「主のために用いる」2018.12.2
 マルコによる福音書 14章1~9節

11月中はマルコによる福音書から離れてお話しをしてきましたが、今日は再びこの福音書に戻って、神の御言葉に聞きたいと思います。今日から待降節(アドヴェント)に入り、救い主イエス・キリストのご降誕を記念し祝う時を迎えました。私たちのためにこの世にお生まれになった救い主のことを思い巡らすこの時期ですが、マルコによる福音書はイエスの受難と十字架の記事へと向かっていきます。イエスの御降誕と十字架への道。この両方を心にとめて待降節第1主日礼拝を献げましょう。

1.イエスを殺す計略
朗読した箇所はイエスが捕えられる少し前の所です。ユダヤの指導者である祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうとする計略を企てています。ユダヤ人にとって重要な過越しの祭りとそれに続く除酵祭の2日前のことでした。イスラエルの民が奴隷として苦しめられていたエジプトからモーセに導かれて脱出したことを記念して祝う祭りが過越しの祭りです。そしてエジプトを脱出する際、パン種を入れないで焼いたパンを急いで用意して出発したので、やはりそれを記念して過越しに続いて祝うようになったのが種入れぬパンの祭り、つまり除酵祭です。
そのような祭りを迎えるに当たり、祭司長や律法学者たちはイエスを殺そうと思っていました。しかし民衆が騒ぎ出すことを恐れて、祭りの間はやめておこう、と彼らは考えました。そのような彼らが考えているのと並行して、イエスの12弟子の一人であるイスカリオテのユダもまた、イエスを祭司長たちに引き渡そうとして出かけて行こうとしていました。彼らから金をもらう算段だったのです。この両者について書かれている記事の間に、一人の女性についての話が挟まれています。この前後に書かれている、イエスを殺そうとする人たちの行動とは非常に対照的であることがわかります。

2.高価なナルドの香油
 イエスはべタニアという村でシモンという人の家におられました。一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油が入った壺を持ってきて、イエスの頭に注ぎかけます。ユダヤでは、賓客に香油を注ぐということが行われていました。ナルドの香油は、インドのヒマラヤ原産の植物の根から取った高価なものです。彼女は壺の口を割って、一気にイエスの頭に注ぎかけます。その香りが部屋中に満ちたことでしょう。するとそれを見ていた人たちが憤慨したのでした。そこにいた人とは、マタイによる福音書によれば弟子たち、ヨハネによる福音書によれば、弟子の一人であるイスカリオテのユダでした。彼は財布を預かっていて、中身をごまかしていたからだとヨハネは書いています(12章6節)。しかし他にもこれをもったいないと思って憤慨した弟子たちが何人かいたのです。
人間は高価なものが壊れたり、汚されたりすることに対して非常に敏感なもののようです。憤慨した者の言い分は、この香油を300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施せたのに、というものでした。300デナリオンというと、1デナリオンが当時の労働者の1日の賃金と言われていますから、約1年分の賃金に相当する金額になります。相当な金額です。この女性は、もちろんイエスのことを知っており、これまでにしてこられたことをずっと見て来たわけで、そのイエスに今この時、たとえどんなに高価であるとしても、この香油を注ぎたかったのでした。
 彼女のしたことに憤慨した者たちは、その香油を無駄使いした、と断言しています。たとえイエスに対してであっても、こんなにたくさんの高価な香油を注ぐのは無駄であると。確かに、裕福な人がその持物を無駄に使ってしまったことに対して、もっと有効に用いれば貧しい人を助けることもできたのに、と言うのであれば、それはもっともな言い分に聞こえます。貧しい人を助ける、ということは、大変良いことですから、いわば正論です。しかし、その正論をどんな時でも当てはめることができるかが問題です。また、その正論を言うのは簡単ですが、では、果たしてそれをどのような心で行うか。これも大事な問題です。私たちはこれらのことを、このお話から教えられます。しかも、主イエスは今日の時代に生きている私たちも、イエスに対してどうするのか、ということを問われているのです。

