「神は先立って進まれる」2019.3.17
 詩編 59編2~18節

 旧約聖書の一つの書物から一ヶ所ずつ選んで毎月お話ししてきましたが、今月は詩編からです。150編もある詩編ですので、迷いだしたらきりがないと思いましたが、早くに決まり、この59編特に11節を中心にお話しようと考えました。「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます」という一言の中に、大変深い意味が込められています。

1.ご覧ください、主よ
その11節に目を留める前に、いくつかのことに触れておきます。この作者は、自分の命を狙われている危機的状況に置かれています。初めにある小さな字の表題は、必ずしも歴史的な事実をそのまま述べていなかったり、その詩の背景を伝えているとは限らないのですが、サウルがダビデを殺そうとした時のことだ、としています。サムエル記上19章などにそれに関する記事があります。
真にダビデのものかはともかく、ここには切実な一人の信仰者の主に対する訴えがあります。まずこの作者は、主に対して「御覧ください、主よ」と訴えています。自分の命を狙って争いを仕掛け、陥れようとしている者がいることを見てください、と言うわけです。しかし、もちろん主は初めからすべてのことを見て知っておられます。この作者も、そのことを知らないわけではありません。あたかも神は見ていないかのような言葉もあります。「目覚めてわたしに向かい、御覧ください」と。神は眠っているかのような言い方ですが、もちろん作者は神が人のように眠ってしまっていて、自分の窮状を全然見ておられない、と本当に思っているわけではありません。主は全てを見ておられますが、時に人の目からみると、主はただ黙って事の成り行きを静観しているだけではないか、と思いたくなるようなことがあるからです。ご覧ください、目を覚ましてください、という訴えは、どうか主が今こそ御手を伸ばしてこの窮状から救ってください、という切実な願いの現れです。同じ詩編で、「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない」と言われています(121編4節)。主は見ておられないのではなく、御覧になって、行動に移すべき時を知っておられます。その時までは、人から見れば静観しているかのように見えるのです。

2.私に対して慈しみ深い神
11節で作者が歌っているように、神は慈しみ深い方です。しかしこの作者にとって大事なことは、神はただ一般的に慈しみ深いというのではなく、「私に対して」慈しみ深い方であるという点です。主は、かつてモーセに対して告げられました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と(出エジプト記34章6、7節)。このことは真実です。しかしその慈しみ深い神が、「私に対して」慈しみ深い方としていてくださる、ということが肝心な点です。自分の命を狙われている、というひどい状況の中でも、神は私に対して慈しみ深くいてくださると言えるのは、この人にとって、本当に神が真実な方であり、これまでイスラエルを導いて来られたように、私にも慈しみを注いでくださる、という確固とした信仰があるからです。その慈しみ深い神がしてくださることが、先立って進んでくださるということでした。このことを、11節から見てゆきます。

3.神は先立って進まれる
昨年秋に新しい翻訳による聖書が日本聖書協会から発行されましたが、いくつかの翻訳を比べてみたりしていると、訳の違いに気づくことがあります。この11節は、以前から気づいていた所ではあるのですが、「先立って進まれます」の部分が、二種類に訳されています。この新共同訳のように、神が先立って進んでくださる、という訳と、もう一つ、こちらの方が多いようですが、「神が私を迎えてくださる」という意味に訳しているものです。普通に考えると、この二つのことは、別のことのように見えます。最初気づいた時に、なぜこれほどに意味が違う訳になるのかと思いましたが、調べてわかったことは、この「先立ってゆく」という言葉には、「前を行く、先回りする、出くわす」といった意味があるということです。目的地があるとすると、そこへ向かって先立ってゆく、先導してゆく。そして先に着いて、出迎えてくれるのです。先に行っているからこそ、出迎えることができます。
これは、神と私たちとの歩みを実によく描き出していることではないでしょうか。先立って進まれるというのは、もちろん詩的な表現です。神は、私たち人間のように場所や時間に縛られている方ではありません。いちいち人間のように今いる所から、時間をかけて空間を移動して別の場所に移らなければならないわけでもありません。しかし、場所や時間に縛られている私たちのもとに来て下さって、私たちの日々の歩みに伴ってくださり、先立ってくださるのです。神は先に何が起こるかも見通しておられます。人の歩む道のその先に何が起こるかをご存じです。どんな状況に置かれて、何が起こるのかを私たちは知らないけれども、またどんなに行き詰まっているように見えても、主は先立って進み、予めそこで出迎えてくださるのです。私たちはこの世に生きていると、時にどちらにも進めないのではないかと思いたくなることがあるのではないでしょうか。また、進路を選択した時、その道を歩いてゆく自分が、進みだす前と同じ思いを維持していられるかどうかも不確かなものです。揺るぐことのない決心をもって歩み始めたはずなのに、挫折しそうになることは、誰にでもあることです。しかし、主である神が先立って進んでくださる。そして言った先で出迎えてくださる。私たちは先行きのことを見通せませんが、神は見通しておられます。その神にゆだねることができます。
しかしここで少し他の箇所で言っていることに目を向けてみると、かなり激しいことを語っていることがわかります。この人を陥れようとする者、悪を行なう者、流血の罪を犯す者、欺く者、口から剣を吐く者、そういう者たちに対する裁きを求める言葉は非常に激しいものがあります。今日の私たちからすると、そこまで言うのか、と思うような言葉遣いでもあります。確かにそう願いたくなるほどのひどい者たちだったということと、今日の私たちは、同じように復讐を求めることはせず、ただ神にゆだねるのみである、ということだけを言っておきましょう。
そして、どれだけ時代や状況は変わろうとも、神は「私に慈しみ深く」、先立って進まれます、という信仰を告白する者たちは、いるのです。なぜなら、神がご自身を慈しみ深い者として現してくださる者たちが必ずいつの時代にもいるからです。荒野をモーセに率いられて旅をしたイスラエルの民も先立つ雲をもって導いていただきました(出エジプト記13章21節)。主イエスが捕えられた時、弟子たちは逃げてしまいましたが、それを見越しておられた主イエスは、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われました。つまずいて、散らされてしまったかのような弟子たち、主イエスを残して逃げてしまった弟子たちでしたが、そういう者たちに対しても、先立ってゆく方となっておられたのです。それは弟子たちに対しての深い慈しみをもっておられたからです。その同じ主が私たちに対しても慈しみ深く先立って進んでくださっています。そして、預言者イザヤは主の御言葉をこのように告げました。「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(52章12節)。主はずっと先に行ってしまったと思ったら、実は後ろも守っていてくださったのです。私たちが困難の中でどうしたらよいかわからないでいる時に、主はすでにそこおられ、先回りして先手を打って備え、私たちを迎えてくださるのです。私たちは、ヤコブのように「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世記28章16節)と言うことになるでしょう。私たちの弱さと罪をご存じの方が、その罪をも神の御前で償ってくださり、神の国の子供として迎え入れてくださる。その約束が与えられています。

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