「ペトロ、イエスを知らないと言う」2019.3.10
マルコによる福音書 14章66~72節

救い主イエスは、ユダヤの最高法院に引き立てられ、そこで、ご自分が神の子であること、神の立てられたメシア=キリストであることを公言しました。それに基づきイエスは十字架へと追いやられます。今日の朗読箇所で使徒ぺトロの身に起こった出来事を通して、私たちは人間の罪深さと弱さを見せつけられます。そしてそれと対照的に、主イエスの神の御子、救い主としての強さを示されています。その強さは人間的強さではなく、私たちが完全により頼むことができる神の強さです。

1.イエスなど知らない、仲間でもない
ペトロがいたのは、大祭司の屋敷の中庭です。そこには屋敷で働くいろいろな人たちがいました。夜でしたから火が焚かれ、ペトロも素知らぬ顔で火に当たっていたのでした。大祭司に仕える女中に、ペトロがイエスと一緒にいたことを指摘されたとき、ペトロはそれを打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と否定しました。あなたが言っていることについて、私は知らないし理解できない、と。 更にペトロは、あの人たちの仲間だ、と言われた時にも、強く否定しました。イエスのことは知らないし、仲間でも何でもない、つまり何も関係がない、と言ったのでした。ペトロは、イエスに反対するとか、敵対するとか言うことは何も言っていません。しかし、関係がない。これはペトロが苦悶の内に口にしたぎりぎりの言葉だったのでしょう。当然彼はイエスを否定などしたくない。イエスに敵対しているとは言いたくない。しかし関係がある、知っている、仲間である、と言うことがわかれば自分も同じように捕えられるに違いない。だから知らない、何のことかわからない、という答えになったのです。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)と、あれほど勇ましいことを言ってはいたけれども、実際、自分の命が危険にさらされるとなると、やはり自分を守る方に動いてしまったのです。私たちはこの出来事を劇の観客のようにして見ているかもしれません。しかし、このペトロのしたことを厳しくとがめられる者は果たしているでしょうか。考えてみれば、ペトロがこのような状況に追い込まれたのは、捕まった主イエスが心配だったからで、もし初めから自分の身に危険を招かないようにするつもりなら、大祭司の屋敷に来て、しかも中庭にまで入ってくる、ということはしなかったでしょう。ペトロもまさか自分とイエスとの関係を問い詰められるとは思っていなかったかもしれません。こっそりとどうなるかを見届けたかったのです。そして、ペトロがこうなったのは、イエスに対する愛が、他の弟子たちよりも強かったからだと言えるかもしれません。だからこそ、危険を冒しても、中庭に入り込んできたのです。彼は事の成り行きを見ようとした、とマタイは書いています(26章58節)。