3.イエスに良いことをする
さて、この女性のしたことを、周りにいた人たちは厳しくとがめましたが、主イエスの見方は全く違いました。イエスは、私のためにこんな高価な香油を使わないでよろしい、貧しい人に施しなさい、とは言いませんでした。主イエスは、単にこの女性の好意を無にしてはならないからこう言われたのではありません。今この時に、この人だけが深く悟っていたことがあり、この人しか思いを致さないことで、自分にできる限りのことをしたのでした。
主イエスがこの女性について言われたことは、おそらくそこにいた誰も考えなかった内容だったでしょう。貧しい人たちはいつも一緒にいるからしたいときに良いことをしてあげられる。しかしイエスに対しては今この時しかなすことができない。それを彼女はしたのだから、それをとがめてはならないと。貧しい人に施すのは確かに良いことです。しかしそれは絶対的なことではない。ましてや、ヨハネ福音書が明らかにしていたように、ユダが自分の悪事を覆い隠すために、わざわざ施しのことを持ち出して、良いことを考えているふりをするのは論外です。私たちは、使徒パウロが書いた有名な言葉を知っています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(Ⅰコリント13章3節)。たとえ三百デナリオンで香油を売って貧しい人に施し、慈善の業をなした、と思って自ら誇っても、そこに本当に貧しい人々への愛がなければ何の益もありません。それは、正しい動機を持たずに外見だけ正しいと見える行いをする、ということです。
 それに対して、この女性には、主イエスへの愛がありました。彼女は、この後イエスの身にどのようなことが起こって来るかをどれだけわかっていたのか。それはわかりません。もしかすると、指導者たちがイエスを殺そうとする動きを察して、この方の身に危険が及び、捕えられてしまうのでは、という思いがあったのかもしれません。しかし確かなことは、イエスを本当に尊いお方、神の御子と信じて、この方にはどんなに高価な香油であっても、それをお献げすることはちっとも惜しくないと思ったのです。彼女にとっては、それは決して無駄使いではありませんでした。
 そして、その行動が、これから十字架の死に向かって行き、やがて確かに墓に葬られることになるイエスに対する葬りの準備となったのでした。そしてこのことは福音が宣べ伝えられるところでは、この人の記念として語り伝えられるのです。ですから彼女のしたことは、主イエスは予め見通しておられました。そして主イエスが言われた通り福音は世界中で宣べ伝えられ、彼女のしたことはこうして福音書にはっきり記され、語り伝えられてきました。
 この女性がなしたことは、私たちにも二つの問いかけをしています。一つは、私たちは善い行い、例えば施しをする、というような正論の陰に隠れて、本当に愛をもって業をなすことがおろそかになっていないかということ。もう一つは、今、この世に生きて主イエスを信じている私たちは、主イエスに対してできる限りのことをしているのだろうかということ。この女性のしたことのように、私たちのなす一つ一つのことは、いちいち人々に語り伝えられるわけではありません。しかし、イエスは見ておられます。どんなに小さなことであっても、またそれがどんなに小さな思いであっても、愛を持ってなされたものを主は見ておられます。傍から見たら、毎週教会にいって礼拝をしているのは、時間を無駄にしていないか。稼いだものから献金しているのは、お金を無駄にしていないか。教会を維持するために献金するなら、災害で被害を被った人々のために寄付した方が良くはないか。教会のために地味な事務的な奉仕を続けるのは無駄ではないのか。いくらまいても反応がないチラシをまたまくのは時間と労力の無駄ではないのか。立派な会堂を建てるよりも、事前事業に費やすべきではないか。考え出したらきりがないほど、無駄と見られてしまうかも知れないことはいろいろありそうです。しかしそうではない。主イエスを愛する者の道があるのです。
 そして忘れてならないのは、貧しい人々はいつも一緒にいるのでしたいときに良いことをしてやれる、と言われた主の御言葉です。一緒にいてもしたいときに良いことをしてあげているだろうか、と問われてもいます。ここからわかるのは、貧しい人たちへの施し自体は忘れてはならないけれども、私たちには主イエスのために、ここぞという所で用いるものがあるという点です。それは賜物としての才能、あるいは金銭、時間、労力等。正論を盾にしてここぞという所で主に献げるものを後回しにしたり、おまけのようにしてしまうことはできません。そしてこの女性には打算のようなものが全くありませんでした。こんなことをすれば自分はほめられるだろうという目論見はなく、ただ単純に主イエスに献げたかったのです。その心を私たちの心とさせていただけるように祈り、待降節に当り、自分には主のために用いる何があるであろうかと顧みる時期としましょう。

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