「群衆の要求か神の御心か」2019.3.24
 マルコによる福音書 15章1~20節

 救い主イエスは、ユダヤの最高法院によって、死刑にすべきであると判決をくだされ、ローマの総督ピラトのもとに引き立てられてゆきました。ユダヤの祭司長たちは、ローマ帝国の権力によって、正式にイエスに対する死刑判決を下してもらうためにピラトのもとに行ったのでした。今日の箇所には、宗教的にはユダヤの指導者たちによって有罪とされた救い主、神の御子イエス・キリストが、この世の国家権力のもとでも有罪とされ、群衆からはただ殺すように要求される、という状況が描き出されています。罪のない、正しい方である神の御子、メシア=キリストである方が、あらゆる方面から有罪であるとされます。イエスを有罪とする人々の内にはいろいろな思惑があります。そういったものが折り重なってイエスを有罪とし、十字架へ追いやります。しかしその背後には、はっきりとした神の御心があり、それを実行される神の御子の揺るぎない姿があります。

1.ユダヤ人の王なのか
ローマ人は通常、日の出の後間もなく裁判を始めたということなので、ユダヤ人たちは夜が明けるとすぐに最高法院で相談した後にイエスをローマ総督ピラトのもとに引いて行きました。イエスをローマ総督に引き渡して死刑判決を受けるためには、イエスは政治犯である、ということがピラトに認められねばなりません。単にユダヤ人の宗教上の問題で、イエスがユダヤ人の神を冒瀆した、という訴えではピラトから有罪判決を引き出すことが出来ないのをユダヤ人たちは知っていました。ユダヤ人の宗教上の問題にはピラトは関心がなく、そういう問題はユダヤ人が自分たちで裁けばよいと思っていたからです(ヨハネ18章31節)。ローマの総督たちは大体そのように考えていたと思われます(使徒言行録18章15節)。
マルコの記述だと、ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」という質問をなぜいきなり発したのかよくわかりませんが、ルカによる福音書の記述では、イエスを訴えた人々が、イエスは「皇帝に税を納めるのを禁じ、自分が王たるメシアだと言っている」とあります。そういう訴えがなされたので、ピラトはイエスに対して質問したのです。
しかし、イエスの答えからは曖昧な印象を受けます。「それはあなたが言っていることです」という言い方はどちらにも取れそうに見えます。イエスがユダヤ人の王であるか、ということは、神が遣わされたメシア=救い主として王であられる、という点からすれば真実です。しかし、ピラトが考えているような世俗の国家権力者としての王かといえばそれは違います。ですから、主イエスのこのような答えは、イエスが真にどういうお方なのかということと、ピラトのような人が考えていることが食い違っていることを示しているのです。