2.呪いの言葉さえ口にして誓うペトロ
 そんなペトロでしたが、その言葉を続けてみますと、彼はもはや歯止めが利かなくなり、呪いの言葉さえ口にしながら、イエスのことなど知らない、と誓い始めたのでした。その後に聞いた鶏の鳴き声によってイエスの言葉を思い出したペトロは、泣きだしてしまいました。はっと我に返り、主イエスの御言葉を思い出して、自分がいかに主に対して申し訳ないことを言っていたかに気づいて激しい悲しみの感情に襲われたのでした。呪いの言葉を口にして誓う、とは、もし真実を言っていないのなら、自分の身が神によって裁 かれて呪われてもかまわない、という趣旨のことだと思われます。すべての成り行きを知っている私たちは、冷静にこの出来事を傍観できるかもしれませんが、私たちはここに人間の現実の姿を見ていると言えるのです。私たちは、傍観者としての見方をなかなか捨てられないのですが、ペトロの弱さや罪深さを見て、ただ事の成り行きをなぞって行くだけでよいわけではありません。確かに私たちはペトロのようになってはいけない、と言うことはできます。しかしここでもう一度ペトロが置かれた状況を見てみます。するとそれは主イエスの置かれた状況と、実に対象的だということがわかります。主イエスは、公的な権力の下で、「あなたはほむべき方の子、メシアなのか」と問われてはっきりとそれを肯定されました。もしイエスがそれを否認していたならば、メシアとしての務めを全く放棄したことになりましたが、もちろんイエスはそうはなさいませんでした。そして、ユダヤの最高法院という公の場で、他の誰も聞かれることのない質問をされて、証しされたのでした。  それに対して、ペトロの方は日常生活の中で、だれでもが経験するような状況で、自分のことを問われました。ペトロに問うたのは、一緒に火にあたっていた大祭司の家の女中であったり、そこに居合わせた人々であったりしました。しかも人々がペトロに言ったのは、イエスと一緒にいた、ということ、あなたはその仲間である、ということでした。この後、イエスとの関係を疑われたからといって、ペトロが捕らえられたという話は聖書にはありません。ですから、イエスを知っている、一緒にいた、仲間である、と言うだけですぐにどうなるということでもなかったのです。しかしペトロは身の危険を感じて否認したのでした。このペトロが置かれた状況は、今日の私たちに似ていないでしょうか。私たちにも「あなたが日曜日に教会に入っていくのを見かけました、あなたはキリストを信じているのですか、あなたはクリスチャンの一人なのですか」という質問が発せられるのは、日常的なことです。しかしその時に、恐らく今日の私たちはそれで自分の身に何か危険が降りかかって来るとは思わないので、それを肯定することは普通にできるでしょう。しかし、時代や状況がもしも変わって、クリスチャンであることを表明したならば、公的権力に目を付けられることが明らかな時代であれば、そう簡単にはいかないかもしれません。そういう状況を想定してみる必要があります。私たちはペトロのようになってはいけない、ということは確かにそうですが、それだけではすませられないのです。命に関わらないような場面であっても、私たちは主イエス・キリストに属する者である、ということを当たり前のことのように表わしているのかどうか。その点、私たちがわが身を顧みてみる必要があります。

3.罪の赦しを与える福音
 このペトロの否認の話は、マルコによる「福音書」に書かれています。良き訪れの書である、福音書の中で私たちはこのお話を読んでいます。このペトロのしたことについても、私たちはイエスの福音がもたらされた、という知らせの中で聞いています。ペトロは私たち人間の持つ弱さと罪を露わにしました。しかし、それらすべての成り行きを主イエスもまたご存じでした。そして主イエスが復活された後、墓にいた若者=天使は、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16章7節)。これは14章28節で言われていたことです。最初から主イエスはペトロの否認のことをご存じであられ、弟子たちがみな逃げてしまうこともご存じでこのように言われました。イエスを知らない、と言って否認したペトロとも復活の後に、一緒に宣教したガリラヤで会うことになります。そして改めて宣教へと遣わしてくださったのです。全く情けない姿をさらした弟子たちとペトロでしたが、彼らのその罪を主イエスは自ら十字架で償ってくださいました。主イエスを誰よりも愛するがゆえに中庭にまで入り込んで、その結果主イエスを知らない、と言ってしまったペトロに対する主イエスの赦しの恵みがここにあります。
私たちの罪は、本当に悪質なもので、主イエスを十字架にかけるほどのものです。しかしまた、主イエスにつながって、その罪を悔い改める者には、主イエスによる赦しが約束されています。私たちはそこに招かれています。そして、主イエスを知る者としていただきました。そして主は、私たちのことを知っておられます。罪の誘惑に陥ってしまいやすい者、自分の身を守るために主を否認してしまう者。しかし、その者を主は立ち上がらせてくださいます。そして、信仰の告白の言葉も、私たちにくださいます。そればかりか次のようにさえ言われました。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(ルカによる福音書21章15節)。それは聖霊の恵みです(マルコ13章11節)。聖霊が私たちの内にあって語ってくださいます。ペトロは確かにつまずきましたが、後に主は彼を立ち直らせてくださいました。自分自身がどんな言葉を口走ってしまうかすら知らない私たちですが、そういう私たちを主は知っていてくださいます。ペトロは、悔やんでも悔やみきれない、という思いに捕われたことでしょう。それでもペトロを受け入れて赦しを与えてくださる主イエスを、私たちも信頼します。

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