「すべてを知る主の前で」2018.12.30
 詩編 94編1~23節

 クリスマスを終えると、私たちは何となくまたいつもの生活の流れに引き戻されるような感覚に襲われるかもしれません。クリスマスは、教会にとってはとても大切な記念の行事であり、お祝いする時だからでしょう。しかし私たちは、決してクリスマスを夢見心地の楽しいひと時としたり、世の中の嫌なことを一時的に忘れていられる時にしたりするわけではありません。むしろ、いつもの生活、時には代わり映えのしない、時には煩わしいことが次々起こるこの世の生活の中で、そこにこそイエス・キリストは来てくださったのだ、ということを忘れないように、また、クリスマスを、世から浮かび上がらせてしまわないようにしたいものです。赤ちゃんの救い主イエスを飼い葉桶に見出した羊飼いたちは、神を讃美しながら帰っていきました。その後、彼らはイエスの後の様子を何も聞かずに過ごしていったことでしょう。イエスは、ベツレヘムから遠く離れたガリラヤのナザレで成長されたわけですから。そして30年ほど経ってからエルサレムに来られて、多くの業を行い、十字架につけられた方の話を聞いたことでしょう。そして、あああの時の赤ちゃん、救い主だと言われた赤ちゃんが成長して、そういう道を辿られたのか、と知ったのかも知れません。聖書に後日談は記されませんからわかりませんが、彼らの信仰の歩みは、主イエスに出会った後、続いて行きました。そのことを覚えながら、今日の御言葉に心を向けましょう。

1.全地の裁き手なる神
私たちも主イエスに出会わせていただき、「私の」救い主であられることを教えていただきました。その方を仰ぎながら、今日、またこの礼拝にて神の御言葉に聞こうとしています。この詩編の言葉は、主イエスが誕生されるはるか昔に歌われ、書かれたものです。それに対して私たちは、主イエスがお生まれになったはるか後に生きています。それにも拘らず、私たちはこの詩編から、学ぼうとしています。何を学ぶのでしょうか。神とはどんな方か、神の御心は何か、その御業は何か、そしてその神により頼んで生きることを学ぶのです。
しかし、詩編を学ぶに当たって、私たちが弁えておくべきことがあります。この詩編作者は、神の逆らう者、誇る者、悪を行う者に対する神の裁きを求めています。そして彼らを滅ぼし尽くしてください、と神に願っています。このような願いを、今日の私たちは神に対してすることができるでしょうか。主イエスは敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と命じられましたし、悪人に手向かうな、とも言われました(マタイによる福音書5章44、39節)。しかし主イエスも、律法学者、ファリサイ派の人たちには大変厳しい言葉を告げられましたが(同23章)、それはあくまで、その誤りを糾弾し、指摘するためでした。
ですから、私たちは世に生きている人のことを滅ぼしてください、とまで祈るのではなく、むしろ主イエスが十字架の上で、御自分を十字架につけた人たちの赦しを求めたことに倣うように、導かれています。そのことを覚えつつ、この詩編をみるのです。 まず神は報復の神、全地の裁き手と言われています。報復の神、とだけ言われると少々恐ろしいですが、悪に対して厳格に裁きをなさる正しい裁き手であられます。主は人がこの世でどれだけ好き勝手にしたとしても、すべて見ておられます。7節には悪事を働く者が「主は見ていない、気づかない」と言うだけではなく、神などいない、と言ってのける者さえいます(詩編53編2節)。しかし主は、そのような人間の愚かさをご存じです。そして人が神に対して背くことも、軽んじる発言をしたことも、すべて見ておられます。人に耳や目を与えた方は、当然、すべてを見ておられまた聞いておられます。私たちはそのような神の前にあることを覚えておかねばなりません。