2.妬みのために
 しかし、主イエスは祭司長たちがいろいろと訴えていることについては、もはや何もお答えになりませんでした。ピラトは、この問題はローマ帝国の存在を脅かすようなものではなく、ユダヤ人の宗教上の問題だと見抜いていました。祭司長たちがイエスを引き渡したのは妬みのためと分かっていました(10節)。ピラトには、この事件は国家の危機と言うような認識は全くなく、イエスには政治犯的な面はないと判断していました。そして、イエスがいろいろ訴えられていてもこのように落ち着いた態度を取っていることを不思議に思ったのでした。
 群衆は、祭司長たちに扇動されていましたから、習慣に従って、バラバという囚人を釈放してほしいと要求し始めます。群衆は、祭司長たちの扇動に乗っかってイエスを十字架につけさせる、という方向へ突き進んで行きます。もはやイエスがこれまでして来られたことを顧みることもしない状態になっていました。彼らの考えの中には、イエスは自分を王とするのだから、ローマ帝国への反逆者であり、もしイエスがそのまま活動を続けたら、多くの人々から支持されているイエスと共に、ユダヤ人はローマ帝国への反逆者とされ、厳しい弾圧を受けるかも知れない。それは避けたいことだから、祭司長たちの扇動に従ってイエスを死刑に処してもらおう。そうすればユダヤの一般大衆は、ローマ帝国に対して反逆など企てることのない従順な民なのだ、と認めてもらえる、という思考が働いたのかもしれません。そこまで深く考えていたとも思えないのですが、なんとなくそういう雰囲気に乗せられていたということは考えられます。
これに対するピラトの対応は、ピラトという人を示しています。彼は祭司長たちの思惑を妬みのためと見抜いていましたが、イエスは無罪である、という自分の判断を貫くことはせず、群衆を満足させようと思って(15節)バラバを釈放したのでした。このピラトという人は、頑固で残虐な一面を持つ人であり、反面臆病者であったと言われています。もともと反ユダヤ的な一族のもとに育ち、ユダヤ人の反感を買う行動を取ったり、弾圧を行なったりしたようです。ピラトは、ローマの軍隊をエルサレムに入場させる時にわざわざ皇帝の肖像のついた旗を掲げさせたり、神殿の金庫から金銭を取り出してエルサレムの水道工事に当てさせたりした、ということです。ルカによる福音書には、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた、と言われています(13章1節)。そういう血生臭いことをやる人だったのです。そういうピラトであったにも拘らず、ユダヤ人の指導者たちは、イエスを彼の手に渡して死刑判決を得ようとしたのです。イエスを死刑にするためだったら何でもするという考えが見えてきます。
祭司長たちや群衆が求めた十字架刑は、ローマ法による死刑の中でも最も残酷なものです。それはローマの市民権を持たない者が、ローマ皇帝あるいはローマ帝国に対して反逆罪を犯した場合、適用された刑罰でした。ユダヤ人が、同じユダヤ人に対して、このようにローマのような異教国の刑罰を、しかも極刑を要求したのです。そして判決を下す権限をもつピラトは、群衆を満足させようとしてイエスを死刑に処することに決めたのでした。他の福音書によれば、ピラトは、もしイエスを無罪にするなら、ローマ皇帝に背く者を釈放することになり、それではピラトはローマ皇帝の友とは言えない、と迫られた様子が描かれています(ヨハネ19章12節)。そうしてイエスを十字架刑にするために引き渡したのでした。結局、権力の座に着く者が、その立場を守るために、群衆の気に入るようにしてその場をおさめたということです。

3.群衆の要求のもと、神の御心が実現する
 そして、兵士たちはイエスに、王の象徴である紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせ、棒で頭をたたいたり、唾を吐きかけたり侮辱して拝んだりしました。こうして彼らは、自分たちが自覚することなく旧約聖書が預言していたことをイエスに対して行ったのでした。苦難を受ける僕についての預言です。「打とうとする者には背中を任せ、~顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ書50章6節)。
 このようにして、罪のない神の子は十字架にかけられることになりました。繰り返しますが、ユダヤ人が同胞であるイエスをローマ人に訴えてローマ式の最も残酷な刑罰を求め、群衆は指導者たちに扇動されて神の御子を十字架につけよ、という叫び声をあげて権力者に迫り、その場での最大の権力を握っていたはずのローマ人総督が群衆の要求に屈して保身のためにイエスを引き渡し、何も考えていないであろう兵士たちは神の子を侮辱して引き出したのです。
 そして、それら一連の人々の行動が向かう方向を、群衆が発した「十字架につけよ」という叫びが一切集約しているかのようです。その中に立たされていたイエスは、ここではもはや何もお語りにはならず、静かにご自分の身に起こっていることを受け入れておられます。
なぜでしょうか。主イエスはそのためにこの世に来られたからです。神はご自身の御心を悪しき者たちの思惑が実現されてゆく中ででも行うことがお出来になります。人間は、神にでもなったつもりのように自分の考えを実現できるかのように錯覚している時があります。逆に、神に従順でありたいと願いつつも自らの内にある罪と弱さ、怠惰のために神の御心を妨げているのではないかと不安に思ってしまうこともあります。それでも神は御心を成し遂げられました。私たちはへりくだって、神の御心がなるように祈り願います。そして、私たち自身も、この世では罪ある者でありますが、神の御心を行なう者としていただけるように祈ります。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と。この祈りは主イエスが私たちに与えてくださいました。この祈りが私たちに必要であるとよくご存じの神の御子が教えてくださいました。だとしたら、この切実な願いを、必ずかなえてくださるのもまた神の御心であることを知りましょう。「イエスを十字架につけよ」という、忌まわしい叫び声を発する罪人を、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る者に造り変えてくださるのもまた神の御心なのです。私たちをもその恵みに与らせてくださるのが救い主イエス・キリストであります。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節