「救い主が与えられた幸い」 2018.12.23
 ルカによる福音書 2章1~21節

 今ここに集っておられる皆さんは、信者であれ、未信者であれ、まだ言葉のわからない赤ちゃんであれ、みなが救い主イエス・キリストとの接点を与えられています。既に信じている方にとっては、それは接点などという程度のものではないでしょう。自分の人生の中で、もはやイエス・キリストというお方なしでは自分はあり得ないということすら言えると思います。しかし、それと同時に、自分だけではなくて、この世界全体も、神が送ってくださった救い主と無関係にあるのではないということを知らされています。そういったことを思い返しながら、今日の聖書箇所に聞きたいと思います。

1. イエスの誕生
 このルカによる福音書は、イエスが当時の世界の中で、どのような時代に生れたのかを記しています。イエスがこの時代にお生まれになったのは、決して単なる偶然ではなく、すべてを支配し計画される神の御心によっています。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、イエスがお生まれになった時は、皇帝アウグストゥスが統治していました。ローマ帝国は、地中海周辺一帯を支配しており、その住民に登録をさせるという勅令が出されました。それぞれ自分の出身地まで行って登録をするので、非常に大変な負担だったと思われます。特に既に身重になっていたマリアにとってはつらい旅だったことでしょう。ナザレからベツレヘムまでは直線距離でも120~130キロメートルはありそうですから、道のりとしては150キロメートルくらいあったことでしょう。ちなみに名古屋から奈良までが大体160キロメートルほどのようです。
 マリアとヨセフは何日もかけて苦労して旅をしてきたわけです。しかし彼らの旅は、神に守られた旅でした。今日から見れば危険がいっぱいの旅だったことと思いますが、マリアからイエスが生まれることになる、と神が天使を介してお告げになったことなのですから、何があろうと彼らの旅は守られました。マリアに対する受胎告知で、天使ガブリエルが言っていました。マリアは男の子を産む、そしてイエスと名付けなさい、と。そしてさらに、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」とも言いました(1章31、32節)。生まれてからどんな人になるかまで、すべて神は見通しておられました。ですから、彼らの旅は今日から見れば危険極まりない、ましてや身重の女性には厳しすぎる旅でしたが、実はこれほど安全な旅は無かったと言えます。神に守られていたのですから。むしろ、実に速く移動できるようになり、便利になった現代社会の方が、危険に満ちているかもしれません。神の守りがなければ。
 とにかく、このように住民登録の勅令があったためにマリアとヨセフは旅をして、そしてちょうどベツレヘムに着いた時にマリアはイエスを産んだのでした。この時間的な流れも全て神は支配しておられました。マリアはベツレヘムでイエスを産みました。宿屋には彼らの泊まる場所がなく、飼い葉桶のあるおそらく家畜小屋で生まれたのでした。今、教会の玄関を入ると、正面にイエス誕生の時の様子を描き出した人形のセットが置いてあります。はるか二千年の昔に生れた一人の男の子の誕生がこれほどまでに世界中に知らされ、祝われている。このことに思いを巡らしたいものです。

2.すべての民への大きな喜び
イエスがお生まれになった時、ベツレヘムの町から離れた所で羊を飼って野宿していた羊飼いのもとに、主の天使が近づいて彼らに救い主の誕生を告げました。天使が告げたことはまず、民全体に与えられる大きな喜びであるということでした。民全体というよりもすべての民、と言った方がふさわしく、救い主の誕生はあらゆる民に、すべての人々に与えられる大きな喜びなのです。では、神がくださる喜びとは一体どのようなものでしょうか。私たちはどのようなことに対して喜びを感じるのでしょうか。それは何にしても、まず自分に関わりのあることについて私たちは喜ぶのだと思います。自分の買った宝くじが当れば誰でも喜ぶでしょうが、関係ない誰かに当っても別に特に喜びません。しかし、たとえば遠い国で戦争が終結した、それまで虐げられていた人々や子どもたちに平和が戻った、というニュースを聞くと、それは喜ばしいことだと感じます。世の中が平和になることを私たちは喜ぶのです。つまりこの世の中には人を悲しませるもの、出来事が溢れているからで、それは突き詰めれば人を死に追いやります。戦争も、事故も、病気も、自然災害も、人災も、また人間の無関心や不平等や意地悪な心も時に人を死に追いやります。そういうものが少しでも減っていくなら、良いと思うのです。
しかしそれが世の中においてなかなか実現しないので、不平不満や嘆きや悲しみが積み重なって来る。そしてその状態から抜け出そうとして手段を選ばずに解決しようとすると、力づくで必要なものを手に入れようとする。そうすると争い、戦い、ひいては殺し合いにさえ発展する、という構図があります。しかし、そういう非常手段や力づくではどうしようもないもの、たとえば病気や寿命による死、については黙って受け入れるしかありません。そういう状態の中で私たち人間はずっと暮らしてきました。その最後の壁である死は、どうしても避けられないので、そこに至るまでは何とか充実した人生を送ろうとする。何かを残そうとする。あるいは小さな喜びを見つけてささやかな楽しみを重ねて一生を終えるのを待つ、ということになるのです。しかし神はそのような世の中に生きている私たちに、光を投げかけてくださいました。救い主をこの世にお送りくださって、この方によって、私たちに真の喜びを与えようとしてくださったのです。そして、この救い主によって初めて、先ほど言ったような、私たちを喜ばせず、却って苦しめる様々なものがこの世にあるとしても喜べる、真の喜びをくださるのです。つまり、この世にあって私たちを悩ませ、苦しめ、悲しませるものは、私たちを生きている時も死んでからも、完全に私たちを飲みつくして滅ぼしてしまうことはできません。この救い主の前では。

