかく死刑判決をし、イエスを亡き者にしたいというだけです。先に死刑判決ありきの最高法院の会議でした。正統性に乏しいものであるにも拘らず死刑判決が下されたのは、イエスがこれまで予告して来られたことが実際に起こるためでした。

2.ほむべき神の子、キリスト  大祭司は、お前はほむべき方の子、メシアなのか、と尋ねます。ほむべき方、とは神のことです。これは、もしイエスが同意すればそれが死刑判決の証拠となるからこのように訪ねたのです。自分を神の子であると証言すれば、それは自分を神と等しいものであるということになりますから、それは神を冒瀆することだ、という理屈です。彼らにとっては、イエスを本当に神の子であると信じるつもりは初めからありませんから、その証言だけ引き出せば十分でした。イエスが神の子であるはずがない、と決めつけているからです。  イエスは、はっきりとその問いに肯定されました。しかも、ご自分が全能の神の右に座り、天の雲に包まれてやがて再びこの世に来る、と言われたのです。人が全能の神の右に座る、などということはユダヤ人にとってはあり得ないことです。そして、そのようなことを自分について言う者がいれば、そんな者は嘘偽りを述べていることが明らかだと考えます。彼らは、イエスからその通りの言葉を引き出したので、してやったりと思ったことでしょう。
 所でイエスは、エルサレムに上られる前は、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒めておられました(8章30節)。その時、弟子のペトロは、「あなたはメシアです」と告白しましたので、そういうことを人に言わないようにという戒めです。しかし、今やイエスはご自分のことをはっきり証しされました。主イエスは、ただ時流に身をゆだねてご自分をユダヤ人に引き渡されたわけではありません。全てを支配しておられる全能の神のもとから遣わされた方ですから、相応しい時を弁えておられます。ご自分が進む十字架への道のりを確実に進んでゆかれます。もしこの時に至る前に、ご自分が神の子キリストだと明らかにしていたらどうだったでしょう。多くの奇跡を行なうイエスこそ、神が遣わす救い主キリストだと殆どの群衆が信じることで、祭司長や長老たちは、もはや手出しできなくなっていたかもしれません。しかしイエスはそうされませんでした。ご自分がこの時に捕えられるべきことをご存じなので、今この時にはっきりと証しされたのでした。イエスは主であられます。ご自分の意に反してユダヤ人たちの力によって捕らえられているかのように、人からは見えても、実はご自身で成り行きを見極めておられたのです。

3.手で造らない別の神殿
 順番は逆になりましたが、主イエスについていろいろな証言をした人たちの中に、「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち壊し、三日あれば、手で造られない別の神殿を建ててみせる」と言うのを聞いたという人がいました。この証言も複数のものがありましたが、食い違っていました。確かに主イエスが似たようなことを言われたことはありました。「この神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせる」(ヨハネによる福音書2章19節)。しかしイエスに対する告発をしている人の言うこととは違います。イエスの言われた「この神殿」とは、ご自分の体のことでしたし、「手で造ったこの神殿を打ち壊す」とは言っておられないからです。そういう意味ではこの証言も間違ってはいたのですが、しかし、イエスを告発して陥れようとしたこの証言は、内容的にはイエスが実現しようとしておられることに近いことを言っていたのです。主イエスは、ご自分の体を神殿に譬えて言われました。そして、イエスは、十字架で殺されはしますが、三日目に復活されました。人の手によらない神殿を建てたと言われるのはそのことです。
 イエスは神の御子であり、その内には神の聖霊がおられるのですから、イエスこそ神の霊の宿られる神殿というのはその通りです。そして、主イエスは、イエスを信じる者の内にいてくださるとも約束してくださいました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人の所に行き、一緒に住む」(ヨハネ福音書14章23節)。
 イエスはほむべき神の子であり、メシア=キリストです。神によって立てられた私たちのための救い主、罪からの贖い主です。この方が私たちのうちにも住んでいてくださる。このことは、私たちの感覚や知識や経験では把握できません。唯信仰によってそれを受け入れ信じる時に、主イエスは本当にそのことを明らかにしてくださいます。
 イエスがお生まれになるはるか昔、預言者エリヤは、偶像の神バアルを信じる多くの預言者たちとの戦いの後、バアルを信じる時の王アハブと妃イゼベルに命を狙われ、荒れ野に逃れていました。その時、主は御使いを遣わしてパン菓子と水を与え、まず体を力づけてくださいました。そして山で静かな小さな声で語りかけてくださいました。その前に、激しい風や地震、火が起こされましたが、神はその中にはおられなかったのです(列王記上19章1~18節)。しかし主は小さな声で語りかけ、御心を示してくださり、エリヤを助け、守られることを約束されました。
 私たちも、何か華々しいものの中に神を認めようとするのではなく、信じる者の魂の内にいてくださる主イエスの御言葉に耳を傾けましょう。それは、御言葉を読み、また聞き、それを心のうちに覚えて深く留め、そして祈ることです。祈ること、それは主イエスの御名を信じて主を呼び求めることです。呼び求める者に主イエスは答えてくださいます。その答えとは私たちのうちに、主イエスは確かにいてくださる、という確信がまず与えられることです。主イエスの御名によって祈り求める者を、主イエスがずっと放っておくことはありません。主イエスのもとに来る者には、順番待ちで疲れさせられることはありません。信仰の経歴や年数で、祈りを聞いてくださる優先順位が決まるわけでもありません。神の御子イエスは、全能の神の右におられます。つまり、全能の神の力を持つ神と等しい方だから、私たちの罪を担うことが出来るし、世界中の人の祈りを同時に聞いて父なる神にとりなすことができるのです。
  イエスは人としてはみじめな死に方をされましたが、三日目に復活され、栄光の体を受けられました。そして私たちにも同じ素晴らしい祝福を用意していてくださいます。イエスの御言葉は真実です。期待を裏切りません。この世ではいろいろな忍耐が必要な試練や困難なことがありますが、それに忍耐する力をも与えてくださいます
そういう意味ではこの世での私たちの生活には少々の苦難がついてきます。人間としてみれば、中にはとても重い苦難や試練を受ける人もいます。それでも、永遠の命の祝福、もう罪を犯さずにいられる罪を清められた祝福、神を見ることさえできる神の国の祝福に比べれば、それらは軽い患難である、と使徒パウロも言っています(コリントの信徒への手紙二 4章17節)。神の御子であるのに主イエスが受けられた苦難を思い、それは私たちを罪と死と滅びから救うためであったことを改めて覚え、ほむべき神の子、イエス・キリストによって神をほめたたえましょう。
神をほめたたえることは、特に主の日の礼拝で行いますが、それ以外の所でも、私たちの生活において食べるにも飲むにも何をするにしても神をほめたたえることで、それは私たちが生涯をかけて続けていくべきことです。人々が十字架に付けた主イエスこそ、神から離れて自分の思うように生きて来た私たち人間の罪を償い、罪の赦しを与えて下さる方だと信じ、従う心でほめたたえるのです。主イエスが十字架で死なれ、そして復活されてから、世界中で主イエスを仰ぎ、自分の主と信じてきた人たちが、どれほど大勢いることでしょう。そうして主をほめたたえる者は、その人自身が神の神殿とされている、と言えるのです。そうして神をほめたたえる人は本当に幸いです。

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