「神の力は地の果てに及ぶ」2018.12.9
 ミカ書 5章1~14節

 今日は、待降節第2主日に当り、救い主イエス・キリストがお生まれになった時に注目された旧約聖書の一つの聖句が記されたこの箇所から神の御言葉に聞きます。私たちが祝おうとしている神の御子、救い主イエス・キリストがどのような方であるかを、今日の私たちにも教えられているのです。

1.イスラエルを治める者
 このミカ書という預言書は、小さな書物ではありますが、1節に記された御言葉によって、非常に大きな光を放っています。預言者ミカは、イザヤと同じ紀元前8世紀の人です。当時のイスラエルの国は、北と南に分かれており、北イスラエル王国と南ユダ王国が存在していました。ミカは南ユダ王国の人々に向かって預言しています。この頃、大帝国アッシリアの脅威が北王国に襲い掛かってきており、人々は不安な状況に置かれていました。武力では全く歯が立たない相手です。そして実際、北イスラエル王国は紀元前722年に首都サマリヤが陥落し、滅ぼされてしまいました。アッシリア帝国は当然南ユダ王国にも侵略の手を伸ばしてきたのですが、神はアッシリアの手から南ユダ王国を救ってくださいました。ミカ書は、このような北王国が滅ぼされようとしている頃、そしてその後にミカが語った預言の書です。
 旧約聖書の預言は、確かに歴史の中で語られましたので、具体的な状況の下でミカも語ったわけです。しかし聖書の預言はただその時代の人々にだけ語ったのではなく、その内容が後の時代にも関わって来る普遍的な面も持っています。ですから、今日の私たちも、このイスラエルに向けて語られた神の御言葉を、自分たちにも語られている御言葉として聞くことができます。神は歴史の中で大昔に力ある御業をなさっただけではなく、同じ力を持つお方として今なお語っておられます。
 まず私たちが聞くべきは、イスラエルを治める者が永遠からおられ、その方はベツレヘムから出ると言われていることです。イスラエルとはここでは民族としてのイスラエルです。しかし、聖書においては、イスラエルという時、純粋に民族としてのイスラエルのことを旧約時代は直接的には指しておりましたが、新約聖書に至って、象徴的に神の民を指して言うようになりました。ですから、イスラエルとここで言われていますが、私たちには関係ないイスラエル民族のことだけを言っているのではないことを知らねばなりません。
 神のもとに招かれ、神の民とされている、今日の私たちにとっても、ここで言われているイスラエルを治める方は、私たちの王となるべきお方なのです。そしてその方の出生は永遠の昔にさかのぼる、と言われています。普通の人間では永遠の昔にまでその存在をさかのぼることはできません。永遠の昔にさかのぼるというのは、どこまでも昔にさかのぼるということで、それはもう神と同じ存在であります。

2.牧者に救われる残りの者
しかし、主は彼らつまりイスラエルを一時的に捨ておかれる、とも言われています。それはイスラエルの歴史の中で確かに起こったことでした。主である神は、イスラエルの背信に対して厳しく罰し、国を他国に引き渡してしまい、神殿すらも壊され焼き払われる、という状況にまで捨ておかれました。しかしそれはいつまでもというわけではない。神がお定めになった時に、神のもとに導かれて帰って来る者たちがいるのです(2節)。その者たちを、先に言われていたイスラエルを治める者が養い、彼らを安らかに住まわせる、と言われています。しかも、神である主の御名の威厳をもって。つまり神の権威を持つお方としてご自分の群れを養うお方です。 この残りの者たちは、この治める方のもとで救われ、平和を与えられます。そして彼らの特徴が記されていることに目を留めたいと思います。三つあります。まず、その残りの者たちは多くの人々の中にあって、主から降りる露のようであり、草の上に降る雨のようです。人々を、あたりを潤すことができるのです。
次にその特徴は、人の力に望みを置かず、人を頼りとしないことです。もっともこれは、社会生活や人間関係の中で人のことを全く信用しないとか、人の助けを借りることを絶対にしないとか、そういうことではありません。命に関わること、救いに関わること、罪とその裁きについて、というような究極の問題について、人の力に頼らない、ということです。彼らは人ではなく神により頼みます。人にはそれなりの力があります。腕力、体力、視力、聴力、知力、瞬発力、持久力、記憶力、判断力、洞察力などなど。しかしそれらには限界があることを私たちは知っています。人ではなくそれらを人に授けてくださった神に頼るのです。
そして三つ目には、偶像にひれ伏すことをしない、ということです。自分の手で造ったものにひれ伏すことはありません。真の神がおられるのであれば、その必要はまったくないからです。

3.地の果てに及ぶ神の力
 今まで、非常に簡単にイスラエルを治める者に養われる者の姿をざっと見てきました。改めて、イスラエルを治める方とは、誰のことであるかといえば、今私たちが過ごしている待降節にあたり、それはイエス・キリストであることは言うまでもありません。イエスがベツレヘムでお生まれになった時、東方から来た学者たちが、星に導かれてはるばるやってきて、ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられるかをエルサレムで聞きました。これを不安に思ったヘロデ王は、学者に調べさせました。すると学者たちは、ユダヤのベツレヘムだと答えます。その根拠が、このミカ書5章1節にあるわけです。
 そしてこの方の力は地の果てにまで及ぶと言われています。ユダヤのベツレヘムでお生まれになった方が、世界中にその力を及ぼし、真の平和をもたらしてくださると言われています。それは今日の私たちにまで確かに及んでいるのです。この方、つまり私たちを救うためにお生まれになった方、神の民を治めるお方こそ、正しく平和だとも言われています。この平和とは、人が築くものではなく、神による平和です。だから、神との間に平和が築かれます。今この世ではなお、私たち人間の罪のゆえに、罪と悲惨の状態にあります。文明はいかにも進歩しましたが、人間の罪の本質は変わっていません。それは人の力では変わらない。それは神がお定めになった神の御名の威厳をもって民を治め救う方でなければ罪と悲惨は取り除かれないからです。しかしこの方により頼めば救われる。神のもとに罪を赦され、永遠の平和にあずかれるのです。そのためにイエス・キリストはこの世にお生まれになりました。その地上生涯の最後は、十字架に向かうものであると神によって定められていました。それを予めご存じの上で、この世に降り、人となって生まれてくださいました。2節の産婦が子を産むときまで、という言葉は、旧約時代の歴史の中では神が御業をなさるその時を出産に見立てて言っているわけですが、私たちにとって、産婦であるマリアがイエスを産んだその時以来、私たちの救いは目に見えるようになりました。その前までは、予告されていたことがこの出産によって現実となったのです。イエスの母マリアがイエス、という救い主を産んだ以上、この世界は決定的にそれまでとは違うものとなりました。神を信じ神に従いたいと願う者が捨ておかれることはありません。私たちの罪の償いを自らしてくださったイエス・キリストがおられます。私たちがこの救い主を信じることができるのも、地の果てにまで及ぶ神の力があるからです。この主の力に信頼しましょう。

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