3.救い主が与えられた幸い
さらに羊飼いたちに天使が告げたことは、その救い主は飼い葉おけに寝かされている、ということでした。こんな珍しいしるしは、羊飼いたちにとって見つけやすいものだったでしょう。そして、天使に天の大軍が加わって神を賛美しました。天では神に栄光があるように、地上では神に従う人に平和があるように、という賛美です。栄光こそ神にふさわしい。平和こそ、神に従う人にふさわしいのです。そしてその平和は神が世に送られた救い主が実現してくださることです。人と人との平和の前に、神と人との平和を確立してくださいます。私たちが神の御前に立てるように、神の子どもとなる資格を与えるために生れてくださるのが神の御子イエスです。
さて羊飼いたちは、こうして大きな喜びを告げられ、飼い葉おけに寝かせてある幼な子のしるしを教えられたので、急いでベツレヘムの町へ行きました。彼らはマリアとヨセフ、イエスを探し出し、天使が告げたことを人々にも知らせました。彼らは、救い主についての宣教を世界で最初に行なったのでした。彼らは、すべて天使の話してくれたとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。書いてはありませんが、彼らは喜んで帰って行ったのです。なぜなら神を賛美する、ということは必ず喜びを伴うからです。神を賛美しているといいながら喜んでいない、というのは矛盾したことです。神による喜びは賛美を生み、人が賛美を献げるのは、喜びの源が神であると知っているからです。
時代と場所、状況は違いますが、実は私たちも羊飼いと一緒です。神の導きによって救い主のもとへと私たちも連れてきていただきました。あなたがたのための救い主だ、と私たちも言われています。そして私たちは神の言われたことは皆その通りである、と信じています。だから神を賛美します。たとえこの世がどんなに悲惨で、空しく、悪がはびこり、悲しみと嘆きが絶えなくとも、そのただ中に救い主イエスは来てくださいました。どんなに危険に満ちているように見えても、旅は完全に守られ、安らかに宿る場所がなくても、飼い葉桶は聖なる神の御子の寝床になり、たとえどんなに貧しく、野宿を強いられる生活の中でも、最初の宣教者になる特権が伴っていたのでした。
  そうだとしたら、今日の私たちも、自分の生活状況を失望する必要など全くありません。病気や病弱の体でも、神に守られています。仕事や人間関係で常に悩まされているとしても、一日一日、神によって支えられ、助けられています。なかなか落ちつける場所や時間がなくても、そこに神の御子、救い主イエスは伴ってくださっています。たとえ目には見えなくとも。姿は見えなくても、羊飼いたちのように、出来事を見ることはできます。信仰の目をもって見るのです。救い主が生まれてくださった。これにより私たちの罪と、それがもたらす悲惨と死とは、もはや滅ぼされています。救い主イエスが十字架で全て贖ってくださったからです。そしてイエス誕生の前であろうが、後であろうが、神を呼び求めるすべての人を救ってくださいます。ですから、私たちがこの世に生きているということは実は喜ばしく幸いなことなのです。既に救い主がきてくださったのですから。だから私たちは、自分とその周りを顧みた時に、たとえ何があるとしても、私には救い主がおられ神が顧みてくださっていると言える。神に勝るものはどこにもないのですから、私たちは神の力をいただいて、神の国へ向かう歩みを続けて行けるのです。

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