2.幸いな人
しかし、それに対して幸いな人がいる、とこの作者は続けています。幸いな人は、主なる神から諭され、律法を教えていただくのですが、大事な点は次の13節で言われていることです。「その人は苦難の襲う時にも静かに待ちます」。苦難が襲わないのが幸いなのではなく、苦難は襲うのだけれども神を信頼して静かに待つことができる。神はご自分の民を見捨てることはないと知っているからです。それが幸いな人であります。神がおられるのだからこの世で苦難が襲うことはない、というのは聖書の教えではありません。苦難は、神の知らない所から、神も知らない内にいきなりやってくるのではありません。神は全てをご存じの上で、御自分の民にあえて苦難を送ることがあるのです。
同じことは18、19節でも言われています。信仰者もその足がよろめくことがあります。しかし主の慈しみが支えてくださる。その胸が思い煩いに占められることすらあります。思い煩う、というと主イエスが言われたことを思い出します。明日のことを思い煩うな、明日のことは明日自らが思い煩う、と(マタイ6章34節)。また、思い煩いは神にお任せしなさい、とペトロも書いています(Ⅰペトロ5章7節)。信仰者に思い煩いがあってはいけない、思い煩うような信仰者はだめだ、とは言われていません。その思い煩いをどう扱うかが大事なのです。主にお任せすることと、明日のことまで思い煩わないことです。そして主の慰めに心を向ける。主の慰めとは、主が自分と主にいてくださって、自分の味方となってくださっていることです。主の慰めは、魂の楽しみにすらなります。

3.主は知っておられる
 私たちの足がよろめき、思い煩いが胸を占める時でも、主が支えてくださるのは、主がすべてを知っておられるからです。再び11節に目をとめます。愚かな者、無知な者、主に逆らう者、悪を行う者が何を計らおうとも、主はそれがいかに空しいかを知っておられる。だから、主により頼んでいるなら、人を恐れることはないのです。また苦難を恐れることもありません。主は全てを知っておられるからです。
 人が主に逆らうとしても、その人の弱さと頼りなさを主は知っておられます。なぜなら主が人を造られましたから。また、人を襲う苦難も、それらを主は支配しておられます。人を襲う苦難とは何があるでしょうか。災害、病、社会の中での試練、人の悪事による害を被った時、突発的な事故など、いろいろあるでしょう。しかし主なる神の手に負えないことなど一つもありません。ただし、この世で生きている限り私たちには何らかの苦難が襲い掛かることはあります。そうなったとしても、私たちは主に信頼します。主はご自分の民を決しておろそかにはなさらないからです。
 また、主がすべてを知っておられるという時、私たちの置かれた状態も、私たちの心身の特徴も性格も、どれほどの信仰かもご存じです。この詩の作者はまだ知らないことでしたが、私たちが知っていることがあります。それは神の御子が人となられて、人としての弱さを味わってくださったことです。だから、神には人の弱さはわかるまい、と私たちは言うことはできません。主は身体をもってこの世に生きる人間を知っておられます。私たちはそのお方の前で日々生きています。実に人は自分の体一つも、思いのままにすることはできません。どこか一ヶ所が具合悪くなっただけで、もう何も手がつかなくなります。そのような重荷とすらなっている私たちの体をも、主なる神は憐れんでくださって、体を贖い、私たちに苦しみをもたらす根源となった罪から救ってくれます。私たちのことをすべて知る主の前で生きることは、実に幸いです。主は私たちの弱さと罪とを知っておられます。もちろん、私たちに罪から離れよ、とお命じになります。信仰によって強くなりなさい、とも命じられます。しかし私たちは主の前で自分の義を持ち出せません。自分の正しさを盾にして自分を救ってもらえません。しかし主の憐れみと慈しみにより頼むことができます。私たちを教え、諭し、助け、慈しみ、慰める方により頼むのです。それによって救っていただけます。
これほどに主は私たちのことをすべて知っているのに対して、私たちはあまりにも主を知らないかもしれません。だとしたら、私たちの方も、もっと主を知ることができるように祈り求めたいものです。そうすることによって、本当に主の助けと慈しみと慰めと救いが豊かなものであることを知ることになるでしょう。

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